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2020年6月

2020年6月27日 (土)

親鸞会会員の知らない曇鸞大師の念仏

二河白道の譬喩を通して、善導大師が18願意をどのように捉えられているかを紹介してきました。一言で言うならば、

念仏を称えることで往生できる

です。善導大師の著書には、至る所にそのような言い方をされています。もちろん、信心についても詳しく仰っているのですが、念仏の強調の方が目立ちます。
親鸞聖人は七高僧の中でも、善導大師を特に尊敬されていましたので、親鸞聖人が善導大師の教えを否定されることは普通に考えればあり得ないでしょうが、高森顕徹会長のように信心がすべてだという偏屈な思考に凝り固まると、念仏が信心の付属品のように考えるのです。その屁理屈として、親鸞聖人が七高僧の中で善導大師と同じかそれ以上に特に尊敬されていた曇鸞大師を持ち出してくることがあります。『高僧和讃』の数を見ても、善導大師の26首よりも多い34首ですから、親鸞聖人が曇鸞大師から多大なる影響を受けられたことは確かです。

そこで今回は、曇鸞大師の念仏について見てみます。

曇鸞大師が阿弥陀仏の48の願の内、3つの願を選ばれたいわゆる三願的証の文が『浄土論註』にあります。三願とは18願、11願、22願です。18願、19願、20願ではありませんので、親鸞会の会員にとっては、この時点でカルチャーショックを受けると思います。曇鸞大師は18願文を出された後にこう続けておられます。

仏願力によるがゆゑに十念の念仏をもつてすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆゑに、ゆゑに速やかなることを得る一の証なり。

(現代語訳)

この仏の願のはたらきによるから、たとえば十声念仏して往生することができる。往生することができるのだからもはや迷いの世界をさまようことはない。浄土に往生することができ、もはやさまようことがないというのが、速やかに仏となることができるということの第一の証である。

これは『教行信証』行巻にも引かれています。
注目は、「十念の念仏をもつてすなはち往生を得」です。曇鸞大師が18願意を仰った箇所です。親鸞会では、ここもまた受け入れられない文だと思います。

もう一つ

問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。一には、 おそらくは往生を得ざらん。二には、おそらくはさらに生ずとも惑ひを生ぜん。

答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。
(中略)
また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

問うていう。 上にいうてあるような生即無生の道理をさとるということは上品の往生者にいうことである。 下品下生の人のごときは、 ただ十念念仏によって往生するので、 こういうのは実生実滅の執着を持っているのではないか。 ただ実生を執ずるならば二つの疑いに堕ちる。 一つに、 恐らくはこういう実生実滅を執ずる凡夫は往生を得ないであろう。 二つに、 往生してもさらに生死相対の惑いを生ずるであろう。

答えていう。 たとえば清浄なる摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、 珠の力で水が浄らかになるようなものである。 もし凡夫人が無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があっても、 かの阿弥陀如来の法性真如にかなったこの上なき清浄の名号を聞いて、 これを濁った心の中にいただくならば、 念々の中うちに罪が滅し清浄の徳を得て、 往生が得られる。
(中略)
また、 氷の上で火を燃やすと、 火の勢いが強ければ氷は解け、 氷が解けると火が消えるようなものである。 かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、 ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、 浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、 実生実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

親鸞会の人にはかなり難しい内容ですが、最後の文中の「かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして」だけでも見てもらえれば、曇鸞大師が、念仏を称えることによる往生を明確に仰っていることが判るというものです。

これ以外にも、念仏を称えて往生する、という表現を曇鸞大師はなされています。

したがって、善導大師も曇鸞大師も、そしてお二人から多大な影響を受けられた親鸞聖人も、

念仏を称えて往生する

と仰っている箇所がいくつもありますから、これが間違いだという発想自体が、浄土真宗から外れています。

くどいようですが念のために言いますと、信心で往生する、聞いて往生する、というような他の表現を持ち出して、念仏を称えて往生するというのは間違いだという理屈は完全な間違いです。善知識方が違う表現をされていても筋は通っているのですから、同じことを表現を変えて仰ったのだと理解しなければなりません。

