「念仏を称えて往生する」を否定する高森顕徹会長と親鸞会は、真宗に非ず
最近、信心と念仏との関係について、質問を頂くことが多いので、まとめておきます。
18願の往生について、表現としては3通りあります。
1.信心を獲て往生する
2.念仏を称えて往生する
3.信心を伴った念仏を称えて往生する
この3つのうちで、1だけが正しくて、2は間違い、3の念仏は信後の報謝の念仏というのが、親鸞会の教えです。
しかし、普通に考えれば、親鸞聖人も蓮如上人も2で仰っている箇所があるのですから、2が間違いだという発想自体が、完全な間違いです。
2の代表的な根拠としては『正信偈』の
極重の悪人はただ仏を称すべし
でこの元が『教行信証』行巻に『往生要集』を引かれて
極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得
とあります。
極重の悪人は、念仏を称えることによって極楽に生まれることができると断言されています。
『高僧和讃』源信讃にも、
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
とありますし、蓮如上人も『正信偈大意』で
「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。
と仰っています。
『尊号真像銘文』には
「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。
とあり、往生の正因は念仏であるともされています。
これは法然上人の『選択本願念仏集』のお言葉を親鸞聖人が解説されたものですが、同じく『選択本願念仏集』の三選の文を『教行信証』行巻に引かれて、その最終結論が
称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。
とあり、念仏を称えている者が、必ず往生できるというのが18願です。
行巻には念仏によって往生できるという七高僧方の文がたくさんありますが、曇鸞大師の『浄土論註』の
かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに
も真宗では有名です。高森顕徹会長は知らないでしょうが。念仏して往生するという道以外にはないとされています。
また『唯信鈔文意』にも
「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。
と仰り、念仏を称える人だけが往生できるとまで断言されています。
同じく『唯信鈔文意』には18願を解釈されて
「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。
と仰っています。念仏を称えた者を浄土に生まれさせる、というのが18願ということです。
蓮如上人も『正信偈大意』の中で曇鸞大師が菩提流支から
これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし
と言われたとされています。曇鸞大師は菩提流支の言葉にしたがって、念仏して生死を逃れられたと教えられています。
もっと単純には、18願のことを「念仏往生の願」と、親鸞聖人も蓮如上人も仰っているのですから、「念仏を称えて往生する」はどんなに頑張っても否定できないのです。
この他にも、「念仏を称えて往生する」との表現はたくさんあります。
そうであるなら、「信心を獲て往生する」ということと、「念仏を称えて往生する」こと、更には「信心を伴った念仏を称えて往生する」とは、すべて同じ意味であると考えるのが、当然なのでしょうが、その当然の思考ができないのです。
このように言うと、信心と念仏は違う、という頓珍漢な反論を平気でしてくる人がいますので、次回は、信心とは何かについて述べます。
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