« 仏教の基本である「清浄」の意味を知っていれば、高森顕徹会長の主張の間違いが簡単に判ります | トップページ | 善導大師の仰る「弥陀の願意」と転教口称の念仏 »

2020年6月12日 (金)

国語の問題である「もろもろの行業を回して」の意味

二河白道の譬喩で、親鸞会が以前から「白道」を信前の求道とした解釈の根拠が、

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

です。これは善導大師の『散善義』でも親鸞聖人が引かれた『教行信証』信巻でも同じです。「もろもろの行業を回して」だから、諸善を回向しての意味だ、という理屈です。

しかし、親鸞聖人は、白道を信後の信心の意味でしか仰っていないことを、その場凌ぎの詭弁とは言え高森顕徹会長が認めたという前提で考えるなら、少なくとも親鸞聖人は「もろもろの行業を回して」を諸善を回向して、つまり諸善をして、という解釈をなされていないのは高森会長も認めていることになります。他力信心の道を進んでいる人が、諸善に拘ることはあり得ないからです。

では善導大師は諸善をしてという意味で仰ったのかという話ですが、善導大師も二河白道の譬喩は、「信心守護」の譬えであり、「白道」は「清浄願往生心」ですから、他力の信心で「白道」を「西に向かう」のならば、「もろもろの行業を回して」は、諸善を回向してではなく、諸善を捨てての意味にしかなりません。

なお、この譬え話の中で「」という字が使われているところを挙げますと、

まさしく到り回らんと欲すれば
われいま回らばまた死せん
なんぢ、回り来れ
この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず
あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す

ですが、これらすべて「転回する」「戻る」という意味です。
このことを考えても、「もろもろの行業を回して」は諸善に拘っていた心を転回して、つまり諸善を捨てて、と理解することは自然な解釈です。

また譬え話の流れから言ってでもそれ以外の解釈は成り立ちません。

行者は東の岸で三定死を迎え、東の岸にいる時に西の岸の人の喚び声を聞いて、「人道の上を行きてただちに西に向かふ」のですから、信後の他力信心を獲た後の話です。

『散善義』の譬えの部分では

この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。
「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん>」と。
また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。
この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。

です。東の岸の人(釈尊)と西の岸の人(阿弥陀仏)の勧めに順って、「すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず」を譬えの解説では「人道の上を行きてただちに西に向かふ」と仰っているのです。

行者の心は、「身心を正当にして」「決定して」「疑怯退心を生ぜず」ですから、信心を獲たことの表現以外の何物でもありません。「身心を正当にして」「決定して」「疑怯退心を生ぜず」の心で、「もろもろの行業を回して」です。

問い

「もろもろの行業を回して」とはどんな意味か。

国語の問題としては、良問と言えますが、答えは1つしかありません。

答え

諸善を捨てて

もしこれ以外の解釈が成立するというのであれば、国語は無視という姿勢か国語の能力が著しく劣っているかのどちらかですので、一般の人とは話が通じない人なのでしょう。

|

« 仏教の基本である「清浄」の意味を知っていれば、高森顕徹会長の主張の間違いが簡単に判ります | トップページ | 善導大師の仰る「弥陀の願意」と転教口称の念仏 »

二河白道」カテゴリの記事

コメント

高森会長の法話復帰の目途がたたないようです。講師部員はますます、因果の通りは仏教だ、という話ばかりする偽真宗の話をするものばかりです
不浄説法の団体はまもなく限界を迎えることでしょう。

投稿: a | 2020年6月12日 (金) 22時58分

切り取り文の危うさ、文章は全部を見ないと誤解を生むいい例だとおもいます

投稿: | 2020年6月13日 (土) 00時48分

a様

親鸞聖人がどこに因果の道理を教えられているのか探してみたら良いですが、そんなことはどうでも良い人ばかりなのでしょう。

名無し様

会員も国語の勉強と思って、聖教を読んでほしいものです。

投稿: 飛雲 | 2020年6月13日 (土) 17時40分

飛雲さん

こんにちは、ご無沙汰しております。Abcです。

>問い:「もろもろの行業を回して」とはどんな意味か。
>答え:諸善を捨てて

→まことに仰るように、この解釈でございます。このように「単純な答え」であるのに「まだ何かあるのでは、、、」と考えてしまうところにあさはかさがあるのです。

問い2:「諸善を捨てて」と答えられたが、「諸善を捨てて」と説かれている『お聖教』をあげよ
答え2:源空聖人『選択本願念仏集』には
  「諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。{乃至}
 すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。」