具体的に言えば、

信心=念仏を称えて往生すると深信したこと
聞=念仏を称えて往生するという18願を疑いなく聞くこと

こういうことです。
単純な話ですが、思考停止の人には理解できないのでしょう。哀れです。

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2020年6月19日 (金)

善導大師の仰る「弥陀の願意」と転教口称の念仏

阿弥陀仏の喚び声について善導大師は譬えで

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。

と仰り、その意図は

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

とされています。「弥陀の願意」ですから、当然18願意のことになります。
『散善義』では、下品上生のところで「願意」についてこう仰っています。

しかるに仏の願意に望むれば、ただ勧めて正念に名を称せしむ。往生の義、疾きこと雑散の業に同じからず。

阿弥陀仏の願意は、「正念に名を称せしむ」だけを勧められたのであり、「雑散の業に同じからず」と雑行とは違うと釘までさしておられます。
善導大師が二河白道で諸善を勧められた、信前の求道について教えられたという妄想は、ここでも簡単に打ち砕くことができます。

なお、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」は、18願の言い換えになりますが、善導大師は他所でも、18願の言い換えをされています。
『往生礼讃』には、

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ

『観念法門』には、

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ

18願ですから善が無いのは言うまでもないのですが、往生のために「わが名号を称すること下十声に至るまで」「わが名字を称すること、下十声に至るまで」と念仏が強調されています。

要するに往生のために念仏を称えることを誓われているのが、阿弥陀仏の「願意」だということになります。

ここで着目したいのが、『往生礼讃』における18願の言い換えには信心に関する言及がありません。善導大師は信心よりも念仏に重きをおかれていたように思われます。

その証拠に、『散善義』の下品下生のところでは、

四に「如此愚人」より下「生死之罪」に至るこのかたは、まさしく法を聞き仏を念じて、現益を蒙ることを得ることを明かす。

すなはちその十あり。
一にはかさねて造悪の人を牒することを明かす。
二には命延久しからざることを明かす。
三には臨終に善知識に遇ふことを明かす。
四には善人安慰して教へて仏を念ぜしむることを明かす。
五には罪人死苦来り逼めて、仏名を念ずることを得るに由なきことを明かす。
六には善友苦しみて失念すと知りて、教を転じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす。
七には念数の多少、声々間なきことを明かす。
八には罪を除くこと多劫なることを明かす。
九には臨終正念にしてすなはち金華来応することあることを明かす。
十には去時の遅疾、ただちに所帰の国に到ることを明かす。

(現代語訳)

四つに、 「かくの如き愚人」 より 「生死の罪」 までは、 まさしく法を聞き仏を念じて、 現に利益を蒙ることを得ることを明かす。 その中に十ある。
一つには、 重ねて造悪の人であることを明かす。
二つには、 寿命があと長くないことを明かす。
三つには、 臨終に善知識にあうことを明かす。
四つには、 善知識が慰め教えて、 仏の徳を念ぜさせることを明かす。
五つには、 罪人は死の苦が逼せまって、 仏の名号のいわれを心に念ずることができないことを明かす。
六つには、 善知識は、 行者が苦のために念ずることができないのを知って、 教えを転じて、 口に弥陀の名号を称えさせることを明かす。
七つには、 称名の数の多少と、 その声がたえまのないことを明かす。
八つには、 多劫の罪を除くことを明かす。
九つには、 臨終に心乱れず、 そこで金蓮華が来たり迎えることを明かす。
十には、 往生に要する時の遅速を明かす。


