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2020年5月

2020年5月23日 (土)

「雑行をすてて」=「専修専念」と教えられたのが蓮如上人だということも理解できない高森顕徹会長と親鸞会会員

蓮如上人の『正信偈大意』ばかりを取り上げると、

凡夫往生の鏡である『御文章』には信後の念仏しか仰っていない

と、難癖をつけてくる人がいますので、『御文章』で信心と念仏との関係を見てみます。

2帖3通には、

開山親鸞聖人のすすめましますところの弥陀如来の他力真実信心といふは、もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、本願を信楽する体とす。

とあります。
他力真実信心」=「もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命する
ですが、「専修」は念仏一行を修すること、「専念」も念仏一行ですので、「雑行」を捨てて念仏一行を修して阿弥陀仏に一向一心に帰命することが真実の信心なのです。
念のためもう一度言うと、「専修専念」して「一向一心に弥陀に帰命する」のです。「一向一心に弥陀に帰命する」後に報謝の「専修専念」とは仰っていません。

2帖8通は

それ、当流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむきといふは、なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。これまことにわれらが往生の決定するすがたなり。

と仰っていますが、ここは「弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」の後に「専修専念」とあるものの、「雑行をすてて」も「専修専念」と同列に扱われていますので、信心を獲た後に、「雑行をすてて」にならないことが判れば、ここも2帖3通と同じ意味と理解できるでしょう。

3帖6通は信心を獲る状態のことを仰っています。

それ南無阿弥陀仏と申すはいかなるこころぞなれば、まづ「南無」といふ二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また「南無」といふは願なり、「阿弥陀仏」といふは行なり。されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。

雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて」は、「雑行」を捨てて「専修専念」する、ということですので、行としての雑行を止めて行としての念仏だけを称える状態を教えられ、そこに「たすけたまへとおもふ帰命の一念おこる」のです。日本語として、信心を獲た時に「雑行」を捨てさせられて、報謝の念仏となる、という意味にはなりません。文章の流れから言うと

1.「雑行」をなげすてる
   ↓
2.「専修専念」
   ↓
3.「帰命の一念おこる」

です。この続きが
4.「御恩報謝の念仏」
です。

今は、時間的に差があるかどうかの話をしているのではなく、説明の順序の話をしています。行としては1と2は同じことになりますが、2の「専修専念」には自力の「専修専念」と他力の「専修専念」がありますので、自力の「専修専念」から他力の「専修専念」になってそれが「帰命の一念おこる」ことなのです。それを

ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。

と仰っているのです。自力の「専修専念」では「それはおぼつかなきことなり」であって、「専修専念」自体を否定されたのではありません。

こういうと、徹底的に捻くれた親鸞会の会員はこういうでしょう。

「専修専念」と仰っていないお手紙の方が多いから、信前に「専修専念」があるとは蓮如上人は仰っていない!

少なくとも「専修専念」と仰っている箇所があるのですから、それを否定する神経が判りませんが、先ほど言いましたように「雑行」を捨てることと「専修専念」になることは行として同じことですので、「専修専念」となくても、「雑行」を捨てるとは念仏一行になること以外に意味はないのです。

この辺りは国語の問題ですから、理解できなければ、国語の先生に教えてもらってきてください。

今回は国語の問題で、それほど難しい内容ではありませんが、高森顕徹会長の「文法も鉄砲もあるか!」という無茶苦茶な論理を信じる人には理解できないかもしれません。

哀れです。

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2020年5月17日 (日)

真実の信心=「一心専念」=「念仏一行と深信」が理解できない、念仏とは別のものを深信する親鸞会信心

新型コロナに怯えまくって、降誕会を8月の追悼法要と兼ねて開催すると宣言した高森顕徹会長ですが、命がけの布教も命がけの聞法を勧めたのも、口先だけだったと今更ながら判る事例です。

さて、前回紹介しました第七深信

一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。

の「一心専念」について、親鸞聖人は『教行信証』信巻で解釈されています。

光明寺の和尚は「一心専念」といひ、また「専心専念」といへり。

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
(中略)
宗師の「専念」といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」といへるは、すなはちこれ一心なり。
しかれば願成就の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。

