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2020年4月

2020年4月30日 (木)

念仏の信心を知らない異安心の高森顕徹会長と会員達

どうすれば助かるのか?

この問いに対して、善知識方は様々な表現で仰っています。例の某館長に示した根拠の1つが『勅修御伝』の

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすすめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

でした。
現代語訳は要らないほど、易しい文章だと思いますが、一応解説しておきます。

師から教えてもらうことなく、自己流で浄土の教えを解釈するのは、往生の道を誤ることになる。理由は、浄土往生を上は天親菩薩・龍樹菩薩に勧められ、下は末世の凡夫、十悪五逆の悪人にも勧められている。ところが、我らは最下の凡夫であるのに、善人に勧められた御文を見ると、自分とはレベルが違うという心をおこして、往生は無理だと思って往生することができなくなる。そうであるから、善人に勧められた御文は善人のためのところと見、悪人に勧められた御文を自分のためと見て自分のこととしなさい。このように見定めていったならば、往生の信心が定まって、本願に乗じて往生を遂げることができる。

こういうことです。
善人をすすめ給へる所」とは定散二善、「悪人を勧め給へる所」とは念仏です。我らのような最下の凡夫は、善人に勧められた定散二善は関係なく、悪人に勧められた念仏で往生できると見定めたならば、信心決定できるということです。

どうすれば信心を獲ることができるのか、という問いに対しては、
念仏一つで往生できると心を定めよ、ということになります。

なお会員が、念仏はお礼に決まっている、と信じて疑わない理由の1つが、蓮如上人の『御文章』に多くある信後の報謝の念仏でしょうが、蓮如上人も、法然上人、親鸞聖人と同様に、念仏の信心について教えられています。当たり前ですが。

判りやすいのが『正信偈大意』ですが、例えば

「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」といふは、一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜・悟・信の三忍を獲べきなり。

と仰っています。『正信偈』には、「一心念仏の行者」に相当するお言葉はありませんが、蓮如上人は敢えて「一心念仏の行者」と仰っています。信心が定まる人とは、「一心念仏の行者」です。信後に報謝の「一心念仏の行者」になるのではありません。「一心念仏の行者」に「一念慶喜の信心さだま」るのです。

もっと明快なのが、先日も紹介した

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。

です。他力の信心とは「専修正行になりきはまるかたの執心」ということで、念仏だけを専ら修することになり極まった信心です。

『御文章』では信後の念仏について仰ってはいますが、同時に「雑行を捨てよ」とも仰っています。「雑行を捨てよ」ということは「一心念仏の行者」になれ、ということなのですが、それをどう勘違いしたのか、捨てよと教えられた「雑行」を勧めながら、捨てよとはどこにも仰っていない念仏は信前には不要だという、支離滅裂な理屈を高森顕徹会長は会員に押し付けて、やらせた「雑行」の金集め人集めに会員は利用され続けているのです。

再度言うと、

雑行を捨てよ」=「一心念仏

です。
ただし、「一心念仏」にも自力と他力とがあるから、蓮如上人は5帖11通のように

なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。

と、自力では駄目だぞ、と釘を刺しておられるのです。

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2020年4月27日 (月)

「聖教はそのまま素直に読んではいけない!」というマイコン会員に対する親鸞聖人のお言葉

昔は、法話中に高森顕徹会長が出す根拠を会員が『真宗聖典』で確認するのが常でしたが、現在は『真宗聖典』を見る以前に、聖教は一般の人では読むことができないと高森会長から吹き込まれています。
そのために、退会者が根拠を出しても、

聖教をそのまま読んではだめだ!
聖教を正しく読めるとでも思っているのか!
文字は不完全なものだから正確には顕わせないのも知らんのか!

という具合に、議論を放棄して、妄想をひたすら言い続けるのが親鸞会です。

例の館長も同じでした。
そこで私が示した聖教の根拠は、『唯信鈔文意』と『一念多念証文』の最後に書かれてある

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

(現代語訳)

都から遠く離れたところに住む人々は、 仏教の言葉の意味もわからず、 教えについてもまったく無知なのである。 だから、 そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、 同じことを繰り返し繰り返し書きつけたのである。 ものの道理をわきまえている人は、 おかしく思うだろうし、 あざけり笑うこともあるだろう。 しかし、 そのように人からそしられることも気にかけず、 ただひたすら教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、 書き記したのである。

でした。
親鸞聖人は、難しいことの判らない田舎の人にも判るようにと思われて書かれた、と仰っているのに、当時の田舎の人よりも教養も学力もある会員が、理解できないとはおかしいでしょう。

こういうと、彼は言い返せませんでした。当たり前です。
彼だけでなく、他の会員も同じことを言ってきて、このことを教えると絶句します。

高森会長が考える程度の詭弁が通用するのは、思考停止の会員だけです。

更には、親鸞聖人は同行にお手紙を書かれていますが、当然、判ってもらいたいと思われて文章を書かれているのです。手紙にまで暗号文を書いて何の意味があるのか、少し考えれば判ることがマインドコントロール下にあると判らないのです。

ちなみに、親鸞聖人は「ゐなかのひとびと」のために、読むことを推奨された書がいくつかあります。たとえば、善鸞疑絶を知らせるお手紙には

おほかたは、『唯信抄』・『自力他力の文』・『後世物語の聞書』・『一念多念の証文』・『唯信鈔の文意』・『一念多念の文意』、これらを御覧じながら、慈信が法文によりて、おほくの念仏者達の、弥陀の本願をすてまゐらせあうて候ふらんこと、申すばかりなく候へば、かやうの御文ども、これよりのちには仰せらるべからず候ふ。

といくつかの書を出されています。聖覚法印の『唯信鈔』、隆寛律師の『自力他力事』、隆寛律師著と伝えられる『後世物語聞書』、隆寛律師の『一念多念分別事』、親鸞聖人の『唯信鈔文意』と『一念多念証文』を、関東の同行に送られて、読むように勧められていたことが判ります。