とあります。
善導大師は、6番目の「教を転じて口に弥陀の名号を称せしむる」のいわゆる転教口称の念仏と教えられています。「罪人死苦来り逼めて、仏名を念ずることを得るに由なき」とあるように、臨終の苦しみから「仏名を念ずること」もできない状態で、善知識が勧められたことが、転教口称の念仏です。阿弥陀仏のことを念ずることも、名号のいわれを念ずることも、善知識から聞いた教えを思い出すことができなくても、口で「南無阿弥陀仏」と称えることで往生できることを教えられた箇所です。

親鸞会では全く受け入れられない教えですが、善導大師は究極的にはただ口に称えるだけで往生できると誓われたのが18願だと解釈されたのです。

参考までに親鸞聖人は『唯信鈔文意』で『観無量寿経』下品下生を

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

と解釈されています。「称名を本願と誓ひたまへる」です。

善導大師が仰る「弥陀の願意」も知らなければ、転教口称の念仏も完全否定する高森顕徹会長が、善導大師の二河白道の譬喩について正しく説明できるはずもありません。

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2020年6月12日 (金)

国語の問題である「もろもろの行業を回して」の意味

二河白道の譬喩で、親鸞会が以前から「白道」を信前の求道とした解釈の根拠が、

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

です。これは善導大師の『散善義』でも親鸞聖人が引かれた『教行信証』信巻でも同じです。「もろもろの行業を回して」だから、諸善を回向しての意味だ、という理屈です。

しかし、親鸞聖人は、白道を信後の信心の意味でしか仰っていないことを、その場凌ぎの詭弁とは言え高森顕徹会長が認めたという前提で考えるなら、少なくとも親鸞聖人は「もろもろの行業を回して」を諸善を回向して、つまり諸善をして、という解釈をなされていないのは高森会長も認めていることになります。他力信心の道を進んでいる人が、諸善に拘ることはあり得ないからです。

では善導大師は諸善をしてという意味で仰ったのかという話ですが、善導大師も二河白道の譬喩は、「信心守護」の譬えであり、「白道」は「清浄願往生心」ですから、他力の信心で「白道」を「西に向かう」のならば、「もろもろの行業を回して」は、諸善を回向してではなく、諸善を捨てての意味にしかなりません。

なお、この譬え話の中で「」という字が使われているところを挙げますと、

まさしく到り回らんと欲すれば
われいま回らばまた死せん
なんぢ、回り来れ
この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず
あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す

ですが、これらすべて「転回する」「戻る」という意味です。
このことを考えても、「もろもろの行業を回して」は諸善に拘っていた心を転回して、つまり諸善を捨てて、と理解することは自然な解釈です。

また譬え話の流れから言ってでもそれ以外の解釈は成り立ちません。

行者は東の岸で三定死を迎え、東の岸にいる時に西の岸の人の喚び声を聞いて、「人道の上を行きてただちに西に向かふ」のですから、信後の他力信心を獲た後の話です。

『散善義』の譬えの部分では

この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。
「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん>」と。
また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。
この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。

です。東の岸の人(釈尊)と西の岸の人(阿弥陀仏)の勧めに順って、「すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず」を譬えの解説では「人道の上を行きてただちに西に向かふ」と仰っているのです。

行者の心は、「身心を正当にして」「決定して」「疑怯退心を生ぜず」ですから、信心を獲たことの表現以外の何物でもありません。「身心を正当にして」「決定して」「疑怯退心を生ぜず」の心で、「もろもろの行業を回して」です。

問い

「もろもろの行業を回して」とはどんな意味か。

国語の問題としては、良問と言えますが、答えは1つしかありません。

答え

諸善を捨てて

もしこれ以外の解釈が成立するというのであれば、国語は無視という姿勢か国語の能力が著しく劣っているかのどちらかですので、一般の人とは話が通じない人なのでしょう。

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2020年6月 6日 (土)

仏教の基本である「清浄」の意味を知っていれば、高森顕徹会長の主張の間違いが簡単に判ります

親鸞聖人は、『教行信証』信巻に二河白道の譬喩を引いておられますが、それは善導大師の『散善義』にある原文とは若干の読み替えが見られます。意味が変わるような読み替えではないのですが、高森顕徹会長はそれを自力と他力の違いと適当なことを言っているのです。

