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2020年7月

2020年7月29日 (水)

三願転入に対する親鸞会の妄想2

とくよしみねさんからのコメントがありましたように、8月29日に愛知県刈谷市で勉強会を開催予定です。
詳細は
とくよしみねの「なぜ生きる」
で確認して、参加を希望される方は、とくよしみねさんにメールで連絡をしてください。

こういう時期で人数制限があり、当日突然参加ということは難しいと思われますので、事前に連絡をお願いします。

さて、高森顕徹会長は18願の「唯除五逆誹謗正法」を「十方衆生」の実機を顕わされた箇所として説明していますが、出鱈目です。結論を先に言いますと、親鸞聖人の教えを真面目に聞いている皆さんは、五逆でも謗法の者でもありません。
唯除五逆誹謗正法」の直接の解釈は『尊号真像銘文』にしかありません。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。
つまり、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。
要するに、「十方衆生」の中に五逆誹謗正法の者がいるという意味にしかなりません。
前回も述べましたが、19願の「十方衆生」は聖道門の行ができる人であり、聖道門の行のできない我々は19願の「十方衆生」には含まれていないのです。

では、「唯除五逆誹謗正法」が「十方衆生」の実機、機の深信だというのは、高森会長の創作かといえば違います。そんな高度な創作ができるほどの知恵は高森会長にはないでしょう。
もうお判りかと思いますが、大沼法竜師からのパクリです。
『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』にはこのようにあります。

 本願寺の総長を始め勧学のお歴歴から頭の切り替えをやらなければ真宗の復興は望めない。君達は第十八願や成就の文を有難がって見て居るのであって十八願の身になる事を忘れて居るのだ、至心信楽の文に陶酔し、至心に廻向せしめ給えりに酩酊して麻痺状態となり、阿片やヒロポンに中毒されて萎靡沈滞して活動能力を失うて居るのだ、第十八願の文を見て自分は至心信楽己を忘れて乃至十念の称名を称えて居るから死にさえすれば往生に間違いはない、仏様が若し生れささずんば正覚を取らずと仰せられたのが、既に十劫の昔に正覚を成就して居らるるから十劫の昔に助かって居るのだと安心して居るが、君達は文面を見て裏面を読んで居ないのだ。唯除五逆誹謗正法とは誰の事かい、勧学だと威張って居る君達の事だぞ、除かれて居るとも知らずにのさばりかえって居るが、それだから開発の一念を知らないのだ、若不生者不取正覚とは生れさすとは死後の事しか知らないのだろう、心命終を忘れたか、君の逆謗の屍を今心命終ささなければ正覚を投げ出すぞと言うことだよ。成就の文にしても至心に廻向して貰ったか、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てりと有るが、三千世界の果報者は自分一人と言う満足が有るか、観念の遊戯だけして居るのだからそんなはっきりした事は有るまい、何を廻向されたか、上に向えば法体の大行、下に向えば当果決定、誰が頂くのだ、諸有衆生、その腹底は、唯除逆謗、おいおい君達、素直に聞いて居ればよいと言うような対岸の火事のような話ではないぞ、君が邪見驕慢の逆謗の屍ではないか、その機に久遠劫から付き纏い、至心に廻向し給いいて聞即信の一念に法体の大行を全領し同時に住不退転の当果を決定さして頂くのだが、文面を読んで眺めて通って居るのだから何とも有るまい、これが実地に諦得出来たのなら信前信後の水際鮮かに今こそ明らかに知られたりと大慶喜せずには居られないのだ、その初起の一念を信一念と名前を付けるのだ、時尅に何の関係が有るのだ、味に用事が有るのだ、本当に大満足の出来た人なら実時は判らないが仮時ならあの時であったと言えるのだ、君達にはあの時もこの時もないのだ、御経やお聖教を読んで通って見て感じただけだから自分の実機とは無関係だから観念の遊戯に過ぎないのだ、勧学で有りながら実地の体験がないのだから、晴れたのやら暮れたのやら、水際もなければ角目もない、……

当時の本願寺派勧学を批判した内容です。当然ながら、大沼師の味わいであり、聖教上に根拠のあることではありません。

高森会長は、大沼師の独特の味わいと聖教の内容との区別が全くついていません。なぜなら、聖教を読んだことがないからです。

「十方衆生」=全人類

というちょっとおっちょこちょいな解釈をしているのも、すべて、聖教を読んでいないことが原因です。

なお、私は聖教に書かれてあることをそのまま述べているに過ぎませんので、私の言っていることが間違いだと反論するのであれば、それは聖教が間違っているか、もしくは聖教の解釈が間違っていることを証明してください。

味わいと聖教上の根拠とは違いますので、その程度の分別はもってもらいたいものです。

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2020年7月26日 (日)