もちろん、読んで理解してくれることを期待してです。
聖覚法印と隆寛律師のお二人を、親鸞聖人は「よきひとびと」と仰って、大変尊敬されていましたし、法然上人も大変信頼されていました。
このお二人の著わされた内容は、法然上人の教え、そのものです。
法然上人の念仏一行の教えを忠実に継承されて、それを書とされて、親鸞聖人が同行に読むように勧められたのですから、同行は「善は不要、念仏一行で救われるのが、阿弥陀仏の18願」としか理解できなかったでしょう。
親鸞聖人が信心を強調されたといっても、それは念仏の信心ですから、親鸞聖人が同行に教えられたことは、法然上人、聖覚法印、隆寛律師と同じ念仏一行なのです。

『御消息』には、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

とある通りです。念仏を称えて往生できると深く信じたことが信心なのです。

ここに暗号も難しい言い回しも、特別な解釈もありません。会員に必要なのは、高校生並みの思考力と自己の間違いを認める勇気です。

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2020年4月26日 (日)

阿弥陀仏、釈尊、諸仏のご苦労を無駄にするのが親鸞会

因果の道理についての親鸞聖人の見解を述べてきましたので、他の根拠も挙げておきます。

蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまで絶賛された『安心決定鈔』にはこうあります。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもおよばざるところあらば、大悲の願満足すべからず。面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。

18願によって報土に往生するということは、「世間・出世の因果のことわりに超異せり」ですので、因果の道理といっても3種類あることになります。

1.世間の因果
2.出世の因果
3.報土の因果

1の世間の因果とは、世間的な倫理道徳の因果です。親鸞会的にいうなら、どう生きるかについての因果になります。善い事をすれば善い結果が来ますよ、悪い事をすれば悪い結果が来ますよ、自分のやったことは自分に返ってきますよ、という親鸞会で教えていることとほとんど同じことです。

2の出世の因果は、迷いの世界を出る因果ということで、聖道門で教えられている因果の道理です。1との違いは、目的の違いだけではありません。難しい話を抜きに突き詰めると煩悩によって苦しみがやってきますので、煩悩を滅するというのが最終的な結論になります。これが通仏教でのいわゆる因果の道理になるのですが、親鸞会の因果の道理は、往生成仏という言葉だけをみると2らしきことも混ぜているので、一見、出世の因果のように思わせるのですが、内容は単なる世間の因果です。

しかし、親鸞聖人が教えられたのは3の報土の因果で、これは1でも2でもない全く違う道理になるのです。これまで述べてきたように、報土往生の因も縁も阿弥陀仏の業です。それを『安心決定鈔』では、「まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。」とありますが、本来、往生という果を受けるには「衆生こそ願をもおこし行をもはげむべき」でありますが、衆生はそのような願も行もない状態で、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず」なのです。

したがいまして『安心決定鈔』では3の報土の因果を、「世間・出世の因果のことわりに超異せり」と表現なされているのです。

また覚如上人は『改邪鈔』で

しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

しかしそうではあっても、いつの世の仏にも見ることができない阿弥陀仏の大願は、十悪・五逆・四重・謗法などの罪を犯すひとのためであるから、阿弥陀仏の願の絶大なはたらきをもって一切の因果を断ち切られ、三つの悪道に堕ちて受ける苦の原因を永遠に断たれて、もえさかる猛火ののようにはげしい悪業の果報を受けないですむならば、それははなはだしく因果の道理に背くわけである。もし「深く因果を信ずる」ものであるためには、前世に植えた悪因が引くものは、悪果でなければならないから、たとい阿弥陀仏の本願を信ずるとしても、そのときは阿弥陀仏の誓いのはたらきも役に立たないし、念仏のひとも三つの悪道に堕ちなければならないのではないか。もしそうだとすれば、阿弥陀仏が五劫という長いあいだ熟思を重ねた末に立てられた本願も、釈尊が真実を示された金言も、所仏が誠をつくして示された証明も、無意味とならなければならないのだろうか。おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。

と仰っています。

世間の因果の道理と聖道門で教える出世の因果の道理に超越し異なった因果の道理だということです。三悪道にいく衆生が、その因果を断ち切られて報土に往生するというのは、「おほきに因果の道理にそむけり」なのです。また「釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」と、出世の因果からは「言語道断」とまで言わざるを得ない程の「不思議」なのです。
更には、「もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし」と仰っているように、親鸞会のようなことを言ってると、釈尊、阿弥陀仏、諸仏方が御苦労為されて報土の因果の教えを無駄にしてしまうとまで仰っています。結論としては、「因果相順の理」とは全く次元の違うのが報土の因果ということになります。

善知識方が、ここまで明確に仰って下さっているのに、どう間違ったら、

三世十方を貫く因果の道理から外れたら仏教にならない!!!

という主張になるのかです。一応言っておきますが、

報土の因果も、三世十方を貫く道理

どう間違うも何も、思考能力を高森顕徹会長に奪われてしまっているので、高森会長がそう言っているから正しい、というだけのことです。

哀れ憐れ。

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2020年4月25日 (土)

「深信因果」は散善であり「雑行」の1つだということすら知らない無知な高森顕徹会長と会員達

某会館館長とのやり取りを知りたいという方がありますので、少しだけ紹介します。

当ブログで徹底的に言い返せない内容で書いてきましたので、彼は質問責めに転じてきます。どうすれば救われるのかということについてですが、様々な角度から説明しても納得する様子もなく、質問責めをやめませんので、毎度毎度の揚げ足取りだと判断し、

どうすれば自力の心を捨てられるのか?
その問いを捨てればよい
どうすれば自力の心を捨てられるのかという心を捨てられるのか?
その問いを捨てればよい
こんな感じで返したところ、本性を表わして
それしか言えないことがわかった
ときました。
揚げ足取りに必死で気が付いていないのでしょうが、これは親鸞会で作ったアニメのセリフです。最近突如削除された親鸞聖人の獲信の場面で法然上人が最後に仰ったことは、
一切の自力を捨てよ。全てのはからいを捨てよ。 捨てようとする心も捨てよ。
です。
彼の言葉を使うなら、
法然上人はそれしか言えないことがわかった
もっと言えば、
高森先生はそれしか言えないことがわかった
です。
思考力がなくても、これは理解できたようで、話を逸らしてきました。