 とあり、「諸行を廃して」といわれている。

です。もう少し『書物』に触れてほしいものですね。

なもあみだ、なもあみだ
 Abc

投稿: Abc | 2020年6月14日 (日) 12時04分

Abc様

親鸞会の会員は、高森会長の著書以外は読まないし、親鸞聖人の教えも肩書き程度の認識ですから、ましていわんや法然上人の御著書には興味も示さないでしょう。
哀れです。

投稿: 飛雲 | 2020年6月14日 (日) 21時39分

※親鸞会の信心の実態

上司の指示(高森会長奥さんが影のボス)>高森会長の言葉>因果の道理>親鸞聖人>阿弥陀仏

※正しい信心

阿弥陀仏>>>親鸞聖人>>知識(複数の場合もあり)

親鸞会の組織は間に入っている人間の都合で教義が微妙に曲げられ狡猾に利用されています

投稿: a | 2020年6月15日 (月) 09時14分

飛雲先生

「善心、微なるがゆえに白道のごとしと喩う」の御文について質問させていただきます。

この善心とは仏心であり真実信心であると言われます。そして白道の幅は乗った後でも変わらないとすれば、真実信心も「微」ということになります。

他方、親鸞聖人は真実信心のことを「広大難思の慶心」とか「大信心海」とも表現なされています。
この違いというのは存覚上人の六要鈔にある「凡夫の行者の所発の信心は、他力に由るが故に、これ広大なりといえども、貪瞋覆うが故にその心微なりという。実には狭小にあらず。これ四大・五陰所成の凡身の上に於いて発す所の心なるが故に、四五寸という。」ということでしょうか?

要するに本来の真実信心は広大無辺であるが、それが凡身に現れる時は、その四大・五陰に合わせた微なるものになるということでしょうか?

かつて先生は「暁」(2010/03/12)について「信心をえると漆黒の無明の闇からほんのり明るさが加わった状態になる」ことと言われました。
つまり微ということは「信心決定しても判ることは僅か」ということにもなるのでしょうか?

投稿: 猿松 | 2020年6月15日 (月) 18時58分

猿松様

全くその通りです。
真実信心を獲ても、二河白道の譬喩では何も変わっていません。白道に乗った途端に、白道が広くなっていないし、水の河と火の河の波は変わりませんし、西の岸との距離も見え方も変わりませんし、群賊悪獣悪知識の脅しも変わりません。
白道に乗ったことだけが変わるのです。

投稿: 飛雲 | 2020年6月15日 (月) 19時58分

飛雲先生

素早い御回答ありがとうございます。
この二河譬については、私は疑問が多いのでおそらく連続で質問させていただくことになると思いますので、よろしくお願いいたします。

三定死についてお尋ねしますが、親鸞会時代には三定死は「戻るも地獄、留まるも地獄、行くも地獄」と無常感と罪悪感でどうにもならない状態だと聞かされました。しかし親鸞会をやめてから、親鸞会以外の解説文を読むと、この三定死は確かに「肉体の死」ということも喩えているが、むしろ自力の心を捨てて他力の信心に入ることを教えたものとしています。
そこで私はこの三定死は、自力の死と解釈できるのかなと思いました。

深川倫雄師の「観経疏散善義講讃」には、「迴とは人天、住とは聖道、去とは浄土(定散要門)とする解もあって佳し」とあります。要するに何れも自力で、流転は免れないということだそうです。

そこで私が思ったことは、迴を過去、住を現在、去を未来と見て、三定死を機の深信と捉えることはできないかと思いました。住が「自身は現に是罪悪生死の凡夫」で、迴が「昿刧より已来常に没し常に流転して」で、去が「出離の縁あることなし」で、自力無効の思いです。

しかし「わかりやすい宗義問題」という解説書には「三定死を機の深信であると考えるのは大きな誤り」と完璧に否定されました。その理由として「釈迦・弥陀二尊の発遣・招喚の声を聞かない前であり・・・まだお名号のおいわれが信受されていない」からだそうです。

また合譬の文の「衆生久しく生死に沈みて昿刧より輪廻し迷倒してみづから纏いて解脱するに由なし」は明確に機の深信ですし、それは二尊の発遣・招喚の意に信順した時に現れる心相であるともありました。

ということは時系列的に見ても、やはりこの三定死を自力無効の機の深信と結びつけることは無理なことなのでしょうか?