(現代語訳)

善導大師は『観経疏』に「一心専念」(散善義)といわれ、また「専心専念」(散善義)といわれている。

ところで『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。「歓喜」というのは、身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。「乃至」というのは、多いのも少ないのも兼ねおさめる言葉である。「一念」というのは、信心は二心がないから一念という。これを一心というのである。この一心が、すなわち清らかな報土に生れるまことの因である。
(中略)
善導大師が「専念」といわれたのは、念仏一行である。「専心」といわれたのは、二心のない一心のことである。
すなわち、本願成就の文に「一念」とあるのは二心のない心、すなわち専心である。この専心は深い心、すなわち深心である。この深心は深く信じる心、すなわち深信である。

以上から「一心専念」とは

一心」=「一念」=「二心なき」=「専心」=「深心」=「深信

専念」=「一行

です。何に「一心」「深信」なのかと言えば、「一行」にです。つまり真実の信心とは、念仏一行で往生できると二心なく深く信じることという意味になります。

これは蓮如上人も同じです。たとえば『領解文』の

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

は、信心の内容について仰ったものですが、前回の『正信偈大意』と比較しながらみていくと

雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。

雑行雑修」はそのままですから、「雑行雑修」をふりすてると、「専修正行」になります。ただし、「専修正行」でも「なりきはまる」かどうかで他力と自力に分かれます。ですから、「自力のこころをふりすてて」とは「専修正行になりきはま」っていない信心をふりすてることです。
それで「雑行雑修自力のこころをふりすて」るとどうなるのかが、「一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」ですが、これは『正信偈大意』だと「専修正行になりきはまるかたの執心」になることに当たります。

要するに、蓮如上人が「一心に弥陀に帰命せよ」と度々仰っているのは、「専修正行になりきはまるかたの執心」になれということであり、親鸞聖人のお言葉で言うなら「一心専念」のことです。

まとめると、親鸞聖人、蓮如上人が仰る真実の信心とは、

一心専念
=「専修正行になりきはまるかたの執心
念仏一行で往生できると二心なく深く信じること

です。念仏の抜けた信心ではないし、念仏とは別の信心でもありません。「念仏の信心」と蓮如上人が仰っているのは、言葉通りで、裏読みの必要もないし、暗号を解く必要もないのです。

その上での信心正因称名報恩だということを知らないと、親鸞会のように信心はいつまで経っても判りません。

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2020年5月15日 (金)

「他力の信心」「念仏の信心」「本願念仏を信楽する」「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」「専修正行になりきはまりたるかたの執心」は、皆同義であることを知らない異安心

以前にも言いましたが、信心とは「念仏の信心」です。存覚上人がそう仰った根拠を示しましたが、存覚上人を別格扱いで尊敬されていた蓮如上人もまた「念仏の信心」と仰っています。

『御文章』1帖8通に

しかるあひだ念仏の信心を決定して極楽の往生をとげんとおもはざらん人々は

とあり、3帖13通には

このこころえのとほりをもつて、すなはち弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがたとはいふべし。かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは、さてもかかるわれらごときのあさましき一生造悪の罪ふかき身ながら、ひとたび一念帰命の信心をおこせば、仏の願力によりてたやすくたすけたまへる弥陀如来の不思議にまします超世の本願の強縁のありがたさよと、ふかくおもひたてまつりて、その御恩報謝のためには、ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり。

とあります。「他力の信心」=「念仏の信心」=「一念帰命の信心」です。「他力の信心をえたる念仏行者のすがた」という表現、また「念仏の信心」を獲た後の念仏について「御恩報謝」と仰っていますので、「念仏の信心」の「念仏」が御恩報謝でないことは、それなりの教養があれば国語の問題として理解できるはずです。「念仏行者」が「念仏の信心」を獲るのです。

