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2020年5月15日 (金)

「他力の信心」「念仏の信心」「本願念仏を信楽する」「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」「専修正行になりきはまりたるかたの執心」は、皆同義であることを知らない異安心

以前にも言いましたが、信心とは「念仏の信心」です。存覚上人がそう仰った根拠を示しましたが、存覚上人を別格扱いで尊敬されていた蓮如上人もまた「念仏の信心」と仰っています。

『御文章』1帖8通に

しかるあひだ念仏の信心を決定して極楽の往生をとげんとおもはざらん人々は

とあり、3帖13通には

このこころえのとほりをもつて、すなはち弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがたとはいふべし。かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは、さてもかかるわれらごときのあさましき一生造悪の罪ふかき身ながら、ひとたび一念帰命の信心をおこせば、仏の願力によりてたやすくたすけたまへる弥陀如来の不思議にまします超世の本願の強縁のありがたさよと、ふかくおもひたてまつりて、その御恩報謝のためには、ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり。

とあります。「他力の信心」=「念仏の信心」=「一念帰命の信心」です。「他力の信心をえたる念仏行者のすがた」という表現、また「念仏の信心」を獲た後の念仏について「御恩報謝」と仰っていますので、「念仏の信心」の「念仏」が御恩報謝でないことは、それなりの教養があれば国語の問題として理解できるはずです。「念仏行者」が「念仏の信心」を獲るのです。

さて、親鸞会が真実の信心かどうかを判断する物差しとしているのが二種深信ですが、『散善義』にある法の深信には「念仏」という語はありません。しかし、『散善義』深心釈には七つの深信があります。第三深信から第七深信までは、第二深信の法の深信を詳しく解説されたものとされています。

第六深信には、

また一切の行者、ただよくこの『経』によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。(中略)このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。

(現代語訳)

また、すべての行者たちよ、ただこの『観無量寿経』に示される行を深く信じることだけが、決して人々を誤らせないのである。(中略)だから、今この時、往生を願うすべての人々に勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、ひとすじに行を修めるがよい。菩薩などの説く、仏のお心にかなっていない教えを信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、自ら往生という大いなる利益を失ってはならない。

とあります。ここでの「」は念仏のことですが、更にはっきり仰ったのが第七深信の

一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。

(現代語訳)

ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えるのである。いついかなるときにも、また時の長短を問わず、他力回向の念仏を行じるのを正定業という。阿弥陀仏の本願にしたがうからである。

です。法然上人がこの一文を読まれて信心を獲られたとは親鸞会でも説明している文です。
信心とは念仏を称えて往生すると信ずることなのです。

更には、親鸞会では知らない二種深信の他の表現が『往生礼讃』に

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

(現代語訳)

二つには深心。 すなわちこれは真実の信心である。 わが身は、 あらゆる煩悩を具えている凡夫であり、 善根は少なく、 三界にさまよって迷いの境界を出ることができないと信知し、 いま弥陀の本願は、 名号を称えること、 わずか十声・一声などの者に至るまで、 まちがいなく往生を得させてくださると信知して、 一声の称名に至るまで疑いの心がないから深心と名づける。

とされて、念仏を称えることで往生できると疑いの心がないのが真実の信心と善導大師は判りやすく教えられました。
ただし親鸞聖人は、これを少し変えられた

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

を行巻と信巻に二度、引かれています。「一声等」が「聞等」になっていることから、念仏の行に拘れなかった信心だということはできます。だからと言って、念仏とは関係ない信心ではなく、「名号を称すること」を聞くことです。

もう少し判りやすいのが『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

とあります。念仏称えて間違いなく往生できると深く信じたことを信心と仰っています。

蓮如上人は『正信偈大意』にて

「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」といふは、弥陀如来の本願の念仏をば、邪見のものと驕慢のものと悪人とは、真実に信じたてまつること難きがなかに難きこと、これに過ぎたるはなしといへるこころなり。

と仰り、「本願の念仏」を「真実に信じたてまつること」が極めて難しいのであって、「本願の信心」ではないことは、国語の常識として理解できるはずです。

また

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。

ともありまして、自力の信心と他力の信心とを峻別されています。
他力の信心は、「専修正行になりきはまるかたの執心」ですので、念仏一行で往生できるとなり極まった信心です。

つまり、他力の信心とは、「念仏を称えて往生する」と疑いなく信じたことですので、前回出した

1.信心を獲て往生する
2.念仏を称えて往生する
3.信心を伴った念仏を称えて往生する

すべて同じことになるのです。ただし、「念仏を称えて往生する」という信心にも、自力と他力とがあるので、親鸞聖人は「あさく信じて」「深く信じて」、蓮如上人は「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」「専修正行になりきはまりたるかたの執心」という言い方で後者を強調されて勧められているのです。

これが理解できないと、他力の信心は判りませんし、聖教が読めなくなるのです。

信前に、往生のための念仏を勧めることと、往生のための信心を勧めることは同義なのですが、信心を勧めるのは良くて、念仏を勧めるのは間違いという高森顕徹会長の主張が、この典型です。

いつも言いますように、親鸞聖人は、最初から他力の念仏を勧められているのです。しかし、最初から他力念仏になれない、つまり自力念仏にしかなっていないことがあってでも、それが間違いだとは仰っておらず、自力念仏では化土往生にしかならないから他力念仏での報土往生を目指しなさい、と仰っているのです。蓮如上人も同じです。

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