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2020年7月19日 (日)

念仏の信心も信心正因称名報恩の意味も知らない相伝もなきしらぬくせ法門

念仏往生」は蓮如上人も仰っていますが、それと「信心正因称名報恩」との関係がどうなっているのか、よく判るのが『御文章』3帖13通です。
少し長いですが、全文載せておきます。

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

このこころえのとほりをもつて、すなはち弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがたとはいふべし。かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは、さてもかかるわれらごときのあさましき一生造悪の罪ふかき身ながら、ひとたび一念帰命の信心をおこせば、仏の願力によりてたやすくたすけたまへる弥陀如来の不思議にまします超世の本願の強縁のありがたさよと、ふかくおもひたてまつりて、その御恩報謝のためには、ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり。

このうへには後生のためになにをしりても所用なきところに、ちかごろもつてのほか、みな人のなにの不足ありてか、相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり。よくよくおもひはからふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

前段は、これまでに度々取り上げたところで、信前信後を問わずに、法律・倫理道徳の善に心がけて、往生のためには雑行・雑善を捨てよとありますので、真宗における善の扱いについて明確にされています。
問題は、「内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」が何を意味しているかです。当然、信心のことですが、このようになった人のことを中段で、「弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがた」と仰り、その信心を「かくのごとく念仏の信心をとりて」と仰っていることです。

親鸞会の会員にとっては気が付かないことでしょうが、「阿弥陀如来を一心一向」が念仏のことを指しているのです。これまでにも述べたように

善を捨てよ=念仏一行

ということですから、「阿弥陀如来を一心一向」になったことを「念仏行者」「念仏の信心」と仰っても手紙を読んだ同行にとっては普通に理解できたことなのです。

念のために言っておきますが、信後の報恩念仏のことではありません。なぜなら、「かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは」の後に報恩念仏の説明があるからです。

ここまでをまとめると、

・往生と善とは無関係
・往生のために善を捨てたならば念仏一行になる
・信前に念仏一行になった行者が「阿弥陀如来を一心一向」の信心を獲て「念仏行者」となる
・「阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」のことを「念仏の信心」という
・信後の念仏は御恩報謝の念仏となる

往生のための善の勧めは論外ですが、信前の念仏を否定されたのではなく、念仏一行となった行者の「念仏の信心」を蓮如上人は強調されているのであり、信心と念仏とは密接不離の関係にあるということです。

蓮如上人が「念仏往生」と仰っているのはこういうことであり、「信心正因称名報恩」の意味もここから判ると思います。

以上のことを理解できない親鸞会などを蓮如上人は、「相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり」と厳しく非難されているのです。

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コメント

「ノストラダムスの大予言」の著者の五島勉氏が亡くなったそうです。年齢は奇しくも高森顕徹氏と同じ90才でした。本の内容は1999年7月に人類が滅亡するというもので学生時代に大いに恐怖を覚えたものです。私は本を読み、この本を原作とした映画まで見に行ってしまいました。結局は人類の滅亡は起こらず予言は外れたわけですが、この終末論がオカルトブームの到来を招き、オウム真理教隆盛の遠縁になったとも言われています。親鸞会に入会する学生なども人類滅亡に対する厭世観が引き金になった人もいるかもしれません。

私は五島勉氏、高森顕徹氏という同年代の二人に「人類滅亡」「必堕無間」と脅されてしまった訳ですが、幸いに寸でのところで人生を踏み外すまでは行きませんでした。
太平洋戦争を経験して、焼け跡の中から「一旗揚げてやろう」という人の中には多くの人を恐怖感で扇動して、商売につなげた人もいるということですね。同類の二人と思いました。

投稿: 園児 | 2020年7月22日 (水) 10時54分

園児様  

ノストラダムスの予言を信じて親鸞会に入った人は確かにいました。
現在のコロナもそうですが、不安を極端に煽られるとついつい信じてしまう人が出てきてしまうものです。
凡夫の浅はかさです。

投稿: 飛雲 | 2020年7月22日 (水) 19時54分

質問がいくつかございます。

親鸞会では、念仏を称えるなと仰っているのでしょうか?この間、その親鸞会の講座に参加してみたところでは、普通に念仏も宿善が厚くなる、行いの一つだと聞いたのですが。ちょっと分からなくなってしまいました。

また、念仏のというものはただ唱えているだけで助かるのでしょうか?
やはり、弥陀に対する疑いを完全に失くしたの念仏でなければ駄目なのでしょうか?