投稿: 猿松 | 2020年6月16日 (火) 19時13分

三定死については、善導大師も親鸞聖人も解説をされていませんので、さほど重要な箇所ではないと思います。
機の深信かどうかということも学問的な研究課題ではあってもそれ以上とは私は見做していません。いろいろな学者が好きに解釈してそれを眺めているだけです。
なお機の深信の定義は善導大師と存覚上人以降の真宗伝統教学とは違いますので、善導大師の立場でなら三定死は機の深信と言っても矛盾はしないと思います。

投稿: 飛雲 | 2020年6月16日 (火) 19時43分

飛雲先生

いつも素早い御回答ありがとうございます。連続して質問する無礼をお許しください。

私が三定死に拘ったのは、もし三定死が機の深信(もしくはそれに準ずるもの)であった場合、「必ず通らねばならない過程」となり、その為には二尊の発遣・招喚の前に、三
定死を認識する為の何らかの自力修行的なものが必要だと言い出す者が必ず現れると思ったからです。
確かに三定死は合喩の段では全く出てなかったので、三定死は凡夫の自己認識程度のもので、それほど重要ではないといったところでしょうか。

そこで次の質問なんですが、今回のエントリーにもありました「すなはちみづから身心を正当にして」の御文です。

私にとってこの「みづから」という表現は、どうしても自力を想起させてしまいます。
この「すなはちみづから」という表現は譬喩の段では三ヵ所出て来ます。
一つ目は「すなはちみづから念言す」のいわゆる三定死、行者の現状の認識の場面で、二つ目は「すなはちみづから思念す」の、三定死からの「すでにこの道あり」になる、行者の白道の再認識と選択と決意の場面です。
この二つに共通するのが自力の判断だということです。
そして最後のものが、二尊の発遣・招喚の直後にある「すなはちみづから身心を正当にして」の御文になります。

さてこの御文以下を見てみると、「決定して道を尋ねてただちに進みて」は、真実の信心決定のことであり、「疑怯退心を生ぜず」は、不退転の境地であるから、この二文は確実に「(他力真実の)信心を獲たことの表現」と分かります。
やはり引っかかるのは「身心を正当にして」の部分です。

そしてこの御文の訳文を見てみると大体二つの意味に別れます。「その通りと受けとめる」と「身心共に正直(まっすぐ)に西に向かう」の二つです。
そしてこの二つを合わせると、自ら二尊の発遣・招喚をその通りと受けとめて、身心共に正しく西、即ち白道に相対するということになります。

つまりこの「すなはちみづから身心を正当にして」は、念仏一行になったことを表しているのではないかと思いました。
そしてこの「決定して」の場面で、その念仏が自力から他力に変わった・・・という解釈ができるのかなと思いました。

かなり煩瑣な解釈となりましたが、先生の御見解をお聞かせください。

投稿: 猿松 | 2020年6月17日 (水) 16時52分

まず、これは譬喩です。行者は自分の力で白道を進みます。西の岸の人に担がれて進むのではありません。紐で引っ張られて進むのでもありません。他力の道を進む譬喩として、行者が自らの足で進んでいることになっていますので、喩えの表現に細かく拘るのはおかしなものです。
次に、この譬喩は上品上生のところに出てきています。上品上生とは、極上の善人です。「もろもろの行業」を修している善人に対して、それを捨てて念仏一行を勧められていますので、前提としては諸善をしている人に善を捨てよ、です。だからといって善を一度してからという話ではありません。それは下品を見れば明らかです。

譬喩の言葉にとらわれすぎていると、本質を見失うと思いますので、猿松さんはそのような味わいをされたということで宜しいと思います。ただし、あくまで味わいであって根拠は聖教にはない、ということです。


投稿: 飛雲 | 2020年6月17日 (水) 18時08分

飛雲先生

御教授ありがとうございます。
「喩えは一部」といわれ、全体を網羅していないということは分かります。
実は近々ある人物と、この二河譬をめぐって話し合うことになると思って、重箱の隅々まで完璧にしておこうと思い、ついつい先生の手を煩わせてしまいました。
恐れ入りますが、もう少しお付き合いくださいませ。