さて、親鸞会が真実の信心かどうかを判断する物差しとしているのが二種深信ですが、『散善義』にある法の深信には「念仏」という語はありません。しかし、『散善義』深心釈には七つの深信があります。第三深信から第七深信までは、第二深信の法の深信を詳しく解説されたものとされています。

第六深信には、

また一切の行者、ただよくこの『経』によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。(中略)このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。

(現代語訳)

また、すべての行者たちよ、ただこの『観無量寿経』に示される行を深く信じることだけが、決して人々を誤らせないのである。(中略)だから、今この時、往生を願うすべての人々に勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、ひとすじに行を修めるがよい。菩薩などの説く、仏のお心にかなっていない教えを信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、自ら往生という大いなる利益を失ってはならない。

とあります。ここでの「」は念仏のことですが、更にはっきり仰ったのが第七深信の

一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。

(現代語訳)

ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えるのである。いついかなるときにも、また時の長短を問わず、他力回向の念仏を行じるのを正定業という。阿弥陀仏の本願にしたがうからである。

です。法然上人がこの一文を読まれて信心を獲られたとは親鸞会でも説明している文です。
信心とは念仏を称えて往生すると信ずることなのです。

更には、親鸞会では知らない二種深信の他の表現が『往生礼讃』に

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

(現代語訳)

二つには深心。 すなわちこれは真実の信心である。 わが身は、 あらゆる煩悩を具えている凡夫であり、 善根は少なく、 三界にさまよって迷いの境界を出ることができないと信知し、 いま弥陀の本願は、 名号を称えること、 わずか十声・一声などの者に至るまで、 まちがいなく往生を得させてくださると信知して、 一声の称名に至るまで疑いの心がないから深心と名づける。

とされて、念仏を称えることで往生できると疑いの心がないのが真実の信心と善導大師は判りやすく教えられました。
ただし親鸞聖人は、これを少し変えられた

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

を行巻と信巻に二度、引かれています。「一声等」が「聞等」になっていることから、念仏の行に拘れなかった信心だということはできます。だからと言って、念仏とは関係ない信心ではなく、「名号を称すること」を聞くことです。

もう少し判りやすいのが『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

とあります。念仏称えて間違いなく往生できると深く信じたことを信心と仰っています。

蓮如上人は『正信偈大意』にて

「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」といふは、弥陀如来の本願の念仏をば、邪見のものと驕慢のものと悪人とは、真実に信じたてまつること難きがなかに難きこと、これに過ぎたるはなしといへるこころなり。

と仰り、「本願の念仏」を「真実に信じたてまつること」が極めて難しいのであって、「本願の信心」ではないことは、国語の常識として理解できるはずです。

また

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。

ともありまして、自力の信心と他力の信心とを峻別されています。
他力の信心は、「専修正行になりきはまるかたの執心」ですので、念仏一行で往生できるとなり極まった信心です。

つまり、他力の信心とは、「念仏を称えて往生する」と疑いなく信じたことですので、前回出した

1.信心を獲て往生する
2.念仏を称えて往生する
3.信心を伴った念仏を称えて往生する

すべて同じことになるのです。ただし、「念仏を称えて往生する」という信心にも、自力と他力とがあるので、親鸞聖人は「あさく信じて」「深く信じて」、蓮如上人は「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」「専修正行になりきはまりたるかたの執心」という言い方で後者を強調されて勧められているのです。

これが理解できないと、他力の信心は判りませんし、聖教が読めなくなるのです。

信前に、往生のための念仏を勧めることと、往生のための信心を勧めることは同義なのですが、信心を勧めるのは良くて、念仏を勧めるのは間違いという高森顕徹会長の主張が、この典型です。

いつも言いますように、親鸞聖人は、最初から他力の念仏を勧められているのです。しかし、最初から他力念仏になれない、つまり自力念仏にしかなっていないことがあってでも、それが間違いだとは仰っておらず、自力念仏では化土往生にしかならないから他力念仏での報土往生を目指しなさい、と仰っているのです。蓮如上人も同じです。