投稿: ハセー | 2020年7月25日 (土) 09時52分

ハセ―様

親鸞会に長くいた人なら知っていますが、以前は信前の念仏は無意味なものとして教えられてきました。ところが、ここ10年余りの教義批判に堪えられなくなって、親鸞会は信前の念仏を”宿善”を厚くする行と言い始めたという経緯があります。したがいまして、現在では”宿善”を厚くする行の1つとして念仏を推奨するということになっています。もちろん、その考え方も間違いであり、聖教に根拠のない苦し紛れの創作教義です。

信前の念仏は自力の念仏ですが、仰る通り疑心の無い他力の念仏でなければ救われません。
ですから他力の念仏を善知識方は勧められているのですが、では自力の念仏は以前の親鸞会のように無意味かと言えばそれも違います。自力の念仏とは他力の念仏の前にある行ということで自力の念仏から他力の念仏へと入ることが一般的です。善知識方はほとんどそうでしょう。
なぜなら、疑心とは「念仏を称えて必ず往生できる」と信じ切れていないことですから、少なくとも「念仏を称えて往生できる」と浅くでも信じていない人が「念仏を称えて往生できる」と疑いなく信じることには普通はなりません。

ここを理解できれば、”宿善”という概念も間違いです。称えた念仏の回数や年数で疑心が無くなるのではありません。心が「念仏を称えて必ず往生できる」と定まるのは、親鸞会の好きな”一念”ですから、”宿善”などという多念ではありません。

投稿: 飛雲 | 2020年7月25日 (土) 10時15分

また質問、失礼させていただきます。

自力の念仏から他力の念仏に入るというのは、弥陀に対する疑いが晴れた時なのですよね?
疑いが晴れるにはどうすれば良いのでしょうか?

念仏を雑念とかを混えずに真剣にやっていたら、そのうちに一念の時が来るということなのでしょうか?


投稿: ハセー | 2020年7月25日 (土) 11時11分

『浄土和讃』には

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

とあります。
雑念をまじえない自力の念仏を「定心の念仏」、雑念をまじえる自力の念仏を「散心の念仏」といいます。
この2つを併せて「定散自力の念仏」と親鸞聖人は仰っています。

そんな自力の念仏でも20願の果遂の誓いによって、18願の他力念仏に阿弥陀仏によって転入させられるということです。

>念仏を雑念とかを混えずに真剣にやっていたら、そのうちに一念の時が来るということなのでしょうか?

言葉の上では、この通りと言えますが、自力の念仏のままで良いのだ、ということを親鸞聖人蓮如上人は厳しく誡められています。
つまりは、今自力の念仏ではあってでも他力の念仏になることを強く願っていなければ、いつまで経っても自力の念仏のままです、と教えられているのです。

投稿: | 2020年7月25日 (土) 11時22分

繰り返し質問してすみません。
以下、長文失礼します。

私が聞いた話によると、弥陀の18願は無条件で弥陀の南無阿弥陀仏を与えて極楽行き間違いなしの幸福にするという願ですが、私たちは弥陀の本願を聞くと必ず疑惑が生じて、弥陀からの南無阿弥陀仏を拒否してしまう。
弥陀は、極悪人の私たちを助けるために、南無阿弥陀仏の名号を作ったが、私達がそのことを聞くと「自分はそんな極悪人でないと思う」「本当に助けるのだろうか?」という疑惑が出てくる。

