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2020年4月23日 (木)

報土往生の因縁果を全く知らない憐れな親鸞会会員

最近のエントリーは、親鸞会の某会館の館長へのメッセージとして書き始めたものです。本日もやり取りしていましたが、聖教をそのまま読むのは間違いだという言い訳ばかりで、暗号解読できる高森顕徹会長と会員だけが聖教の意味がわかっているというようなカルトを通り越して、オカルトになってきています。

ではその聖教のお言葉を説明して、といっても絶対に説明はしません。「今までのやり取りを読めば判る」の一点張り。説明などできるわけがないのです。mixiでの法論の時もそうでした。

本当に幼稚園児の喧嘩です。レベルが低すぎて話になりません。

前回注意書きした通り、高校生並みの知能をもった会員向けにエントリーを書きますので、幼稚園児並みの人は、「読めば判る」とだけ叫んでいてください。

往生成仏の因を、すべて阿弥陀仏が用意なされ、往生成仏の果を我ら衆生が受け取る、これが本願力回向という親鸞聖人の教えの根幹です。

聖教を読まない親鸞会でも一部は聞いたことがあるであろう『教行信証』信巻の信楽釈

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。

(現代語訳)

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。
なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。
如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。

ここにも、聖道門の因果の道理に反するという非難への反論を仰っています。
凡夫が「急作急修して頭燃を灸ふがごとく」善を修しても、その程度の善ではとてもではないが報土往生はできない。なぜなら、阿弥陀仏の報土に往くには、法蔵菩薩と同じ清らかな心にならなければならないからである。だから、阿弥陀仏は報土往生の因である清らかな信心を衆生に与えてくださるのだ。

往生の因は、衆生の行に関係しているとするのが因果の道理であり、聖道門の考え方です。それとは全く違うのが阿弥陀仏の18願の救いだと親鸞聖人は教えられているのです。聖道門の行者が命がけで定散二善に励んでも、報土往生を遂げることは不可能なので、不可能を可能にするには、阿弥陀仏から因を頂く以外にはない、というのが親鸞聖人の結論です。

これを具体的に教えられたのが、親鸞会でも言葉だけは聞いたことがあるであろう、両重因縁です。
『教行信証』行巻に

まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」とのたまへり。
また「念仏成仏これ真宗」といへり。また「真宗遇ひがたし」といへるをや、知るべしと。

(現代語訳)

(阿弥陀仏という名は、念仏の衆生を摂取して捨てないといういわれを顕しているということによって)次のような事柄を知ることができました。阿弥陀仏の徳のすべてがこもっている慈父に譬えられるような名号がましまさなかったならば、往生を可能にする因が欠けるでしょう。また念仏の衆生を摂取して護りたまう悲母に譬えられるような光明がましまさなかったならば、往生を可能にする縁がないことになりましょう。
 しかしこれらの因と緑とが揃っていたとしても、もし念仏の衆生を摂取して捨てないという光明・名号のいわれを疑いなく信受するという信心がなければ、さとりの境界である光明無量の浄土に到ることはできません。信心は個体発生の根元である業識に譬えられるようなものです。それゆえ、往生の真因を機のうえで的示するならば、真実の信心を業識のように内に開ける因とし、母なる光明と父なる名号とは、外から加わる法縁とみなすべきです。これら内外の因縁がそろって、真実の報土に往生し、仏と同体のさとりを得るのです。
 それゆえ善導大師は『往生礼讃』の前序に、「阿弥陀仏は、光明と名号をもって十方の世界のあらゆる衆生を育て導いてくださいます。そのお陰で私たちは、その救いのまことであることを疑いなく信受して往生一定と浄土を期するばかりです」といわれ、また『五会法事讃』には、「念仏して成仏することこそ真実の仏法である」といわれ、また『観経疏』には、「真実のみ教えには、私のはからいで遇うことは決してできない」といわれています。よく知るべきです。

現代語訳を読んでも難しいと思いますが、簡単に説明すると、

因―名号
縁―光明
果―往生

という因縁果の関係と、もう一つ

因―信心
縁―名号・光明
果―往生

という因縁果があり、二重の因縁果であるので、両重因縁と呼ばれています。

いずれの場合においても、我ら衆生が往生する果の因も縁も阿弥陀仏から頂くものです。炭素とダイヤモンドの関係が間違いであることは、高校生並みの知能があれば理解できると思います。
18願の救いとは、ダイヤモンドの元となる炭素元素があるのではありません。全く違う元素、たとえば鉄がダイヤモンドになるようなものです。化学では絶対にあり得ない話です。

これに近い表現が行巻に引かれている『五会法事讃』にあります。

ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。

(現代語訳)

ただ信を得て念仏すれば、瓦や小石を黄金に変えるようにしてお救いくださるのである。

この親鸞聖人の解釈は『唯信鈔文意』にありますので、興味がある方はそちらを読んでください。

善をしないで念仏だけで往生成仏する、聖道門、因果の道理ではは絶対にあり得ない教えですから、聖道門が法然上人を激しく攻撃した気持ちは判ります。しかし、その絶対にあり得ない救いが阿弥陀仏の18願なのだ、と親鸞聖人は説明されているのです。

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コメント

『凡夫が「急作急修して頭燃を灸ふがごとく」善を修しても、その程度の善ではとてもではないが報土往生はできない』と親鸞聖人が教えて下さっているのに,善ができない自分と知らされるまで善に励めと教えられ,ひたすら自力で求め続ける罠に嵌められていたように思います。もう10年以上たちますが,とんでもない世界にいたものです。まだ続けている会員は,素直に疑問を感じないのでしょうか。疑問を感じたらいろいろ調べてみようと思うのが自然だと思うのですが。不思議です。

投稿: 廣海 | 2020年4月23日 (木) 20時31分

皆さんが言われるように、親鸞会の会員や講師の考え方は、親鸞聖人がどう教えられたかということはどうでも良く、高森会長の話が全てですので、高森教としか言いようがありません。そう言われて褒められたように感じるのが親鸞会の会員や講師ですから、どうにもなりません。

投稿: H.I | 2020年4月23日 (木) 21時39分

廣海様
H.I様

退会したものからすると会員がなぜこんな単純な間違いに気が付かないのかと思いますが、残っている会員のほとんどは、親鸞聖人がどう仰っても関係ない、高森先生を信じている、という高森教そのものです。
憐れなものです。

投稿: 飛雲 | 2020年4月24日 (金) 18時18分

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