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「念仏を称えて往生する」を否定する高森顕徹会長と親鸞会は、真宗に非ず

最近、信心と念仏との関係について、質問を頂くことが多いので、まとめておきます。

18願の往生について、表現としては3通りあります。

1.信心を獲て往生する
2.念仏を称えて往生する
3.信心を伴った念仏を称えて往生する

この3つのうちで、1だけが正しくて、2は間違い、3の念仏は信後の報謝の念仏というのが、親鸞会の教えです。
しかし、普通に考えれば、親鸞聖人も蓮如上人も2で仰っている箇所があるのですから、2が間違いだという発想自体が、完全な間違いです。

2の代表的な根拠としては『正信偈』の

極重の悪人はただ仏を称すべし

でこの元が『教行信証』行巻に『往生要集』を引かれて

極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得

とあります。
極重の悪人は、念仏を称えることによって極楽に生まれることができると断言されています。

『高僧和讃』源信讃にも、

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

とありますし、蓮如上人も『正信偈大意』で

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

『尊号真像銘文』には

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

とあり、往生の正因は念仏であるともされています。
これは法然上人の『選択本願念仏集』のお言葉を親鸞聖人が解説されたものですが、同じく『選択本願念仏集』の三選の文を『教行信証』行巻に引かれて、その最終結論が

称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。

とあり、念仏を称えている者が、必ず往生できるというのが18願です。
行巻には念仏によって往生できるという七高僧方の文がたくさんありますが、曇鸞大師の『浄土論註』の

かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに

も真宗では有名です。高森顕徹会長は知らないでしょうが。念仏して往生するという道以外にはないとされています。

また『唯信鈔文意』にも

「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。

と仰り、念仏を称える人だけが往生できるとまで断言されています。
同じく『唯信鈔文意』には18願を解釈されて

「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。

と仰っています。念仏を称えた者を浄土に生まれさせる、というのが18願ということです。

蓮如上人も『正信偈大意』の中で曇鸞大師が菩提流支から

これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし

と言われたとされています。曇鸞大師は菩提流支の言葉にしたがって、念仏して生死を逃れられたと教えられています。

もっと単純には、18願のことを「念仏往生の願」と、親鸞聖人も蓮如上人も仰っているのですから、「念仏を称えて往生する」はどんなに頑張っても否定できないのです。

この他にも、「念仏を称えて往生する」との表現はたくさんあります。

そうであるなら、「信心を獲て往生する」ということと、「念仏を称えて往生する」こと、更には「信心を伴った念仏を称えて往生する」とは、すべて同じ意味であると考えるのが、当然なのでしょうが、その当然の思考ができないのです。

このように言うと、信心と念仏は違う、という頓珍漢な反論を平気でしてくる人がいますので、次回は、信心とは何かについて述べます。

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2020年5月10日 (日)

「少善根・少功徳・少福徳因縁」の諸善を勧め、「多善根・多功徳・多福徳因縁」の念仏を侮蔑する親鸞会

親鸞聖人は18願他力の信心を勧められていることは、これまで何十回と述べてきた通りですが、一方で20願自力念仏を親鸞聖人はどう見られているのかを紹介しておきます。

『教行信証』化土巻に

『観経』に准知するに、この『経』にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き

(現代語訳)

『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ

とありまして、20願自力念仏の行者とは、善を嫌われ貶されて念仏だけに一心となった人を言います。その20願自力念仏は何の意味も功徳もないのかと言えば、全く違います。「多善根・多功徳・多福徳因縁」と仰っています。これは諸善の「少善根・少功徳・少福徳因縁」との対比になっていますので、因果の道理を信じているのであれば、諸善を捨てて念仏一行に励むのが筋というものです。それをしないのは、念仏が「多善根・多功徳・多福徳因縁」と思わず、諸善よりも劣る「少善根・少功徳・少福徳因縁」としか見做していないことになります。

なお、この根拠を親鸞聖人はこの後紹介されています。

元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。

(現代語訳)

元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。
「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>」

