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2020年4月17日 (金)

高校生並みの国語力なら簡単に理解できる雑行の話

先日、会員と話をしました。
親鸞会の言ってくることはワンパターンなので、今更驚くような発言はないのですが、教義を語る前に、高校生並みの国語の能力を身に着けることを会員にはお勧めします。

たとえば、「雑行」は文字通り「」なのですが、

「雑行」は行ではない!

と会員は平気で言うのです。漢字が読めないのでしょうが、「雑行」は「」の「」です。

以前にも当ブログのコメント欄でそのことを議論したことが何度かありますが、こんなことは教義云々以前の問題です。

その根拠は山ほどありまして、一部を紹介しておきます。

雑行」と最初に仰ったのは善導大師で、『散善義』には

次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。

とあります。「」です。

法然上人も『選択本願念仏集』に

善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

と仰っています。「往生の行」の一つが「雑行」です。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻で

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。信和尚は感師により、空聖人は導和尚によりたまふ。

と仰り、「万行」=「雑行」=「諸行」だとされています。すべて「」です。

こういう説明を会員にすると、

蓮如上人は違う、自力の心のことを「雑行」と仰っているのであり、「行」ではない!

とどんな理屈かというような摩訶不思議な反論をしてきます。

では『御文章』で「」を示すなら、3帖6通に

されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。

とありますが、「雑行雑善」という言い方を蓮如上人は他所でもよくされます。「雑善」は「」ですから、「雑行雑善」も当然「」です。これはこの後の「専修」と対の関係になっています。「専修」は念仏の「」を専ら修することですから、「雑行雑善」は、念仏以外の「」を修することを言います。

こういうとひねくれ者の会員は

「雑行」は自力の心で、「雑善」が「行」だ!

と間抜けなことを言ってくるでしょうが、少なくとも「雑善」という「」を捨てよと仰っているのですから、善という「」を捨てよが、蓮如上人の教えになります。

また3帖13通には、

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

とあり、ここも「雑行」と「雑善」がありますが、それに「こころをばとどめずして」ですから、共に「」となります。「雑行」が自力の心ならば、自力の心に心を留めるな、と訳の判らない文章になります。
なお、ここでもう一つ判ることは、「すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も」「仁義」に心がけて、「後生のためには」「自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして」ですから、信前信後を問わずに倫理道徳の善には心がけて、往生のためには「雑行」「雑善」という往生の間違った「」を捨てなさい、と蓮如上人は教えられているのです。

更には『正信偈大意』で

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。

と解説なされています。
ここで「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」と「専修正行になりきはまるかたの執心」が対になっています。自力の信心と他力の信心を仰ったものですが、判りやすく書くと

自力の信心=「雑行雑修の機をすてやらぬ執心
他力の信心=「専修正行になりきはまるかたの執心

ですから、

自力の心を捨てよ=「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」を捨てよ

で、「雑行」という間違った「」に拘る心を捨てなさい、となります。
もちろん

雑行」≠自力の心

で、

他力の信心を獲よ
=「専修正行になりきはまるかたの執心」を獲よ
=念仏一つに心を決定せよ

こんな明快な教えで、高校生でも理解できる古文でも、高森顕徹フィルターを通すと読めなくなってしまうのです。

なお、反論はいつでも受け付けますので、教学自慢の講師部員、幹部会員の英知を集めて、コメントをお待ちしています。ただし、高校生並みの国語力さえない方は、コメントをお控えください、会話が成立しませんので。

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コメント

親鸞会の講師も会員も聞く耳を持たず、まともな話し合いができないのが残念です。しばらく前までは、自分もそんな人間だったのかと思うと恥ずかしいです。

投稿: H.I | 2020年4月18日 (土) 10時54分

H.I様

思考を奪われてマインドコントロールされると、まともな会話さえ成立しなくなります。
可哀想ですが、少しずつでも目が醒める会員を増やしていくしかないです。

投稿: 飛雲 | 2020年4月18日 (土) 11時31分

H.I様
私も同じで、まるで自分の姿です。
最も開かれていると思っていましたが、最も閉じこもっていました。

投稿: 土見誠輝 | 2020年4月19日 (日) 14時05分

きちんと法論に臨んでほしいところです。

投稿: 土見誠輝 | 2020年4月19日 (日) 14時07分

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