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2020年4月19日 (日)

「雑行」の定義を知らずに大恥を晒した高森顕徹会長

雑行」とは、善導大師、法然上人のお言葉から、

正行を除く往生の行である諸善

ということが、高校生並みの国語力があれば判ると思います。
親鸞聖人は、これを更に詳しく説明されています。『教行信証』化土巻に

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

とあります。『愚禿鈔』にもほぼ同じ説明で

雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。

とあります。
雑行」とは、「もとより往生の因種にあらず」「もとよりこのかた浄土の業因にあらず」なのです。もともとは浄土往生の因となる行ではないのですが、「回心回向」すると「雑行」になるのです。
高森顕徹会長の話しか聞いたことがないと、全く理解できないと思いますが、簡単に言うと、もともと聖道門で教えられている「」は聖道門で教えられるさとりを得ようと思ってするのですが、それを「回心回向」したら、つまりさとりを得るためではなく浄土往生のためにしたならば、「雑行」になるということです。

言葉の関係は

雑行」=「浄土の雑行」=「回心回向の善」=「浄土の方便仮門」=「浄土の要門

です。

高森会長はこれを全く知りませんでした。その証拠が『浄土和讃』

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

の意味を完全に間違えて善の勧めだと吹聴してしまったことです。

現代語訳は

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。
けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、
浄土往生のための方便の
善とならないものはなかったのである。

です。「雑行」の意味を知っていたら、簡単にこの和讃の意味は判るのですが、これを善の勧めの文証とした前代未聞の高森会長の解釈により、高森会長と親鸞会は真宗界での笑いものになったのです。

察しの悪い会員のために

雑行」=「浄土の雑行」=「回心回向の善」=「浄土の方便仮門」=「浄土の要門」=「往生浄土の方便の善

こういうことです。

親鸞聖人が、この「雑行」の説明で何を仰りたかったかというと、「雑行」は聖道門と同じ「」での心を、さとりを得るためから浄土往生するためと切り替えるだけなので、聖道門の人を浄土門に導きやすい要の門(教え)だということです。完全にイコールではありませんがほとんど同じ意味なので「雑行」を19願と置き換えてみるともっとはっきりします。19願は、聖道門の人を、正確には聖道門を断念した人を浄土門に導き入れるための願だと親鸞聖人は仰っているのです。

それが丁度10年前に、mixiで高森会長と三願転入の法論をした時の最大の論点でした。

長くなるので、今回は詳しく述べませんが、その時に高森会長が絶句した親鸞聖人のお言葉が、化土巻の

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深心・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

でした。「欣慕浄土の善根」とは、浄土を願っていない人に浄土を願わせるための善根ということです。19願であり、定散二善であり、「雑行」です。

10年前の法論で高森会長の大惨敗を決定付けたのが「欣慕浄土の善根」でした。

そんなの嘘だ!高森先生が法論で負けるはずがない!

という元気な会員のコメントをお待ちしています。講師部員は師匠同様、逃げまくってコメントできないようなので。

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コメント

このブログを見ている親鸞会会員の皆さん、是非とも飛雲への反論を担当講師に依頼してみてください。
今まで信じてきた親鸞会の本当の姿が分かるはずです。

投稿: H.I | 2020年4月19日 (日) 19時05分

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