親鸞会の会員とのやり取りには、教義に詳しいだけではだめで、討論のテクニックが必要です。

さて、因果の道理を信じるように勧めるのが親鸞会ですが、「因果の道理を深信する」は、散善の行福に当たります。
『観無量寿経』には、散善の行福について

三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。

とあります。
また上品中生においては

深く因果を信じて大乗を謗らず。

とあり、上品下生では

また因果を信じ大乗を謗らず。

と説かれています。
これを善導大師は『散善義』でそれぞれ解説なされています。
まず

三福ともに行ぜざるものをすなはち十悪・邪見・闡提の人と名づく。

とある通り、因果を深信していれば、「十悪・邪見・闡提の人」ではありません。
上品中生については

深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。

とあります。因果の道理を深信しているなら、上品中生の1つの条件を満たしています。
次に上品下生については、『観無量寿経』の「また因果を信じ」について

所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の〔上品中生の〕深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。

とあります。簡単に言えば、因果の道理を信じる時もあれば信じない時もある、深信ではないが浅くでも信じていることをいいます。

ということは因果の道理を信じている会員は、少なくとも悪人ではないし、上品下生の善人だと言えます。

ここで質問です。
親鸞会の会員は、
1.極重の悪人
2.上品下生以上の善人
どちらですか?

答えに窮するでしょう。
矛盾と気が付いていないのでしょうが、完全な矛盾です。軽々しく、因果の道理を信じるとか言わないことです。

もちろん、「深信因果」は散善ですから「雑行」です。
雑行」の行を捨てるということは、「深信因果」の行も捨てることですから、因果の道理を話をしている時点で、真宗とは無関係なのです。

一応言っておきますが、世俗的な因果を18願の救いと無関係と思って信じていれば雑行ではありません。一生懸命勉強をしたら成績が上がる、遊んでばかりいたら成績が下がる、これをどれだけ信じようが「雑行」にはなりません。

しかし高森顕徹会長のように、因果の道理を深信して、三願転入の道を進むだの宿善を厚くするだの信仰云々と言っている時点で「雑行」です。「仏智不思議を疑う心」であり「疑情」と親鸞聖人は仰って厳しく誡められました。その「一切の自力を捨てよ。全てのはからいを捨てよ。

まともな知能があれば理解できる内容ですが、マインドコントロールの会員には思考力がないので、負け犬の遠吠えをするしか能がないのです。

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2020年4月24日 (金)

因果の道理を信じることが阿弥陀仏の本願を疑う心だと仰った親鸞聖人を全否定する親鸞会

親鸞聖人は因果の道理を重んじる聖道門に向けての反論として、因果の道理を信じることを自力と仰っています。『教行信証』化土巻に

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とあります。高森顕徹会長の説明では「自力」が曖昧ですが、親鸞聖人は「自力」が「罪福を信ずる心」だと仰っています。つまり、因果の道理を信じるように勧めることは「自力」を助長するだけです。救われないように話をしているのが、高森会長だということです。この根拠がこの後に引かれています。

またのたまはく、「この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず」と。

これは『大無量寿経』の化土往生についての一部分です。
前後を併せて紹介すると、

そのときに慈氏菩薩、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

(現代語訳)

そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。
「世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。」

化土往生について釈尊が弥勒菩薩の問いに答えられる形で説かれた内容です。
七高僧でここに着目されたのが源信僧都です。阿弥陀仏の18願を疑うことについて3つに分けて教えられています。『往生要集』に

問ふ。 不信のもの、なんの罪報をか得る。
答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。 もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。
答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。 『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。 このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。 {以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。 しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

問う。 信じない者は、 どのような罪の報を得るのであるか。
答える。 『称揚諸仏功徳経』の下巻に説かれている。
もし、 阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、 謗りこぼつ者があるならば、 五劫のあいだ地獄に堕ちて、 つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。 もし深心がなくて、 疑念を生ずる者は、 結局往生できないのであるか。
答える。 もし、 全く信ぜず、 往生の業を修めず、 浄土を願い求めない者は、 道理として往生するはずがない。 しかしながら、 もし仏智を疑うけれども、 それでもやはり、 かの浄土に生まれたいと願い、 往生の業を修める者は、 これもまた往生することができるのである。
『無量寿経』に説かれているとおりである。(以下省略)

とありますが、3つを簡単に説明すると

謗毀するもの」―地獄
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるもの」―六道
仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するもの」―化土往生

こういうことですから、報土往生も含めて現代語でまとめると

1.18願を謗るもの―地獄
2.18願を謗ってはいないが信じないもの―六道
3.18願を疑いながらも浄土往生を願って往生行を修するもの―化土往生
4.18願を深信するもの―報土往生

こういうことです。
大雑把に言うと、1は外道、2は無宗教もくしは聖道門、3は19願と20願の行者となります。
高森顕徹会長が昔よく言っていた、「一切衆生必堕無間」など妄想であることが明白が、疑情についても高森会長は知らないことが判ります。
疑情は19願と20願の人の心は18願よりも19・20願を優先させていることを指しています。それに加えて18願での救いを求めながら深信できていない信前の人の心についてもです。

この源信僧都の解釈を基にされて親鸞聖人は疑情の定義を更に明確にされます。
それが『三経往生文類』です。

願(第二十願)成就の文、『経』にのたまはく、「それ、胎生のものの処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにしてもろもろの快楽を受くること、?利天上のごとし。またみな自然なり。そのときに慈氏菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁にか、かの国の人民、胎生・化生なる〉と。仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉。

先の『大無量寿経』の御文を20願成就文、疑情を「諸智において疑惑して信ぜず」「罪福を信じて」とされました。
『正像末和讃』誡疑讃ではもっと明快に

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

仏智の不思議をうたがう」=「罪福信ずる
となされています。
したがいまして、
疑情」=「自力の心」=「仏智の不思議をうたがう」=「罪福信ずる
ということになります。