20願自力念仏は「多善根・多功徳・多福徳因縁」であるのですから、当然その利益は素晴らしいものです。具体的には、化土往生だと親鸞聖人は教えられています。信心のない自力念仏であってでも、化土往生をさせて頂けるのです。
もう一度言いますと、

信心がなくてでも化土に往生させて頂けるのが「多善根・多功徳・多福徳因縁」の20願自力念仏です。

したがいまして、自力念仏を軽視したり、侮蔑するようなことは真宗ではあり得ないのです。

ただし、報土往生ではないので、親鸞聖人は信心のある念仏を勧められているのです。念仏を無視した信心ではなく、念仏の上に信心を獲ることを強調されているのですから、信心と言っても念仏を称えるのは前提になります。

これは信行両座の諍論もそういうことで、念仏の信と念仏の行という選択肢であったのです。念仏の行では自力念仏か他力念仏かの区別がつきませんが、そこに念仏の信心の有無で報土往生か化土往生か分かれるという諍論です。念仏と信心という対立ではないことをよく知らなければなりません。

まとめると、親鸞聖人は20願自力念仏を「多善根・多功徳・多福徳因縁」とまで仰っていますが、それ以上なのが18願他力念仏なので、18願他力念仏を勧められたということです。
蓮如上人も全く同じです。

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2020年5月 6日 (水)

「まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべき」です。「念仏のちからをあやぶむ」人は残念です。

存覚上人は『持名鈔』という書も著わされていますが、内容は題名の通りで、執持名号、つまり念仏を称えることを勧められた書です。少し紹介すると

ここに念仏往生の一門は末代相応の要法、決定往生の正因なり。この門にとりて、また専修・雑修の二門あり。専修といふは、ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。雑修といふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一切の行業をもくはふるなり。このふたつのなかには、専修をもつて決定往生の業とす。

とありますが、念仏一行を専ら修する「専修」が「決定往生の業」だと仰っています。「雑修」は念仏に加えて諸善を修することです。親鸞会では念仏を疎かにして、諸善を修することばかり言っていますので、「雑修」ではなく「雑行」そのものでしょう。

ここで、「専修」の説明が「ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり」となっているところから、
信心を獲た後の報謝の念仏一行のこと
と勘違いする人も出て来そうですので、そのような意味でないことは、この後を見ると判ります。

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。 一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。

最後の文の「まことにこのたび往生をとげんとおもはんひと」がどうすべきかについて、「かならず一向専修の念仏を行ずべきなり」ですので、信前の人に対して往生したいと願うのならば、念仏一行を行じなさいと言われているのです。これは存覚上人の勝手な解釈ではなく、釈尊も善導大師も、法然上人も親鸞聖人も「念仏をつとむべし」という「そのおもむきをすすめたまふ」なのです。信前の人に対して念仏を称えることだけを勧められている、ということです。

真宗の教えとはこれ以外にはないのです。
この次に念仏と信心との関係に言及されています。

しかるにうるはしく一向専修になるひとはきはめてまれなり。「難きがなかに難し」といへるは、『経』(大経)の文なれば、まことにことわりなるべし。 そのゆゑを案ずるに、いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ、日ごろ功をいれつる仏・菩薩をさしおきがたくおもふなり。 これすなはち、念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり。

信心を獲た人というのは、「うるはしく一向専修になるひと」のことです。ところが「うるはしく一向専修になるひと」が「きはめてまれ」なのです。それを「難きがなかに難し」とされて、その理由の結論が最後の文で、「念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり」なのです。諸善に心が掛かっているのは、「如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむ」からです。疑情、自力のこころとは、まさに「念仏のちからをあやぶむ」ことです。念仏は信後の報謝に限るのであれば、「念仏のちからをあやぶむ」という言い方をされることはあり得ません。
信心とは、「念仏のちから」を信じていることなのですが、それが判らない人が多いので、「難きがなかに難し」なのです。

なお、「難きがなかに難し」についての説明を親鸞聖人は『教行信証』信巻でされています。

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

(現代語訳)

律宗の用欽がいっている。
「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

この法」とは、念仏を称えて往生するという教えです。念仏を称えるという手のひらを反すように極めて容易い行で往生できると聞くと、そんな容易い行で往生できるかという疑いが浅はかな衆生には生じるから「難信」なのです。
一応、国語の問題ですが、信心を信じることが難しいのではありません。念仏を信じることが難しいのです。信心を信じる信心では日本語にならないのです。念仏を信じる信心です。
この当たり前のことが判らないと、親鸞会のように、

念仏で助かるのではない、信心一つで助かるのだ!