三願転入に対する親鸞会の妄想1

10年前にmixi上での三願転入の法論が行われました。結果は、高森顕徹会長の大惨敗で、逃亡の後、トピックスを管理人に削除させるという、親鸞会史上最悪の結末でした。
これを見た親鸞会会員は、親鸞会を辞めて、高森会長の評価は地に堕ちました。この屈辱を晴らすべく書いたのが『なぜ生きる2』でした。その内容は、mixiでの法論そのままで、成長も進歩もなく、当然ながら、退会者から集中砲火を浴びた上、それまで親鸞会のことを知らなかった真宗10派の関係者に、高森会長と親鸞会の無知と出鱈目創作教義が広く知らされる結果となりました。現在、『なぜ生きる2』は、親鸞会内部でも話題にされることがなくなっています。

昨日、三願転入についてコメントしてきた会員らしき人がありましたので、少し解説しておきます。

『なぜ生きる2』10章に

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。

以下は、その文証である。

然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                              (『教行信証』化身土巻・本)

mixiでも最初に出してきた高森会長の完全な妄想です。

まず学問的な知識として。

半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』に、子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、とあります。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
権実」とは、権教と実教のことです。満字教(大乗教)の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。
半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

権実」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

聖道門の人が親鸞聖人のこの御文を読めば、聖道門の修行をしている人のことを指すというのが、常識としてあります。

その上で、親鸞聖人は、「真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。」と仰っているので、聖道門の中でこうだという話です。
この親鸞聖人の思想の根本にあるのが、

法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあることです。法然上人が仰ったことは、「諸行之人」です。「無行之人」ではないです。

また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師は

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

と言われていたと弟子の記した『広疑瑞決集』にあります。隆寛律師御自身の体験から、聖道門から浄土門に入ることができたのは、19願の権仮方便によるものと味わわれたのです。

更には、大経の異訳経に

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

とあることから、こう仰ったわけです。

もちろん、「半満・権実の法門」に浄土門の人が含まれるというのは、妄想以外の何物でもないということです。

結局のところ、聖道門で出離して成仏を目指しながら、それができないことで聖道門を断念した人のために、19願が建てられ、定散二善が説かれたという内容にしかなりません。

学問的素養もなく、文法も無視したヘンテコ解釈が通用する訳もなく、mixiでは全く反論もできずに最初から高森会長は窮地に立たされたのです。

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2020年7月19日 (日)

念仏の信心も信心正因称名報恩の意味も知らない相伝もなきしらぬくせ法門

念仏往生」は蓮如上人も仰っていますが、それと「信心正因称名報恩」との関係がどうなっているのか、よく判るのが『御文章』3帖13通です。
少し長いですが、全文載せておきます。

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

このこころえのとほりをもつて、すなはち弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがたとはいふべし。かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは、さてもかかるわれらごときのあさましき一生造悪の罪ふかき身ながら、ひとたび一念帰命の信心をおこせば、仏の願力によりてたやすくたすけたまへる弥陀如来の不思議にまします超世の本願の強縁のありがたさよと、ふかくおもひたてまつりて、その御恩報謝のためには、ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり。

このうへには後生のためになにをしりても所用なきところに、ちかごろもつてのほか、みな人のなにの不足ありてか、相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり。よくよくおもひはからふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

前段は、これまでに度々取り上げたところで、信前信後を問わずに、法律・倫理道徳の善に心がけて、往生のためには雑行・雑善を捨てよとありますので、真宗における善の扱いについて明確にされています。
問題は、「内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」が何を意味しているかです。当然、信心のことですが、このようになった人のことを中段で、「弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがた」と仰り、その信心を「かくのごとく念仏の信心をとりて」と仰っていることです。

親鸞会の会員にとっては気が付かないことでしょうが、「阿弥陀如来を一心一向」が念仏のことを指しているのです。これまでにも述べたように

善を捨てよ=念仏一行

ということですから、「阿弥陀如来を一心一向」になったことを「念仏行者」「念仏の信心」と仰っても手紙を読んだ同行にとっては普通に理解できたことなのです。

念のために言っておきますが、信後の報恩念仏のことではありません。なぜなら、「かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは」の後に報恩念仏の説明があるからです。

ここまでをまとめると、

・往生と善とは無関係
・往生のために善を捨てたならば念仏一行になる
・信前に念仏一行になった行者が「阿弥陀如来を一心一向」の信心を獲て「念仏行者」となる
・「阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」のことを「念仏の信心」という
・信後の念仏は御恩報謝の念仏となる

往生のための善の勧めは論外ですが、信前の念仏を否定されたのではなく、念仏一行となった行者の「念仏の信心」を蓮如上人は強調されているのであり、信心と念仏とは密接不離の関係にあるということです。