鈍い会員のためにもっとハッキリ書くと、

因果の道理を信じることが、阿弥陀仏の本願を疑う心

です。19願、20願の行者はまさに因果の道理を信じて善を行ずるか念仏を称えています。そして18願での救いを求めながら深信できていない信前の人も、その心は自分の称えた功徳で報土往生をという根底には因果の道理を信じる心がありますので、それが因も縁もすべて阿弥陀仏が用意されているから衆生が何もする必要がないという仏智不思議を疑う心になるのです。

したがいまして、因果の道理の話をし、因果の道理について聞くことは、どんな状況であれ、報土往生の妨げにしかなりません。

なお、親鸞会の会員は、「仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するもの」と言えるのかですが、浄土を願わず、絶対の幸福という創価学会の信心を願って、念仏を貶めているので、これではないと言えそうですから、化土往生も無理でしょう。
親鸞聖人のお言葉を示しても完全無視で高森理論を喚くだけの姿勢も目立ちますので、「謗毀するもの」かもしれません。

会員の後生が心配です。

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2020年4月23日 (木)

報土往生の因縁果を全く知らない憐れな親鸞会会員

最近のエントリーは、親鸞会の某会館の館長へのメッセージとして書き始めたものです。本日もやり取りしていましたが、聖教をそのまま読むのは間違いだという言い訳ばかりで、暗号解読できる高森顕徹会長と会員だけが聖教の意味がわかっているというようなカルトを通り越して、オカルトになってきています。

ではその聖教のお言葉を説明して、といっても絶対に説明はしません。「今までのやり取りを読めば判る」の一点張り。説明などできるわけがないのです。mixiでの法論の時もそうでした。

本当に幼稚園児の喧嘩です。レベルが低すぎて話になりません。

前回注意書きした通り、高校生並みの知能をもった会員向けにエントリーを書きますので、幼稚園児並みの人は、「読めば判る」とだけ叫んでいてください。

往生成仏の因を、すべて阿弥陀仏が用意なされ、往生成仏の果を我ら衆生が受け取る、これが本願力回向という親鸞聖人の教えの根幹です。

聖教を読まない親鸞会でも一部は聞いたことがあるであろう『教行信証』信巻の信楽釈

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。

(現代語訳)

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。
なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。
如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。

ここにも、聖道門の因果の道理に反するという非難への反論を仰っています。
凡夫が「急作急修して頭燃を灸ふがごとく」善を修しても、その程度の善ではとてもではないが報土往生はできない。なぜなら、阿弥陀仏の報土に往くには、法蔵菩薩と同じ清らかな心にならなければならないからである。だから、阿弥陀仏は報土往生の因である清らかな信心を衆生に与えてくださるのだ。

往生の因は、衆生の行に関係しているとするのが因果の道理であり、聖道門の考え方です。それとは全く違うのが阿弥陀仏の18願の救いだと親鸞聖人は教えられているのです。聖道門の行者が命がけで定散二善に励んでも、報土往生を遂げることは不可能なので、不可能を可能にするには、阿弥陀仏から因を頂く以外にはない、というのが親鸞聖人の結論です。

これを具体的に教えられたのが、親鸞会でも言葉だけは聞いたことがあるであろう、両重因縁です。
『教行信証』行巻に

まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」とのたまへり。
また「念仏成仏これ真宗」といへり。また「真宗遇ひがたし」といへるをや、知るべしと。

(現代語訳)

(阿弥陀仏という名は、念仏の衆生を摂取して捨てないといういわれを顕しているということによって)次のような事柄を知ることができました。阿弥陀仏の徳のすべてがこもっている慈父に譬えられるような名号がましまさなかったならば、往生を可能にする因が欠けるでしょう。また念仏の衆生を摂取して護りたまう悲母に譬えられるような光明がましまさなかったならば、往生を可能にする縁がないことになりましょう。
 しかしこれらの因と緑とが揃っていたとしても、もし念仏の衆生を摂取して捨てないという光明・名号のいわれを疑いなく信受するという信心がなければ、さとりの境界である光明無量の浄土に到ることはできません。信心は個体発生の根元である業識に譬えられるようなものです。それゆえ、往生の真因を機のうえで的示するならば、真実の信心を業識のように内に開ける因とし、母なる光明と父なる名号とは、外から加わる法縁とみなすべきです。これら内外の因縁がそろって、真実の報土に往生し、仏と同体のさとりを得るのです。
 それゆえ善導大師は『往生礼讃』の前序に、「阿弥陀仏は、光明と名号をもって十方の世界のあらゆる衆生を育て導いてくださいます。そのお陰で私たちは、その救いのまことであることを疑いなく信受して往生一定と浄土を期するばかりです」といわれ、また『五会法事讃』には、「念仏して成仏することこそ真実の仏法である」といわれ、また『観経疏』には、「真実のみ教えには、私のはからいで遇うことは決してできない」といわれています。よく知るべきです。

現代語訳を読んでも難しいと思いますが、簡単に説明すると、

因―名号
縁―光明
果―往生

という因縁果の関係と、もう一つ

因―信心
縁―名号・光明
果―往生

という因縁果があり、二重の因縁果であるので、両重因縁と呼ばれています。

いずれの場合においても、我ら衆生が往生する果の因も縁も阿弥陀仏から頂くものです。炭素とダイヤモンドの関係が間違いであることは、高校生並みの知能があれば理解できると思います。
18願の救いとは、ダイヤモンドの元となる炭素元素があるのではありません。全く違う元素、たとえば鉄がダイヤモンドになるようなものです。化学では絶対にあり得ない話です。

これに近い表現が行巻に引かれている『五会法事讃』にあります。

ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。

(現代語訳)