だからそんな私たちの疑いの心を晴らして素直に南無阿弥陀仏の名号を受け取る為の道程が三願転入だと聞いています。

19願では、善を勧めてやらせる事で本当に善のできない自分だと知らせる。例えば布施でいうなら、布施は「自分ではなく他人の幸せを思うような気持ち」で行う善だが、私たちの本性は我利我利で必ず自分の利益のことを考えてしまうので、人に親切すると「見返り」を求める心が混じってしまう。当然、そんな毒混じりの善では弥陀が言われるような善を出来たことにはならないので、実際にやることで、「善が出来ない、悪もやめられない」自分だと知らされて、19願の救いは我々には無理だと気付かされる。
つまり自分が煩悩具足の悪人で、自分で行うような善で極楽行きなど到底不可能だと知らされる。

その次に目が行くのが弥陀の念仏となる。
自分の善では後生の解決が無理でも仏様の作った念仏ならば何とかなるだろうと、弥陀の20願に向く。
念仏そのものは、20願に進む以前もやっているが、ただ聞いて「自分は悪人で南無阿弥陀仏の名号でしか助からないことに納得した時に称えるときの念仏」と聞くだけでなく、実践を通して「自分は悪人であり、自分の善では絶対に助からない」と知らされた時に称える念仏とでは、念仏を称えるときの真剣さや必死さが変わってくる。

しかし20願まで進み、念仏を必死に称えても必ず雑念が混じる。「定心の念仏」でも「散心の念仏」でも結局、一心不乱には称えられない。
心があっちに行ったりこっちに行ったりで、1方向に定まらない。一心不乱には念仏を称えられない。

やがて「念仏さえも無理な自分」に気がつかされて、「何とかすれば何とかなれる」という心が完全に廃った時に18願に転入して救われる。

20願は果遂の誓いなので、必ず18願に転入できる。
しかし、19願を通ってない人が称える念仏と通った人が称える念仏では念仏を称えるときの重みも真剣さも全然違ってくる。自分が悪人だと知らされたことに対する深みが実際にやった人と聞いて納得しただけの人とでは違うから。
だから必ず19願通りに善を実行して自分の姿を知らされる必要がある。


だから、念仏も勿論やらなければいけませんが、善もやらないと進めないと私は聞きました。
「勿論、善をやってもそれで、救われるのは無理だが、実際にできない自分だと知らされるためには実践が必要になる」
これを聞いて私は成る程と納得できたのですが、
飛雲様としては、間違えた考えだと御思いなのでしょうか?

投稿: ハセー | 2020年7月25日 (土) 12時33分

完全な間違いです。

まず、19願をしなければならない、という教えは親鸞聖人の頭には全くなかった発想です。
親鸞聖人が仰っているのは、

19願は聖道門に行き詰って聖道門を断念した人を浄土門に導くための願

と仰っています。つまり、一般の我々は聖道門を志そうという気もないのですから、最初から対象外です。

次に、全人類が極悪人という発想も、親鸞聖人には全くありません。極悪人とは、これまで雑毒の善もしたことがないし、する気もない、五逆の罪人を指しています。ということは、聖道門を目指している人は、雑毒の善ができるし、する気もある人なので、極悪人ではありません。では一般の人はどうかと言えば、ハセ―さんも仰っているように、雑毒の善をしているので、極悪人ではありません。
第一、歴代の善知識方でご自身のことを極悪人とはどなたも仰っていません。
仰っていることは、
極悪人【でも】救われる
であって、すべての人が極悪人であるはずもないです。
龍樹菩薩は初歓喜地までさとられました。そこまで善をされた菩薩ですから、龍樹菩薩を極悪人だなどというのは、世界中の仏教徒では親鸞会だけです。
善導大師も定善のできた方です。
法然上人は、愚痴の法然房、十悪の法然房とは仰っても、五逆の法然房、極悪人の法然房とは仰っていませんし、それどころか、
われら罪業おもしといえども五逆をばつくらず
とまで仰っています。

