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2020年4月24日 (金)

因果の道理を信じることが阿弥陀仏の本願を疑う心だと仰った親鸞聖人を全否定する親鸞会

親鸞聖人は因果の道理を重んじる聖道門に向けての反論として、因果の道理を信じることを自力と仰っています。『教行信証』化土巻に

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とあります。高森顕徹会長の説明では「自力」が曖昧ですが、親鸞聖人は「自力」が「罪福を信ずる心」だと仰っています。つまり、因果の道理を信じるように勧めることは「自力」を助長するだけです。救われないように話をしているのが、高森会長だということです。この根拠がこの後に引かれています。

またのたまはく、「この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず」と。

これは『大無量寿経』の化土往生についての一部分です。
前後を併せて紹介すると、

そのときに慈氏菩薩、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

(現代語訳)

そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。
「世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。」

化土往生について釈尊が弥勒菩薩の問いに答えられる形で説かれた内容です。
七高僧でここに着目されたのが源信僧都です。阿弥陀仏の18願を疑うことについて3つに分けて教えられています。『往生要集』に

問ふ。 不信のもの、なんの罪報をか得る。
答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。 もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。
答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。 『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。 このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。 {以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。 しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

問う。 信じない者は、 どのような罪の報を得るのであるか。
答える。 『称揚諸仏功徳経』の下巻に説かれている。
もし、 阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、 謗りこぼつ者があるならば、 五劫のあいだ地獄に堕ちて、 つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。 もし深心がなくて、 疑念を生ずる者は、 結局往生できないのであるか。
答える。 もし、 全く信ぜず、 往生の業を修めず、 浄土を願い求めない者は、 道理として往生するはずがない。 しかしながら、 もし仏智を疑うけれども、 それでもやはり、 かの浄土に生まれたいと願い、 往生の業を修める者は、 これもまた往生することができるのである。
『無量寿経』に説かれているとおりである。(以下省略)

とありますが、3つを簡単に説明すると

謗毀するもの」―地獄
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるもの」―六道
仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するもの」―化土往生

こういうことですから、報土往生も含めて現代語でまとめると

1.18願を謗るもの―地獄
2.18願を謗ってはいないが信じないもの―六道
3.18願を疑いながらも浄土往生を願って往生行を修するもの―化土往生
4.18願を深信するもの―報土往生

こういうことです。
大雑把に言うと、1は外道、2は無宗教もくしは聖道門、3は19願と20願の行者となります。
高森顕徹会長が昔よく言っていた、「一切衆生必堕無間」など妄想であることが明白が、疑情についても高森会長は知らないことが判ります。
疑情は19願と20願の人の心は18願よりも19・20願を優先させていることを指しています。それに加えて18願での救いを求めながら深信できていない信前の人の心についてもです。

この源信僧都の解釈を基にされて親鸞聖人は疑情の定義を更に明確にされます。
それが『三経往生文類』です。

願(第二十願)成就の文、『経』にのたまはく、「それ、胎生のものの処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにしてもろもろの快楽を受くること、?利天上のごとし。またみな自然なり。そのときに慈氏菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁にか、かの国の人民、胎生・化生なる〉と。仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉。

先の『大無量寿経』の御文を20願成就文、疑情を「諸智において疑惑して信ぜず」「罪福を信じて」とされました。
『正像末和讃』誡疑讃ではもっと明快に

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

仏智の不思議をうたがう」=「罪福信ずる
となされています。
したがいまして、
疑情」=「自力の心」=「仏智の不思議をうたがう」=「罪福信ずる
ということになります。

鈍い会員のためにもっとハッキリ書くと、

因果の道理を信じることが、阿弥陀仏の本願を疑う心

です。19願、20願の行者はまさに因果の道理を信じて善を行ずるか念仏を称えています。そして18願での救いを求めながら深信できていない信前の人も、その心は自分の称えた功徳で報土往生をという根底には因果の道理を信じる心がありますので、それが因も縁もすべて阿弥陀仏が用意されているから衆生が何もする必要がないという仏智不思議を疑う心になるのです。

したがいまして、因果の道理の話をし、因果の道理について聞くことは、どんな状況であれ、報土往生の妨げにしかなりません。

なお、親鸞会の会員は、「仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するもの」と言えるのかですが、浄土を願わず、絶対の幸福という創価学会の信心を願って、念仏を貶めているので、これではないと言えそうですから、化土往生も無理でしょう。
親鸞聖人のお言葉を示しても完全無視で高森理論を喚くだけの姿勢も目立ちますので、「謗毀するもの」かもしれません。

会員の後生が心配です。

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コメント

会員時代,一番多かった演題が「因果の道理」ではなかったでしょうか。遠方まで出かけ,丸一日かけてお決まりの話を聞いていて満足できたのも,これだけ時間とお金をかけて聞いているから救いに近付いているだろうというまさに因果の道理を信じていたからにほかなりません。このままでいいのかという疑問を感じなければ今でも続けていたかもしれません。抜け出せてよかったです。

投稿: 廣海 | 2020年4月24日 (金) 19時41分

オブラートで包むようにこの話をして、仏因仏果はせず、凡夫の因果の道理を通して廃悪修善をはなし、まさに聖道門の話を巧妙にされてました。これがまたうまい。会員は知識欲で、往生は諦め、格好の授業として(だから今でも教学が盛んです)、浄土真宗のなんたるかを忘れて、否無知をいいことに、一種の恐怖心を与えて集金・集客に酔わされた。
なぜ生きるの結論を、19願に置くなど、どうしても自立するしかなかった。

投稿: 愛読者 | 2020年4月25日 (土) 08時43分

因果の道理は、最も有効な詭弁として会員に信じ込ませやすい内容でしょう。
因果の道理と本願力回向との関係を喩えで誤魔化すところも効果抜群だと思います。
それが嘘だと暴かれる日が来るとは想像もしていなかったことでしょう。

投稿: 飛雲 | 2020年4月28日 (火) 06時08分

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