ただ信を得て念仏すれば、瓦や小石を黄金に変えるようにしてお救いくださるのである。

この親鸞聖人の解釈は『唯信鈔文意』にありますので、興味がある方はそちらを読んでください。

善をしないで念仏だけで往生成仏する、聖道門、因果の道理ではは絶対にあり得ない教えですから、聖道門が法然上人を激しく攻撃した気持ちは判ります。しかし、その絶対にあり得ない救いが阿弥陀仏の18願なのだ、と親鸞聖人は説明されているのです。

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2020年4月22日 (水)

「因果の道理を知らんのか!」と法然上人・親鸞聖人を攻撃した聖道門、「因果の道理を知らんのか!」と退会者を攻撃する親鸞会、聖道門と同じ土俵で勘違いの親鸞会

釈尊が諸善を説かれたのは、諸善と比較することで念仏が諸善に飛びぬけて優れた行であることを示されるためであったから、諸善は修するためではなく捨てるためもので、念仏だけを修するように釈尊は説かれたのです

このように退会者が言ったら親鸞会会員は、

仏教の土俵にも上がっていない、話にならない仏教を破壊する邪な教え!

と激高するでしょうが、これを仰ったのは法然上人です。『選択本願念仏集』の中で、

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

ということを繰り返し仰っています。
そして有名な三選の文で

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

と、聖道門を捨て、雑行を捨て、助業を傍らにして、専ら念仏を修しなさい、念仏を称えれば必ず往生できる、それは阿弥陀仏の18願力によるのだ、と念仏だけで往生できることを断言されたのです。

この法然上人のお言葉に激高するのは、親鸞会会員だけではありません、聖道門も同じことを言って法然上人を攻撃しました。

法然上人と親鸞聖人が流刑に遇われるきっかけとなった『興福寺奏状』の「第六に浄土に暗き失」には、

大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。

とあり、『観無量寿経』で上品上生から下品下生までの九品の階級を授けられているが、それは生前になした徳のある善行に応じているのであり、自業自得の因果の道理に叶った仏教の根幹で必然の道理である。しかし、法然上人は往生には念仏を称えるだけと偏に仏力を憑んで、善は無関係と言っているが、それは因果の道理も知らない愚か者の邪な考えだ、と非難しているのです。

このような因果の道理に反しているとの非難に対して、法然上人は「それは誤解だ、因果の道理に則して教えている」と弁解されませんでした。それで法然上人がお亡くなられた後に出した『延暦寺奏状』でも

彼の党類の造悪は、改悔の心なく戒を破し、経に背き師に違すことを望み、依憑在るは誰ぞ、およそ、彼の宗に入る人は、まず万善を棄て、その宗に交る類は即ち大罪を置きて怖れず、仏像経巻に対して敬重の思いを生ぜず、寺塔僧坊に入りて汚穢の行も憚り無し。いかでか懈怠放逸の行を立て、清浄善根の界に生を得べし。
(中略)
しかれば悪を造れば必ず獄に堕し、善を修せば定んで天に生ず、自業自得の報いなり。不亡不失の理なり。
ここをもって、諸悪莫作 諸善奉行、寧ぞ七仏通戒の誠に非ずや。

とあり、法然上人の開かれた浄土宗の人は、悪を造り、懺悔なく、戒を破り、経典にも背いて、すべての善を捨てるなど、仏教の善を否定している。それでどうして懈怠放逸の行である念仏を称えることによって、浄土に生れることができようか。
悪を造れば必ず地獄に堕ち、善を修すれば必ず天に生まれることができる、これが自業自得という仏教の根幹因果の道理である。
だから、諸悪莫作 諸善奉行の七仏通戒が真実ではないか。

と自業自得の因果の道理を通して、法然上人門下を激しく糾弾したのです。

聖道門の言っていることを簡単に言うと、

念仏称えただけで往生できるなんて、法然上人は仏教の土俵である因果の道理を知らんのか!

法然上人の教えられたことは因果の道理に反していると、法然上人の生前からお亡くなりになられた後まで一貫して聖道門からは攻撃材料としたのですから、法然上人は因果の道理に反しているとの非難をその通りだと受け止められたということが判ります。

したがって、親鸞会が退会者を非難するときに使う常套文句の

仏教の土俵である因果の道理を知らんのか!

は聖道門と全く同じ論理であり、法然上人の教えとは根本的に異なっているのです。

では親鸞聖人は、法然上人に背いて、教えを修正して因果の道理に順った教義を展開されたのかと言えば、そんなことは絶対にありえないでしょう、高校生並みの知能があれば判る話です。なぜなら、念仏称えて往生できるという法然上人の教えを聞いて、親鸞聖人は往生が定まったのですから。

親鸞聖人は聖道門への反論として『教行信証』信巻に

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

と仰り、『浄土文類聚鈔』でも全く同じことを仰っています。
往生成仏の因は、すべて阿弥陀仏より与えられたものであり、それ以外の因はない、ということです。往生成仏の因は100%阿弥陀仏で、衆生側に因は、0.00001%もありません。聖道門の言う自業自得に対して、阿弥陀仏の業により我ら衆生が往生の果を得る、ということです。念のため言っておきますが、ここは縁ではなく、因です。もちろんこれは高森顕徹会長の創作炭素とダイヤモンドの譬えとは何の関係もありません。
その証拠が、『教行信証』証巻に

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。

(現代語訳)

さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因が清らかであるから、果もまた清らかである。よく知るがよい。

と仰り、『浄土文類聚鈔』でも同じ文を載せておられます。

因、浄なるがゆゑに果また浄なり」ですから、衆生が往生成仏する因が「」です。「」なる因は、衆生には微塵もありません。因も縁も阿弥陀仏で、果を衆生が受け取るのです。
つまり、往生成仏の因果を、我ら衆生の側から親鸞会的な言い方で言えば、

他因自果

であり、阿弥陀仏の側から言えば、

自因他果

になります。しかも、無善で往生成仏するのですから善因善果、悪因悪果、自因自果とは完全に反しているのが阿弥陀仏の救いである、と聖道門に真っ向から反論されたのが、親鸞聖人です。当然、雑行をするという発想は親鸞聖人には微塵もありませんし、根拠もありません。