親鸞聖人が関東の同行に対して二河白道の譬喩を書いて送られたことは、前回紹介したお手紙で判りますが、その二河白道の譬喩が、信巻にある内容なのか善導大師の原文なのかまでは判別できませんので、親鸞会に揚げ足を取られないように、原文の方でこの後解説していきます。

二河白道の譬喩は『散善義』の上品上生にある回向発願心釈で善導大師が創作せられた譬喩です。まず最初に

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。何者かこれなるや。

と仰っています。この譬喩は、「信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん」ですので、信心についての譬喩だということです。もちろん、他力真実信心についての譬喩です。

この時点で高森会長の主張が間違いであることが証明されてしまいました。これで終わりです。

しかし、それではつまらないので、譬喩の中身も見ていきます。

前提は、聖道門の信心とは煩悩との戦いで煩悩に打ち勝っていくというものですが、他力の信心はそれとは全く違うので、それを聖道門から非難されるということです。それで「外邪異見の難を防がん」なのです。

その信心の直接的な譬えと解説が

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。

です。煩悩と戦って打ち勝っていく信心ではなく、煩悩の中に生ずる「清浄の願往生心」です。通仏教の定義として「清浄」とは不浄の煩悩の無いことですから、煩悩があるままで「清浄」の心を自力で起こすことは不可能です。

『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれて

四つには心清浄のゆゑに。心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。

とある通りです。

なお、親鸞聖人は、善導大師の「すなはち貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。」を

すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。

と読み替えられたので、この「生ずる」と「生ぜしむる」の違いが自力と他力との違いだと高森会長はこじつけたのですが、「清浄」の意味を知っているなら、そんな解釈は成り立ちません。

ついでですから煩悩しかない凡夫に「清浄願往生心」が「生じる」あるいは「生ぜしむる」ことがあるのかについて親鸞聖人は、証巻で『浄土論註』を引かれてこう教えられてます。

問うていはく、衆生清浄といへるは、すなはちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろの人・天、この清浄の数に入ることを得んや、いなやと。
答へていはく、清浄と名づくることを得るは、実の清浄にあらず。たとへば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもつてのゆゑに名づけて比丘とす、凡夫の出家のものをまた比丘と名づくるがごとし。また灌頂王子初生のとき、三十二相を具して、すなはち七宝のために属せらる。いまだ転輪王の事をなすことあたはずといへども、また転輪王と名づくるがごとし。それかならず転輪王たるべきをもつてのゆゑに。かのもろもろの人・天もまたまたかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じてまさに清浄法身を得べし。まさに得べきをもつてのゆゑに、清浄と名づくることを得るなりと。

(現代語訳)

問うていう。衆生世間清浄といったのは仏と菩薩についてである。浄土に往生する人間や神々もこの清浄の衆生の中に入るのであろうか。
答えていう。清浄ということはできるが、本当の清浄ではない。たとえば、出家した聖者は煩悩を滅しているから比丘といわれるが、まだ煩悩を滅していない凡夫が出家しても比丘といわれるようなものである。また転輪聖王の王子は、生れた時に三十二相をそなえ七宝を持っている。まだ転輪聖王の仕事をすることはできないが、転輪聖王といわれるようなものである。それは必ず転輪聖王となるからである。浄土に往生する人間や神々もその通りであって、みな大乗の正定聚に入ってついには清浄法身を得ることができる。だから清浄ということができるのである。

他力の真実信心を頂いたからといっても、「清浄」の心や身が凡夫の中に存在しているのではなく、死後に「清浄」の浄土に往生して「清浄」の心と身を得られることを「衆生清浄」と仰ったものだということです。したがって、「清浄願往生心」を頂いても絶対の幸福というような特別な境地になることはありません。だから、「四五寸」の「善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ」なのです。