法然聖人は「三心料簡および御法話」の「白道事」の中で、白道には「諸行往生の願生心の白道」と「専修正行の願生心の白道(願力の道)」の二つがあるとされました。。

その範囲を合喩の段で当てはめてみますと、「また『水波つねに道を湿す』とは」から「およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ」までが諸行往生の願生心の白道だと思います。
釈尊の「上来雖説定散両門之益 望仏本願 意在衆生一向専称弥陀仏名」の正意に背いて、諸行を回向して浄土往生を願うから、白道は貪瞋水火の為に損ぜられ、日毎に惑乱して自ら罪を造って遂には白道から退失してしまいます。

それに対して専修正行の願生心の白道の範囲は、「『西の岸の上に人ありて喚ばふ』といふは」から「仏とあい見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ」までだと思います。
正行であるから願力の道に乗じて、全く貪瞋水火の損害を受けず、浄土往生の本懐を遂げることができます。

ところが親鸞聖人は白道は他力と限定されました。法然聖人の言われた諸行往生の願生心の白道は万善諸行の小路とされ、白道とは違うものとされました。
それゆえ「諸の行業を回す」も「定散二心をひるがえし」の意と取られ、「妄説見解迭相惑乱 及自造罪退失」の御文も「『みだりに見解をもってたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失す』と説くに喩ふるなり」と読み変えられ、群賊等の言った『セリフ』にしてしまわれました。

このように私は、二河譬における両聖人の白道の解釈の違いをみましたが、先生の御見解をお聞かせください。

投稿: 猿松 | 2020年6月18日 (木) 23時39分

まず、『選択本願念仏集』において

念仏の行者かならず三心を具足すべき文。

として、三心を引用されています。もちろん二河白道の譬喩も引用されています。
そして最後に

この三心は総じてこれをいへば、もろもろの行法に通ず。

と付け加えられています。
法然上人は、白道を念仏の道として説明されていますが、信心としては、上品上生から中品下生の諸善にも通じているという解釈です。
では、白道を諸善の行者に敢えて当てはめるならどうなるのか、とされたのが、「三心料簡および御法話」の「白道事」です。

雑行中願往生心、白道為貪嗔水火被損。

諸行往生願生心、白道聞。

これがそれですが、『散善義』では、「【清浄】願往生心」ですので、元の二河白道の譬喩には当てはまっていません。が、先ほども言いましたように、諸善の行者の信心を表現されるために敢えて当てはめられた、ということでしょう。
なぜなら、猿松さんも気が付かれている通り、二河白道の譬喩全体が、諸善の行者のことに当てはまっていません。諸善の行者の場合のストーリーがないのです。つまり、二河白道の譬喩を諸善の行者に当てはめることまではせずに、諸善の行者の願往生心を表現される中で、「白道」という言葉を利用されたということになります。

ましてや、諸善の白道から念仏の白道になるというストーリーでもありません。

すべては全体で見ないと断章取義になります。

もう一度言いますと、法然上人は諸善の行者の願往生心を表現されるのに、「白道」という言葉を利用されただけで、二河白道の譬喩全体を諸善の行者に当てはめられてはいません。

法然上人の説かれ方の特徴は廃立です。念仏を立てて諸善を廃されるために、廃される願往生心を立てる願往生心と比較して超過されていることを示されたのであろうと思います。

投稿: 飛雲 | 2020年6月19日 (金) 07時59分

飛雲先生

煩瑣な質問に最後までお付き合いいただきありがとうございました。

最初、法然聖人の「三心料簡および御法話」を読んだ時に「白道に諸行往生という解釈もあるのか」と思い、多少強引に二河譬の中に当てはめようとしました。

確かに専修正行の願生心の白道と比較対照させる為に造語された諸行往生の願生心の白道をオリジナルのストーリーである二河譬の中に見ようとしても無理がありました。それこそ新たにストーリーを付け加えねばなりません。(例えば「すでにこの道あり」と分かっているのに新たに自ら道を造り出すとか・・・)

おそらくはまた質問すると思いますのでその時もよろしくお願いいたします。

投稿: 猿松 | 2020年6月19日 (金) 18時16分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 仏教の基本である「清浄」の意味を知っていれば、高森顕徹会長の主張の間違いが簡単に判ります | トップページ | 善導大師の仰る「弥陀の願意」と転教口称の念仏 »