そんなことも知らないで、法然上人、親鸞聖人を流刑に遇わせた論理で退会者を攻撃してお山の大将を気取っているのが、親鸞会だということです。親鸞会は、聖道門の土俵にいます。聖道門の土俵で、真宗を語っているつもりになっているだけなので、高森顕徹会長の教えは真宗とは無関係です。なお、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が親鸞会で言うような因果の道理について教えられた文証は全くありません。退会者には根拠を出せと偉そうに言いますが、自分たちには根拠なしの妄想だけで正しいのだと言い続けているのです。

今回は真宗において因果の道理がどういう位置にあるのかについて時代的背景を述べました。次回以降、親鸞聖人が仰る具体的な因と縁について、根拠を挙げて説明していきますので、会員の皆さんは最低でも高校生並みの知能と国語力を持って、読んでください。

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2020年4月21日 (火)

真宗の教えの真髄も根基も知らない高森顕徹会長から逃れられない憐れな会員達

mixiでの法論で、「雑行」の勘違いについて高森顕徹会長でも理解できたのでしょう、ここで苦し紛れに伝家の宝刀を抜きました。

未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

困ったときの方便です。これには答えられないだろうと思っていたのでしょうが、こちらも満を持して根拠を出しました。
『教行信証』行巻に『往生要集』を引かれて

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

とあります。これが『正信偈』では、

極重悪人唯称仏

であり、『高僧和讃』には

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人が繰り返し教えられています。
極重の悪人」とは、下品下生の機のことですが、下品下生の機には「他の方便なし」、つまり19願力は不要と教えられています。そして18願力の「ただ弥陀を称して」で「極楽に生ずることを得」ることができると親鸞聖人は明言されています。

なお、蓮如上人も『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と教えられています。19願の方便も「雑行」の方便も不要、18願だけで往生できるというのが、真宗の基本中の基本、真宗の真髄、親鸞聖人の教えの根基です。

高森会長は、この一言でまた絶句しました。そしてこれで法論は完全終結となりました。いうまでもなく高森会長の大惨敗で逃走の末、この法論の場の管理者が会員であったため、法論の記録を抹殺させました。もちろん、こちらは控えを取っていますので、当時のやり取りは再現できます。

マインドコントロールされた会員は、高森会長が聖教をすべて読んでいると思っているでしょうが、実際は全く読んでいません。この「他の方便なし」という基本中の基本さえ知らずに、

そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

と寝とぼけたことを平気で言えるのですから。高森会長がこんなのですから会員も同じで、自分で根拠は出せないが、相手には根拠を出せと言ってくるのです。尤もこちらはいくらでも根拠が出せますから、根拠を出されてから、親鸞会は絶句するか小学生のような妄想解釈を喚き散らすかのどちらかしかできません。

なお、10年前の法論の際には出しませんでしたが、往生するのに19願や「雑行」は不要という決定的な根拠はいくつもあります。

判りやすいのが行巻にあります、浄飯王に対する釈尊の御説法の内容です。念仏を勧められた釈尊に対して、善ができると自惚れていた浄飯王が「なぜ善を勧めないのですか」と言ったことに対する釈尊のお答えは、「父王には善ができないから念仏を勧めているのです」でした。善ができないのに善ができると自惚れているから善をさせてみてできないことを知らせて、などという回りくどい教えは真宗にはありません。

また信巻の大半を占める阿闍世の物語では、釈尊は阿闍世に善を全く勧められることなく阿闍世は獲信しています。阿闍世の信心を「無根の信」と書かれていますが、根拠のない信心、つまり清らかな善をしていないので清らかな信心が獲られる道理がないのに清らかな信心が獲られた、という意味です。この阿闍世の物語は『教行信証』全体の約1割も占めているほど、親鸞聖人が最も仰りたかったことです。

mixiでの法論の中で、こちらの質問に高森会長が一度だけ答えたことがありました。

質問は、

親鸞聖人が19願を勧められた根拠は?

で、高森会長の答えが

『教行信証』全体

これで判りましたね、高森会長は『教行信証』を全く読んでいないことが。阿闍世の物語のことを、高森会長は知らないのです。学生時代に講義で聞いたことはあったでしょうが、それが『教行信証』の中心である信巻で、その大半が阿闍世の「無根の信」についての内容であることを覚えていないのです。

18願の救いについての重要なキーワードである、「他の方便なし」「無根の信」さえも知らない高森会長のことを無二の善知識と崇めさせられ、金と時間を毟り取られ続ける会員が本当に憐れです。

ふざけるな!ここまで高森先生を侮辱されて黙っておれるか!

という会員はいないのでしょうか?

きっと会員は、ブラック企業と知りながらブラック企業を辞めることができない状態なのでしょう。やっぱり憐れです。

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2020年4月20日 (月)

「雑行」に関するお粗末な詭弁

10年前のmixiでの法論で高森顕徹会長に「欣慕浄土の善根」を教えたら絶句したのですが、この「欣慕」は善導大師の『散善義』にある第三深信

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

のことを指しています。
『観無量寿経』の定散二善および19願は浄土を「欣慕」、つまり願い慕わせ、聖道門から浄土門へ導くという方便の役割を説明されています。念のために説明しておきますと、浄土を願わせるのですから、浄土を願っていない人、つまりは聖道門の人のため、正確には聖道門を断念した人のために、『観無量寿経』の定散二善および19願という方便があるのだ、ということです。

高森会長にとって、これは衝撃だったのでしょう。法論で負けた悔しさから書いた『なぜ生きる2』では17章に、突如七深信を載せていますが、この第三深信について説明できなかったことからもそれが判ります。

mixiでの法論ではこの後、独り言をつぶやき始めます。

「雑行を捨てよ」とは、善をするなということではなく、悪い心がけを捨てよということである

前回までの説明を理解できたなら、このつぶやきが如何に頓珍漢なことかお判りかと思います。

「雑行」=聖道門の「行」+浄土往生のためという「心がけ」

ここから悪い「心がけ」を捨てたらどうなるか?