今回は、仏教の基本である「清浄」の意味を知っていれば難しい内容ではないと思いますが、仏教の基本である「清浄」の意味さえ知らない親鸞会の会員ではチンプンカンプンの内容だったと思います。

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2020年6月 3日 (水)

びっくり仰天解釈の後は、何事もなかったかのように元に戻った二河白道の説明

高森顕徹会長は雲隠れしたままですが、高森会長が親鸞聖人の教えを正しく伝えようという気がないのは、その態度からも明らかです。

親鸞聖人が同行に最も伝えられたかったことは何か、ということを知る手掛かりは、親鸞聖人が関東の同行に出されたお手紙にあります。『末灯鈔』に

ちからを尽して『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力の文』のこころども、二河の譬喩なんど書きて、かたがたへ、ひとびとにくだして候ふ

(現代語訳)

力を尽して『唯信鈔』や『後世物語聞書』や『自力他力事』の内容や、 二河の譬えなどを書いて、 各地の人々にお送りしました

とあります。親鸞聖人が大変に尊敬されていた聖覚法印と隆寛律師の著書と、二河白道の譬喩について、特に力を尽くされて書き写されて送られたと仰っています。
聖覚法印と隆寛律師は、法然上人の教えそのままに念仏一行を勧められた方々です。親鸞聖人が念仏一行を同行に教えられていたことは、疑う余地のないことになります。それと共に二河白道の譬喩を親鸞聖人が教えられていたこともまた、疑う余地がありません。

この二河白道の譬喩について今回は述べたいと思います。

根本的な話として、白道は信前の自力の求道か、信後他力の念仏の道なのかという問題があります。高森会長は前者だと言い続けていたので、それは完全な間違いで後者だとして私はこう表現してきました。

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

8年以上前に、親鸞会に叩き付けた親鸞聖人の仰せと高森会長の主張との違い10項目の1つです。

これに対してそのうち反論があるものと期待していたところ、平成24年12月に行われた講師部講義(特専部も参加)で突如このようなことを言ったので驚きました。平成25年2月号の『顕真』にこう書かせています。

「白道」は自力か、他力か

 講師部・特専部への昨年12月のご講義で、高森先生は、本誌10月号の「ひと口問答」を詳しくご解説くださった。
「白道」を自力の心というのは間違いだ、と非難してくるのは、本願寺でもかなりの学者と見られる。それを、どう破られているのだろうか。

私が非難しているのですから、この私のことを指して「本願寺でもかなりの学者と見られる」としたのです。本願寺からこのような非難はありませんし、私は本願寺の学者でもありません。私の

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

この非難を、「本願寺でもかなりの学者と見られる」と言わざるを得なかったのは、高森会長がどんな詭弁を使ってでも誤魔化せず、しかもかつての弟子に見下されたことを認めたくなかった悔しさの表われでしょう。

高森会長が私の非難に対して言ったことを、受講者からの手紙で語らせています。

 善導大師が、二河白道の譬えで「自力」だと教えられた「白道」を、親鸞聖人は「他力」と読まれたことを教えて頂きました。
 また、高森先生は、「白道」とは「他力」ではないかという非難が来ることをとっくの昔に予測され、相手に打ち込ませるようにご説法なされていたことにも驚きました。

要するに、

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

この非難はその通りであるが、

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
善導大師 自力
高森会長 自力

だから、善導大師の教えられ方で親鸞聖人の教えを伝えているのだ、というびっくり反論でした。

結局は、親鸞聖人の教えでは白道は他力だと認めたのですが、高森会長は未だに白道を自力で教え続けているのですから、会員の頭の中は”高森先生の深い御心”と思考停止するしかありません。もちろん、善導大師も親鸞聖人と同じで、白道を信後の道で仰っていますので、びっくり詭弁も通用しません。

次回以降、詳しく解説していきます。

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