蓮如上人が「念仏往生」と仰っているのはこういうことであり、「信心正因称名報恩」の意味もここから判ると思います。

以上のことを理解できない親鸞会などを蓮如上人は、「相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり」と厳しく非難されているのです。

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2020年7月14日 (火)

念仏往生の願成就文と信心正因称名報恩

法然上人が18願のことを「念仏往生の願」と初めて仰ったことを親鸞聖人もそのまま受け継がれて「念仏往生の願」と頻繁に使われていることは前回述べた通りです。信心正因称名報恩を強調された覚如上人も「念仏往生の願」と使われています。

『改邪鈔』には

かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」と等の文をもつて依憑とす。このほかいまだきかず。

これは親鸞会でも有名です。親鸞会では18願成就文の「信心歓喜乃至一念」が18願よりも重要である、つまり阿弥陀仏の救いは念仏ではなく信心一つである根拠として使っています。

この18願成就文のことを覚如上人は「念仏往生の願成就」と敢えて仰っているところに注目すべきです。
法然上人は18願成就文の「乃至一念」を念仏と解釈されていました。なぜなら「念仏往生の願成就文」だからです。
ところが親鸞聖人は『教行信証』ではこの「乃至一念」を信心と解釈されています。
こうなると、親鸞聖人は法然上人の解釈を否定されたのかと疑問が起きますが、そうではありません。
『教行信証』をまとめたとされる『浄土文類聚鈔』と、『三経往生文類』では、行の説明の中で18願成就文を根拠として挙げられています。
つまり、親鸞聖人は「乃至一念」を念仏と信心の両義あるとみられていたと言えます。理屈の上でも当たり前のことで、念仏往生の願の成就文に念仏の義が無かったらおかしなことになります。したがって、親鸞聖人は法然上人の「乃至一念」の解釈に信心の義を追加されたのであって、否定されたのではないことになります。

ここまでくればお判りかと思いますが、覚如上人もそのことを踏まえられていますので、「念仏往生の願成就」という表現をされたのだと思われます。信心を強調されたいのであれば、親鸞聖人が18願の別名で仰った「至心信楽の願」を採用されて、

かの心行を獲得せんこと、至心信楽の願成就の「信心歓喜乃至一念」と等の文をもつて依憑とす。

の方が信心で統一されてより判りやすくなるでしょうが、そうされていない意図を考える必要があります。

『口伝鈔』の「体失・不体失の往生の事」にある法然上人のお言葉

善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。「如来教法元無二」なれども、「正為衆生機不同」なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。

には、18願を「念仏往生」と度々仰っています。法然上人のお言葉だから当然だ、ではなく、法然上人のお言葉を正統として覚如上人が著わされたのですから、覚如上人のお言葉でもあります。「念仏往生」と「至心信楽」とが並列になっていますので、念仏と信心とが対立する関係ではなく、逆に深い関係であることが判ります。
覚如上人には「念仏の信心」という直接的な言葉はありませんが、参考までに存覚上人の『浄土真要鈔』には、

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。

と「念仏の信心」が出てきます。

結局のところ、覚如上人においてでも信心とは「念仏の信心」つまり「念仏を称えて往生すると深信したこと」であるのです。

信心正因称名報恩という言葉から、信心と念仏とは対立する関係のように思われがちですが、信心正因の信心が「念仏の信心」ですから、正確には
《念仏の》信心正因《信後の》称名報恩
なのです。

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2020年7月 3日 (金)

聖教を読む前に日本語のお勉強をして「念仏往生の願」の意味を知りましょう

七高僧で親鸞聖人が直接教えを聞かれた方は、法然上人です。親鸞聖人が法然上人にお遭いできなかったならば流転輪廻を繰り返してきた、と仰ったことは、真宗の関係者ならば誰でも知っていることでしょう。その法然上人が、往生のために念仏を勧められたことは、これまた真宗関係者だけでなく日本史を学んだなら誰でも知っている超常識です。

ここで、一つ質問です。

親鸞聖人は、法然上人が往生のために念仏を勧められたことを間違いだと否定されたと思いますか?

日本語が理解できるならば、そんなことはあり得ないでしょう。ところが、親鸞聖人が法然上人の教えの真髄である「往生のための念仏」を否定されたと言うのが親鸞会などです。日本語が判らないのか、他宗のスパイかと疑ってしまいます。

念のために、法然上人のお言葉を少しだけ紹介しておきます。『選択本願念仏集』には18願のことを著書名通り、「選択本願」と仰っただけではなく「念仏往生の願」と度々仰っています。その1つに

諸師の釈には別して十念往生の願といふ。善導独り総じて念仏往生の願といへり。

とありますが、実は善導大師は「念仏往生の願」とは直接仰っていませんので、「念仏往生の願」は、法然上人の造語になります。意味は説明するまでもなく、「念仏を称えたものを往生させる願」「念仏を称えて往生する願」です。