「雑行」-「悪い心がけ」=聖道門の「行」

答えは、単なる聖道門の「」になるだけです。つまり、「雑行」は「」が間違っているから「」を捨てよという意味でしか、親鸞聖人も蓮如上人も仰っていません。

高森会長の言っていることは詭弁なので、聖教を読んだなら簡単に詭弁を見破ることができますが、会員は聖教を読んでいないので、詭弁に騙され続けているだけなのです。

雑行」に関するもう一つの詭弁は、こんなものです。

私がW講師に法論を申し込んで突き付けた高森会長の間違いの1つに

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 定散二善をせよ

がありますが、これを親鸞会は私には直接反論せずに『顕真』平成24年11月号に「ひと口問答」として内輪向けに反論したというパフォーマンスを示したのが、

問い

親鸞聖人は定散二善を捨てよと仰っているのに、定散二善を勧めるのは間違い、という人がありますが、如何でしょうか。

答え

 煙草をのまない人に煙草を捨てよと言う人はありません。素っ裸の人に何かを捨てよと言う人もありません。結婚もしていない者に離婚ということがないのと同じです。
 親鸞聖人が定散二善を捨てよと仰っているのは、定散二善を行っている人に仰っているのです。
(後略)

でした。

捨てるためには持っていないと捨てることができないから、まずは持つことを勧めるのは当然だ!

という詭弁です。
これは聖教を読まなくても簡単に論破できます。私はこの”反論”を入手後、即座に再反論しました。

問い

煙草をのまない人に煙草を捨てよと言う人はありません。素っ裸の人に何かを捨てよと言う人もありません。結婚もしていない者に離婚ということがないのと同じです。
親鸞聖人が定散二善を捨てよと仰っているのは、定散二善を行っている人に仰っているのです。

答え

中学高校の頃、先生からよく言われませんでしたか、「煙草をのむな」と。大半の生徒は煙草をのんだことがないですが。温泉にいくと、「服や水着を着て入らないでください」と注意書きしてあるところがあります。99%以上の人は素っ裸ですが。聖道門では結婚を禁じています。日本は別として他国の僧侶は誰も結婚していませんが。
親鸞聖人が定散二善を行っていない人に、定散二善をせよと仰ったお言葉を示してください。

ここには書きませんでしたが、私がこの詭弁に対していつも言うのが、

自殺をするなと国が呼びかけていますが、その意図は、
自殺をしていない人に自殺をするなとは言われないので、まずは自殺をさせてみるということですか?

少し考えれば判りそうな、お粗末な詭弁です。私が会員の時でもこれは詭弁だと思っていましたが、今の会員はこの詭弁を真実と本気で思っているようで、びっくりします。

なお、「雑行」、定散二善を行っている会員は、今からまだ「雑行」、定散二善を行う意味は何でしょうか?
会員がすでに持っている「雑行」を捨てれば済む話ですが、更に「雑行」を増やす理由は何ですか?
答えは簡単です。
会員に金集め、人集めをさせるため。

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2020年4月19日 (日)

「雑行」の定義を知らずに大恥を晒した高森顕徹会長

雑行」とは、善導大師、法然上人のお言葉から、

正行を除く往生の行である諸善

ということが、高校生並みの国語力があれば判ると思います。
親鸞聖人は、これを更に詳しく説明されています。『教行信証』化土巻に

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

とあります。『愚禿鈔』にもほぼ同じ説明で

雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。

とあります。
雑行」とは、「もとより往生の因種にあらず」「もとよりこのかた浄土の業因にあらず」なのです。もともとは浄土往生の因となる行ではないのですが、「回心回向」すると「雑行」になるのです。
高森顕徹会長の話しか聞いたことがないと、全く理解できないと思いますが、簡単に言うと、もともと聖道門で教えられている「」は聖道門で教えられるさとりを得ようと思ってするのですが、それを「回心回向」したら、つまりさとりを得るためではなく浄土往生のためにしたならば、「雑行」になるということです。

言葉の関係は

雑行」=「浄土の雑行」=「回心回向の善」=「浄土の方便仮門」=「浄土の要門

です。

高森会長はこれを全く知りませんでした。その証拠が『浄土和讃』

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

の意味を完全に間違えて善の勧めだと吹聴してしまったことです。

現代語訳は

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。
けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、
浄土往生のための方便の
善とならないものはなかったのである。

です。「雑行」の意味を知っていたら、簡単にこの和讃の意味は判るのですが、これを善の勧めの文証とした前代未聞の高森会長の解釈により、高森会長と親鸞会は真宗界での笑いものになったのです。

察しの悪い会員のために

雑行」=「浄土の雑行」=「回心回向の善」=「浄土の方便仮門」=「浄土の要門」=「往生浄土の方便の善

こういうことです。

親鸞聖人が、この「雑行」の説明で何を仰りたかったかというと、「雑行」は聖道門と同じ「」での心を、さとりを得るためから浄土往生するためと切り替えるだけなので、聖道門の人を浄土門に導きやすい要の門(教え)だということです。完全にイコールではありませんがほとんど同じ意味なので「雑行」を19願と置き換えてみるともっとはっきりします。19願は、聖道門の人を、正確には聖道門を断念した人を浄土門に導き入れるための願だと親鸞聖人は仰っているのです。

それが丁度10年前に、mixiで高森会長と三願転入の法論をした時の最大の論点でした。

長くなるので、今回は詳しく述べませんが、その時に高森会長が絶句した親鸞聖人のお言葉が、化土巻の

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深心・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

でした。「欣慕浄土の善根」とは、浄土を願っていない人に浄土を願わせるための善根ということです。19願であり、定散二善であり、「雑行」です。

10年前の法論で高森会長の大惨敗を決定付けたのが「欣慕浄土の善根」でした。

そんなの嘘だ!高森先生が法論で負けるはずがない!

