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2020年5月 2日 (土)

「念仏の信心」を否定すると釈尊、勢至菩薩の否定になり、歴代の善知識方と安心が異なることになるので、ご注意を

親鸞聖人は当然のこととして、蓮如上人も「念仏の信心」を教えられた方であることは、前回述べました。蓮如上人が特別に尊敬されていたのが、存覚上人です。

『御一代記聞書』には、

前々住上人、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。
こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

あるいは、

存覚は大勢至の化身なり

さては釈迦の化身なり

とまで仰っています。
その存覚上人の『真要鈔』には、こうあります。

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。しかのみならず、おなじき『経』の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。

一向専修の念仏」を「決定往生の肝心」と最初に仰っています。そして18願について「念仏の信心をすすめて諸行を説かず」と仰っています。ここに「念仏の信心」とあります。18願の内容はこの後に「乃至十念の行者かならず往生を得べし」とされました。念仏の行者は必ず往生できる、ということです。これが「念仏の信心」になります。
更には、『大無量寿経』の三輩の文にある「一向専念無量寿仏」について、「一向」は「ただ念仏の一行にむかへ」であり、「専念」は「ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれ」と仰っていますので、「一向専念無量寿仏」とは、ただ念仏だけを称えて、阿弥陀仏を念じよ、ということになります。

ですから、ここでの「念仏の信心」とは、念仏一行になり極まったことになりますので、前回紹介した『正信偈大意』の「専修正行になりきはまるかたの執心」と一致しています。

また『真要鈔』では法然上人の三選の文を引用されてその結論として

決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもつぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。

とも仰っています。
往生したいと強く願っている人は、「念仏の一行をもつぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと」で往生できるのだと教えられています。「念仏の一行をもつぱらにして」も「専修」も「一向」も皆、同じ意味です。念仏一行抜きの信心も往生もありません。信後に報謝の念仏一行になれという意味でないことは、明白です。

更には

釈迦・弥陀および十方の諸仏の御こころにしたがひて 念仏を信ぜんひと、かならず往生の大益を得べしといふこと、疑あるべからず。

ともありますし、18願成就文の解釈を

一切の衆生、無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまへりしゆゑなり

とまでされています。18願成就文の「信心」は、「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」です。

親鸞会ではどうすれば助かるかについて

成就文には念仏がないから信心一つ

とか言っていますが、この「信心」に念仏があるのです。

ついでにこの後には

念仏の行者、一念の信心定まるとき

とも仰っていますが、これも『正信偈大意』の「一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば」と同じです。
念仏の行者」に「一念の信心定まる」のです。「一念の信心定ま」った後に「念仏の行者」になるのではありません。

蓮如上人が『正信偈大意』で「念仏の信心」を教えられたのは、存覚上人の影響が大きかったと言えます。それは当然で、親鸞聖人も「念仏の信心」を教えられていますので、今更説明するまでもないことなのですが、成就文には念仏がないとか信前行後に拘って、「念仏の信心」を否定すると釈尊、勢至菩薩の否定であり、法然上人、親鸞聖人、存覚上人、蓮如上人と異なる安心になりますので、ご注意を。

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コメント

若い時は知りませんが、高森顕徹先生の口からお念仏を聞いたことは一度もありません。先生のお口からほとばしるお念仏を聞きたい、といつも思っております。なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたい

投稿: 愛読者 | 2020年5月 3日 (日) 10時16分

いつも有り難うございます。
先日親鸞会会員から、念仏より信心だなどと馬鹿なことを言われたので、誰がそんな事言ってるのは誰だと言うと、親鸞聖人ですという。たしかに親鸞聖人は、信じる一つで助かると教えられた方でした。信じる内容が問題です。飛雲さんならどのような根拠を出されますでしょう。

投稿: いいちこ | 2020年5月14日 (木) 10時35分

いいちこ様

私ならとりあえず以下のように言います。

『正信偈』の

極重の悪人はただ仏を称すべし

でこの元が行巻の

極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得

です。
極重の悪人は、念仏を称えることによって極楽に生まれることができると断言されています。
他にも、『尊号真像銘文』に

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

とあり、往生の正因は念仏であるとも断言されています。

『唯信鈔文意』にも

「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。

等、まだまだ根拠はたくさん挙げることができます。

それと信心正因との関係は、法の深信で親鸞会では知らない言い方が行巻と信巻に同じ文があり、

深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく

これは、念仏を称えることが10回から念仏の教えを聞く人まで往生できると深信することを法の深信、つまり真実の信心と明言されています。
『末灯鈔』では、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

とあります。念仏称えて間違いなく往生できると深く信じたことを信心と仰っています。

念仏が往生の正因と信じる信心が正因というのが、信心正因、唯信独達という意味です。

判りやすい根拠は上記です。

投稿: 飛雲 | 2020年5月14日 (木) 14時52分

ありがとうございました。
スッキリしました。心は晴れているのに、言い返せなくてモヤモヤしていました。
あの人も気付いてくれたらと願ってなりません。南無阿弥陀仏

投稿: いいちこ | 2020年5月15日 (金) 17時11分

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