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2020年5月10日 (日)

「少善根・少功徳・少福徳因縁」の諸善を勧め、「多善根・多功徳・多福徳因縁」の念仏を侮蔑する親鸞会

親鸞聖人は18願他力の信心を勧められていることは、これまで何十回と述べてきた通りですが、一方で20願自力念仏を親鸞聖人はどう見られているのかを紹介しておきます。

『教行信証』化土巻に

『観経』に准知するに、この『経』にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き

(現代語訳)

『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ

とありまして、20願自力念仏の行者とは、善を嫌われ貶されて念仏だけに一心となった人を言います。その20願自力念仏は何の意味も功徳もないのかと言えば、全く違います。「多善根・多功徳・多福徳因縁」と仰っています。これは諸善の「少善根・少功徳・少福徳因縁」との対比になっていますので、因果の道理を信じているのであれば、諸善を捨てて念仏一行に励むのが筋というものです。それをしないのは、念仏が「多善根・多功徳・多福徳因縁」と思わず、諸善よりも劣る「少善根・少功徳・少福徳因縁」としか見做していないことになります。

なお、この根拠を親鸞聖人はこの後紹介されています。

元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。

(現代語訳)

元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。
「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>」

20願自力念仏は「多善根・多功徳・多福徳因縁」であるのですから、当然その利益は素晴らしいものです。具体的には、化土往生だと親鸞聖人は教えられています。信心のない自力念仏であってでも、化土往生をさせて頂けるのです。
もう一度言いますと、

信心がなくてでも化土に往生させて頂けるのが「多善根・多功徳・多福徳因縁」の20願自力念仏です。

したがいまして、自力念仏を軽視したり、侮蔑するようなことは真宗ではあり得ないのです。

ただし、報土往生ではないので、親鸞聖人は信心のある念仏を勧められているのです。念仏を無視した信心ではなく、念仏の上に信心を獲ることを強調されているのですから、信心と言っても念仏を称えるのは前提になります。

これは信行両座の諍論もそういうことで、念仏の信と念仏の行という選択肢であったのです。念仏の行では自力念仏か他力念仏かの区別がつきませんが、そこに念仏の信心の有無で報土往生か化土往生か分かれるという諍論です。念仏と信心という対立ではないことをよく知らなければなりません。

まとめると、親鸞聖人は20願自力念仏を「多善根・多功徳・多福徳因縁」とまで仰っていますが、それ以上なのが18願他力念仏なので、18願他力念仏を勧められたということです。
蓮如上人も全く同じです。

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