「一向」「一心」の意味を知らない高森顕徹会長と親鸞会会員
新型コロナで、欧米を中心に、パニック状態になっていますが、今のところ日本では欧米ほどのことにはなっていません。
人類の歴史は、疫病と共にありましたので、そういう意味では驚くべき事態ではないと言えます。
蓮如上人も『御文章』4帖9通で
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。
しかれども、今の時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきやうにみなひとおもへり。これまことに道理ぞかし。このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。
かくのごとくこころえのうへには、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すは、かやうにやすくたすけまします御ありがたさ御うれしさを申す御礼のこころなり。これをすなはち仏恩報謝の念仏とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。
と仰っています。極めて冷静に疫病を見ておられた上で、このような時は、「いよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。」と仰っています。
蓮如上人は「一向」「一心」という言葉をよく使われていますが、具体的にどのようなことなのか判りにくいところがあります。親鸞会では、諸善をしていても阿弥陀仏に向かっていれば、「一向」「一心」だと勘違いしています。常識的に考えれば、少なくとも雑行を捨てた状態でなければ「一向」「一心」とは言えないと判るのですが、国語の能力も教学も劣る高森顕徹会長にかかると、常識的な考え方など吹き飛んでしまうのでしょう。
『正信偈大意』には、「一向」「一心」の意味について判りやすい箇所がありますので紹介しておきます。
かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。
曇鸞大師が菩提流支三蔵から言われたことは、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」で、その通りに順われたことを「一向に浄土に帰したまひけり。」と蓮如上人は仰っています。つまり、念仏することを「一向」とされています。
もう一つ
一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜・悟・信の三忍を獲べきなり。
「一心」念仏になった行者に信心が定まるということです。この「一心」が自力か他力かという議論はあっても、共通するのは念仏です。
「一向」「一心」は、諸善を捨てて念仏1つになることですので、平時も非常時も高森会長の妄想に騙されることなく、念仏1つで「極楽に往生すべしとおもひとりて」ください。
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