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2020年6月 6日 (土)

仏教の基本である「清浄」の意味を知っていれば、高森顕徹会長の主張の間違いが簡単に判ります

親鸞聖人は、『教行信証』信巻に二河白道の譬喩を引いておられますが、それは善導大師の『散善義』にある原文とは若干の読み替えが見られます。意味が変わるような読み替えではないのですが、高森顕徹会長はそれを自力と他力の違いと適当なことを言っているのです。

親鸞聖人が関東の同行に対して二河白道の譬喩を書いて送られたことは、前回紹介したお手紙で判りますが、その二河白道の譬喩が、信巻にある内容なのか善導大師の原文なのかまでは判別できませんので、親鸞会に揚げ足を取られないように、原文の方でこの後解説していきます。

二河白道の譬喩は『散善義』の上品上生にある回向発願心釈で善導大師が創作せられた譬喩です。まず最初に

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。何者かこれなるや。

と仰っています。この譬喩は、「信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん」ですので、信心についての譬喩だということです。もちろん、他力真実信心についての譬喩です。

この時点で高森会長の主張が間違いであることが証明されてしまいました。これで終わりです。

しかし、それではつまらないので、譬喩の中身も見ていきます。

前提は、聖道門の信心とは煩悩との戦いで煩悩に打ち勝っていくというものですが、他力の信心はそれとは全く違うので、それを聖道門から非難されるということです。それで「外邪異見の難を防がん」なのです。

その信心の直接的な譬えと解説が

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。

です。煩悩と戦って打ち勝っていく信心ではなく、煩悩の中に生ずる「清浄の願往生心」です。通仏教の定義として「清浄」とは不浄の煩悩の無いことですから、煩悩があるままで「清浄」の心を自力で起こすことは不可能です。

『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれて

四つには心清浄のゆゑに。心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。

とある通りです。

なお、親鸞聖人は、善導大師の「すなはち貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。」を

すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。

と読み替えられたので、この「生ずる」と「生ぜしむる」の違いが自力と他力との違いだと高森会長はこじつけたのですが、「清浄」の意味を知っているなら、そんな解釈は成り立ちません。

ついでですから煩悩しかない凡夫に「清浄願往生心」が「生じる」あるいは「生ぜしむる」ことがあるのかについて親鸞聖人は、証巻で『浄土論註』を引かれてこう教えられてます。

問うていはく、衆生清浄といへるは、すなはちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろの人・天、この清浄の数に入ることを得んや、いなやと。
答へていはく、清浄と名づくることを得るは、実の清浄にあらず。たとへば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもつてのゆゑに名づけて比丘とす、凡夫の出家のものをまた比丘と名づくるがごとし。また灌頂王子初生のとき、三十二相を具して、すなはち七宝のために属せらる。いまだ転輪王の事をなすことあたはずといへども、また転輪王と名づくるがごとし。それかならず転輪王たるべきをもつてのゆゑに。かのもろもろの人・天もまたまたかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じてまさに清浄法身を得べし。まさに得べきをもつてのゆゑに、清浄と名づくることを得るなりと。

(現代語訳)

問うていう。衆生世間清浄といったのは仏と菩薩についてである。浄土に往生する人間や神々もこの清浄の衆生の中に入るのであろうか。
答えていう。清浄ということはできるが、本当の清浄ではない。たとえば、出家した聖者は煩悩を滅しているから比丘といわれるが、まだ煩悩を滅していない凡夫が出家しても比丘といわれるようなものである。また転輪聖王の王子は、生れた時に三十二相をそなえ七宝を持っている。まだ転輪聖王の仕事をすることはできないが、転輪聖王といわれるようなものである。それは必ず転輪聖王となるからである。浄土に往生する人間や神々もその通りであって、みな大乗の正定聚に入ってついには清浄法身を得ることができる。だから清浄ということができるのである。

他力の真実信心を頂いたからといっても、「清浄」の心や身が凡夫の中に存在しているのではなく、死後に「清浄」の浄土に往生して「清浄」の心と身を得られることを「衆生清浄」と仰ったものだということです。したがって、「清浄願往生心」を頂いても絶対の幸福というような特別な境地になることはありません。だから、「四五寸」の「善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ」なのです。

今回は、仏教の基本である「清浄」の意味を知っていれば難しい内容ではないと思いますが、仏教の基本である「清浄」の意味さえ知らない親鸞会の会員ではチンプンカンプンの内容だったと思います。

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