最後に、念仏ですが、念仏さえも称えられない、などとどこの聖教に書かれてあるでしょうか?
そんな珍しい教えは、日蓮系の宗派にしかありません。
易行=念仏
ということは御存知かと思いますが、行じ易い、つまり、誰でも称えられるのが念仏という行です。

三願転入というのは、親鸞聖人が教行信証の化土巻にちょっと書かれたものであり、他の善知識方は全く仰っていないし、親鸞聖人の他の著書にも全く書かれていない、いわばどうでも良い内容なのです。

最初にも書きましたが、19願が聖道門を断念したひとのための願ですから、親鸞聖人ご自身の体験を仰ったに過ぎない文が、なぜ全人類共通になるのか、その理屈があるなら親鸞会に説明してもらったら良いでしょう。
できないですから。

なお、10年前にmixiという今では廃れたSNS上で、この三願転入についての法論が行われました。
結果は、親鸞会の大惨敗です。
上記の内容を突かれて、高森顕徹会長が絶句し、逃亡し、mixiのトピックスの管理人であった親鸞会会員に命じて、法論自体を削除しました。
削除したと言っても、当然いろいろなところに記録が残っています。

このコメント欄で詳しく説明するのは難しいので、この後、エントリーで詳しく解説しますので、それを読んでください。

投稿: 飛雲 | 2020年7月25日 (土) 12時57分

質問、再々再度失礼します。
19願を通らなくて良いとのことですが、
それはつまり20願通りに念仏を自力の念仏から他力の念仏になるぞという意思で称えれば、やがて救われるということなのでしょうか?
もし、救われた場合は救われたことがハッキリするのでしょうか?
また、謗法罪や五逆の者も救われるのでしょうか?弥陀の本願の唯除五逆誹謗正法とあったので気になりました。

投稿: | 2020年7月25日 (土) 13時56分

>それはつまり20願通りに念仏を自力の念仏から他力の念仏になるぞという意思で称えれば、やがて救われるということなのでしょうか?

親鸞聖人がそのように仰っていますので、そのように受け取られて結構かと思います。

>もし、救われた場合は救われたことがハッキリするのでしょうか?

この「ハッキリ」を親鸞会の言う意味で言っているならハッキリしません。
救われたのが判るかどうかという意味ならば、判りますので、判ることを「ハッキリ」と言われるならばハッキリします。
親鸞会の「ハッキリ」は、他教でいうところの「神の啓示」ですから、そんなものは真宗にはありません。


>また、謗法罪や五逆の者も救われるのでしょうか?弥陀の本願の唯除五逆誹謗正法とあったので気になりました。

これについては信巻で詳しく教えられていますし、浄土門の重要なテーマとなっています。
簡潔に説明すると、

謗法の者は絶対に救われませんが、五逆の者は救われます。
ただし、謗法の者が心を改めて謗法でなくなったならば、救われることがある。
なお、謗法とは仏はおられない、仏の説かれた教えもない、と仏教を完全に否定するもののことですから、曲がりなりにも仏教徒であるならば、謗法の者ではありません。つまりは、謗法の者とは外道の信者とほぼ一致し、外道の者は絶対に救われないが、外道の者が仏教徒になったならば救われることがある。

こういうことです。

投稿: 飛雲 | 2020年7月25日 (土) 14時26分

失礼します。2点、質問がございます。


雑念をまじえない自力の念仏を「定心の念仏」、雑念をまじえる自力の念仏を「散心の念仏」とありますが、これは、散心の念仏よりも定心の念仏の方が推奨されているということでしょうか?


「救われたことがハッキリする」ということについてですが、救われたかどうかが判るという意味ではハッキリするが、「救われた瞬間がハッキリする」ですと一念覚知の異安心だから間違い、ということでしょうか?

投稿: | 2020年7月26日 (日) 14時04分

1.他力の念仏を推奨されています。定心の念仏も、散心の念仏も推奨されているのではなく、他力の念仏を目指しながら結果的に定心・散心の念仏になるのであって、定心の念仏が推奨されているわけではありません。

2.そういうことです。

投稿: 飛雲 | 2020年7月26日 (日) 14時08分

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