真実の信心=「一心専念」=「念仏一行と深信」が理解できない、念仏とは別のものを深信する親鸞会信心
新型コロナに怯えまくって、降誕会を8月の追悼法要と兼ねて開催すると宣言した高森顕徹会長ですが、命がけの布教も命がけの聞法を勧めたのも、口先だけだったと今更ながら判る事例です。
さて、前回紹介しました第七深信
一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。
の「一心専念」について、親鸞聖人は『教行信証』信巻で解釈されています。
光明寺の和尚は「一心専念」といひ、また「専心専念」といへり。
しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
(中略)
宗師の「専念」といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」といへるは、すなはちこれ一心なり。
しかれば願成就の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。(現代語訳)
善導大師は『観経疏』に「一心専念」(散善義)といわれ、また「専心専念」(散善義)といわれている。
ところで『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。「歓喜」というのは、身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。「乃至」というのは、多いのも少ないのも兼ねおさめる言葉である。「一念」というのは、信心は二心がないから一念という。これを一心というのである。この一心が、すなわち清らかな報土に生れるまことの因である。
(中略)
善導大師が「専念」といわれたのは、念仏一行である。「専心」といわれたのは、二心のない一心のことである。
すなわち、本願成就の文に「一念」とあるのは二心のない心、すなわち専心である。この専心は深い心、すなわち深心である。この深心は深く信じる心、すなわち深信である。
以上から「一心専念」とは
「一心」=「一念」=「二心なき」=「専心」=「深心」=「深信」
「専念」=「一行」
です。何に「一心」「深信」なのかと言えば、「一行」にです。つまり真実の信心とは、念仏一行で往生できると二心なく深く信じることという意味になります。
これは蓮如上人も同じです。たとえば『領解文』の
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
は、信心の内容について仰ったものですが、前回の『正信偈大意』と比較しながらみていくと
雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。
「雑行雑修」はそのままですから、「雑行雑修」をふりすてると、「専修正行」になります。ただし、「専修正行」でも「なりきはまる」かどうかで他力と自力に分かれます。ですから、「自力のこころをふりすてて」とは「専修正行になりきはま」っていない信心をふりすてることです。
それで「雑行雑修自力のこころをふりすて」るとどうなるのかが、「一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」ですが、これは『正信偈大意』だと「専修正行になりきはまるかたの執心」になることに当たります。
要するに、蓮如上人が「一心に弥陀に帰命せよ」と度々仰っているのは、「専修正行になりきはまるかたの執心」になれということであり、親鸞聖人のお言葉で言うなら「一心専念」のことです。
まとめると、親鸞聖人、蓮如上人が仰る真実の信心とは、
「一心専念」
=「専修正行になりきはまるかたの執心」
=念仏一行で往生できると二心なく深く信じること
です。念仏の抜けた信心ではないし、念仏とは別の信心でもありません。「念仏の信心」と蓮如上人が仰っているのは、言葉通りで、裏読みの必要もないし、暗号を解く必要もないのです。
その上での信心正因称名報恩だということを知らないと、親鸞会のように信心はいつまで経っても判りません。
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コメント
親鸞会は、どうしても信心と念仏を別のものとしてしか理解できないみたいですね
真宗のイロハがわかっていないです
名号といってもなにか目に見えないエネルギーのかたまりのようにおもっているのでしょう
これも念仏とはいつも切り離されます
念仏=お礼という説明だけで念仏をとらえているのが間違いですね
私も退会してからこれがわかるまで時間がかかりました
投稿: a | 2020年5月17日 (日) 22時50分
もちろん、
「信心正因 称名報恩」ですが、学者の中には、
「念仏往生 信心正因」の方が、正確だという方もいるようです。
投稿: 土見誠輝 | 2020年5月18日 (月) 19時14分
a様
私もこのことが判るまで、結構な時間がかかりました。
土見誠輝様
なるほどです。念仏往生もしくは念仏成仏を踏まえた上での信心正因ですね。
投稿: 飛雲 | 2020年5月18日 (月) 19時56分