さて、この法然上人の造語である「念仏往生の願」を親鸞聖人は使われなかったのかと言えば、その逆で、頻繁に使われています。

『教行信証』信巻には、

この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。

と敢えて、「念仏往生の願」と仰っています。別の言い方ではなく、ここは敢えて使われたとみるべきです。なぜなら信巻の前に、18願を「念仏を称えて往生する願」として繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し仰った行巻があるからです。
同じことで、『浄土文類聚鈔』には

浄信といふは、すなはち利他深広の信心なり。すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。

とあります。この直前に18願を「念仏を称えて往生する願」として説明されたからです。
同様の理由で『三経往生文類』には

また真実信心あり。すなはち念仏往生の悲願にあらはれたり。

更には、『如来二種回向文』にも

真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。

とあります。
これ以外には、『浄土文類聚鈔』にもう一か所、『正像末和讃』にも一か所、『御消息』には多数あります。『御消息』には、「念仏往生の願」の意味が明確に判る箇所があります。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

念仏往生の願」=「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる

なお、他力の信心とは、

名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて

念仏往生とふかく信じて

です。他の『御消息』でも

この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。

とある通り、「念仏を称えて往生する願を疑いなく信じること」が他力の信心です。

この単純明快な教えを捻くり回して、

「念仏を称えて往生する」と教えることは間違いだ!

と喚く者が真宗を名乗る資格があるのかと甚だ疑問に思います。
駄目押しで言うなら、覚如上人も蓮如上人も、「念仏往生の願」という言葉を使われています。親鸞聖人が多用されたのですから当然です。

真宗を名乗るのであれば、聖教を読む前にまずは日本語のお勉強をしましょう。

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2020年7月 1日 (水)

七高僧、親鸞聖人とは異なる信心の人には判らない念仏の話

善導大師、曇鸞大師と、往生と念仏との関係について仰った箇所を紹介してきました。次いでですから、源信僧都が教えられている箇所も紹介しておきます。

『往生要集』に

大文第八に、念仏証拠といふは、問ふ、一切の善業はおのおの利益あり、おのおの往生することを得てん。 なんがゆゑぞ、ただ念仏の一門を勧むる。

答ふ。いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮するにはあらず。 ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ。
(中略)
いはんやまた、もろもろの聖教のなかに、多く念仏をもつて往生の業となせり。 その文、はなはだ多し。 略して十の文を出さん。
(中略)
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

(現代語訳)

大文第八に念仏の証拠とは、 問う。 すべての善業には、 それぞれ利益があり、 それぞれ往生することができるのに、 どういうわけで、 ただ念仏の一門だけを勧めるのか。

答える。 今、 念仏を勧めることは、 決して、 その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。 ただ男でも女でも、 身分の高いものでも、 低いものでも、 その行住座臥の区別なく、 時とき処ところやいろいろの場合を論ぜず、 これを修めるのに難しくなく、 そして臨終までも往生を願い求めるのに、 その便宜を得ることは、 念仏におよぶものはないからである。
(中略)
まして、 またもろもろの聖教の中には、 多く念仏を往生の業としている。 その文ははなはだ多いが、 略して十文を出そう。
(中略)
四つには、 『観経』に説かれている。
極重の悪人は、 他の方法がない。 ただ弥陀の名号を称念して、 極楽往生を得るばかりである。

とあります。往生のために、善ではなく念仏だけを勧める理由を問答形式で教えられています。答えとして、「男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ」とされて、誰でもどんな状況でもできる往生の行は念仏だけ、その根拠を聖教から10挙げられています。その4番目が、

四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

ですが、ここでは明確に、念仏を称えることで往生できる、と教えられているのです。前々回の善導大師、前回の曇鸞大師と同じことを教えられています。信心を獲て往生できる、という言い方ではありませんし、往生が定まった後に報謝の「仏を称念して」でもありません。往生のために、「ただ仏を称念して」です。

往生には念仏不要と思っている親鸞会やその賛同者には、極めて不都合な御文です。

しかも、これは親鸞聖人も大変お気に入りの御文です。

『教行信証』行巻には、そのまま引かれていますし、『正信偈』には、

極重の悪人はただ仏を称すべし。

と仰り、『高僧和讃』では

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と仰っています。
源信僧都だけではなく、親鸞聖人も全く同じ解釈をされていたからこそ、このように繰り返し仰っているのです。

往生のために善を勧めるのは論外ですが、逆に往生のために念仏を勧めないのも、七高僧、親鸞聖人とは異なった教え方になるのです。

信心と念仏との関係が判っている獲信者ならば今回も簡単に判ることですが、七高僧、親鸞聖人と異なる信心の人には理解できない内容です。

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