と判っているのかいないのか判らない説明になってしまうのです。

くどいようですが信心とは「念仏の信心」です。別の言い方をすれば、「念仏のちから」を信じることです。

本気で往生したい人は「かならず一向専修の念仏を行ずべき」で、それを疑いなく信じてください。

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2020年5月 2日 (土)

「念仏の信心」を否定すると釈尊、勢至菩薩の否定になり、歴代の善知識方と安心が異なることになるので、ご注意を

親鸞聖人は当然のこととして、蓮如上人も「念仏の信心」を教えられた方であることは、前回述べました。蓮如上人が特別に尊敬されていたのが、存覚上人です。

『御一代記聞書』には、

前々住上人、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。
こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

あるいは、

存覚は大勢至の化身なり

さては釈迦の化身なり

とまで仰っています。
その存覚上人の『真要鈔』には、こうあります。

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。しかのみならず、おなじき『経』の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。

一向専修の念仏」を「決定往生の肝心」と最初に仰っています。そして18願について「念仏の信心をすすめて諸行を説かず」と仰っています。ここに「念仏の信心」とあります。18願の内容はこの後に「乃至十念の行者かならず往生を得べし」とされました。念仏の行者は必ず往生できる、ということです。これが「念仏の信心」になります。
更には、『大無量寿経』の三輩の文にある「一向専念無量寿仏」について、「一向」は「ただ念仏の一行にむかへ」であり、「専念」は「ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれ」と仰っていますので、「一向専念無量寿仏」とは、ただ念仏だけを称えて、阿弥陀仏を念じよ、ということになります。

ですから、ここでの「念仏の信心」とは、念仏一行になり極まったことになりますので、前回紹介した『正信偈大意』の「専修正行になりきはまるかたの執心」と一致しています。

また『真要鈔』では法然上人の三選の文を引用されてその結論として

決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもつぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。

とも仰っています。
往生したいと強く願っている人は、「念仏の一行をもつぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと」で往生できるのだと教えられています。「念仏の一行をもつぱらにして」も「専修」も「一向」も皆、同じ意味です。念仏一行抜きの信心も往生もありません。信後に報謝の念仏一行になれという意味でないことは、明白です。

更には

釈迦・弥陀および十方の諸仏の御こころにしたがひて 念仏を信ぜんひと、かならず往生の大益を得べしといふこと、疑あるべからず。

ともありますし、18願成就文の解釈を

一切の衆生、無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまへりしゆゑなり

とまでされています。18願成就文の「信心」は、「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」です。

親鸞会ではどうすれば助かるかについて

成就文には念仏がないから信心一つ

とか言っていますが、この「信心」に念仏があるのです。

ついでにこの後には

念仏の行者、一念の信心定まるとき

とも仰っていますが、これも『正信偈大意』の「一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば」と同じです。
念仏の行者」に「一念の信心定まる」のです。「一念の信心定ま」った後に「念仏の行者」になるのではありません。

蓮如上人が『正信偈大意』で「念仏の信心」を教えられたのは、存覚上人の影響が大きかったと言えます。それは当然で、親鸞聖人も「念仏の信心」を教えられていますので、今更説明するまでもないことなのですが、成就文には念仏がないとか信前行後に拘って、「念仏の信心」を否定すると釈尊、勢至菩薩の否定であり、法然上人、親鸞聖人、存覚上人、蓮如上人と異なる安心になりますので、ご注意を。

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