という元気な会員のコメントをお待ちしています。講師部員は師匠同様、逃げまくってコメントできないようなので。

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2020年4月18日 (土)

「雑行を捨てよ」を「間違った行を捨てよ」と理解できない珍思考

「雑行」は「行」ではない自力の心だ!

という会員は少ないでしょうが、高森顕徹会長の言った通りに信じている会員はほとんどでしょう。
『なぜ生きる2』14章の

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。

がその一つですが、これとて完璧に間違いです。添削すると

「雑行を捨てよ」とは、この間違った「行」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」の「行」そのもののことなのだ。

です。
解説しておきます。
まず善導大師がされた雑行の定義は、『教行信証』化土巻に引かれています。

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。

正行以外の諸善を雑行というのが定義です。

更に前回示した『教行信証』化土巻の雑行釈

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。信和尚は感師により、空聖人は導和尚によりたまふ。

(現代語訳)

浄土門で説かれるすべての自力の行について、道綽禅師は『安楽集』に「万行」といわれ、善導大師は『観経疏』に「雑行」(散善義)といわれている。懐感禅師は『群疑論』に「諸行」といっている。源信和尚は懐感師により、源空上人は善導大師によっておられる。

より

万行」=「雑行」=「諸行」=「諸善

ですが、善導大師のお言葉通りここでの「万行」「諸行」「諸善」には「正行」が含まれていませんので、念のため言っておきます。以前にこう但し書きをしたのに、理解できない会員がいたので、懇切丁寧に正確に書くと

雑行」=「万行(正行を除く)」=「諸行(正行を除く)」=「諸善(正行を除く)

です。

最終結論を簡潔に言うなら

親鸞聖人が捨てよと言われるのも、「諸善(正行を除く)」や「万行(正行を除く)」のことなのだ。

ですから、高森会長はまるっきり反対なことを、言っているのです。

鈍い会員のために言い方を変えて再度言うと、

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心」以前に、「諸善(正行を除く)」という「行」を捨てよ、するなと、親鸞聖人は教えられている

こういうことですが、こういうと単純な思考の会員は、

では悪いことをすればいいのか!

と間抜けた返答を高森会長から吹き込まれて反論してきますが、前回紹介した法然上人の

善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

を読めないのかという話です。「往生の行」に、「悪行」に相当する言葉が入っているかどうか、中学生にでも教えてもらえば宜しいでしょう。

それとこれも前回の蓮如上人のお言葉通りで、信前も信後も「仁義」という倫理道徳の善には心がけなければなりませんが、往生のためには「雑行」「雑善」を捨てなさいです。この「仁義」と「雑行」の違いさえ親鸞会は知らないのです。

雑行」の具体的な内容も、会員どころか高森会長も当然理解していないでしょうから、次回はそのことについて述べます。

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2020年4月17日 (金)

高校生並みの国語力なら簡単に理解できる雑行の話

先日、会員と話をしました。
親鸞会の言ってくることはワンパターンなので、今更驚くような発言はないのですが、教義を語る前に、高校生並みの国語の能力を身に着けることを会員にはお勧めします。

たとえば、「雑行」は文字通り「」なのですが、

「雑行」は行ではない!

と会員は平気で言うのです。漢字が読めないのでしょうが、「雑行」は「」の「」です。

以前にも当ブログのコメント欄でそのことを議論したことが何度かありますが、こんなことは教義云々以前の問題です。

その根拠は山ほどありまして、一部を紹介しておきます。

雑行」と最初に仰ったのは善導大師で、『散善義』には

次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。

とあります。「」です。

法然上人も『選択本願念仏集』に

善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

と仰っています。「往生の行」の一つが「雑行」です。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻で

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。信和尚は感師により、空聖人は導和尚によりたまふ。

と仰り、「万行」=「雑行」=「諸行」だとされています。すべて「」です。

こういう説明を会員にすると、

蓮如上人は違う、自力の心のことを「雑行」と仰っているのであり、「行」ではない!

とどんな理屈かというような摩訶不思議な反論をしてきます。

では『御文章』で「」を示すなら、3帖6通に

されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。

とありますが、「雑行雑善」という言い方を蓮如上人は他所でもよくされます。「雑善」は「」ですから、「雑行雑善」も当然「」です。これはこの後の「専修」と対の関係になっています。「専修」は念仏の「」を専ら修することですから、「雑行雑善」は、念仏以外の「」を修することを言います。

こういうとひねくれ者の会員は

「雑行」は自力の心で、「雑善」が「行」だ!

と間抜けなことを言ってくるでしょうが、少なくとも「雑善」という「」を捨てよと仰っているのですから、善という「」を捨てよが、蓮如上人の教えになります。

また3帖13通には、

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

とあり、ここも「雑行」と「雑善」がありますが、それに「こころをばとどめずして」ですから、共に「」となります。「雑行」が自力の心ならば、自力の心に心を留めるな、と訳の判らない文章になります。
なお、ここでもう一つ判ることは、「すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も」「仁義」に心がけて、「後生のためには」「自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして」ですから、信前信後を問わずに倫理道徳の善には心がけて、往生のためには「雑行」「雑善」という往生の間違った「」を捨てなさい、と蓮如上人は教えられているのです。

更には『正信偈大意』で

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。

と解説なされています。
ここで「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」と「専修正行になりきはまるかたの執心」が対になっています。自力の信心と他力の信心を仰ったものですが、判りやすく書くと

自力の信心=「雑行雑修の機をすてやらぬ執心
他力の信心=「専修正行になりきはまるかたの執心

ですから、

自力の心を捨てよ=「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」を捨てよ

で、「雑行」という間違った「」に拘る心を捨てなさい、となります。
もちろん

雑行」≠自力の心

で、

他力の信心を獲よ
=「専修正行になりきはまるかたの執心」を獲よ
=念仏一つに心を決定せよ

こんな明快な教えで、高校生でも理解できる古文でも、高森顕徹フィルターを通すと読めなくなってしまうのです。

なお、反論はいつでも受け付けますので、教学自慢の講師部員、幹部会員の英知を集めて、コメントをお待ちしています。ただし、高校生並みの国語力さえない方は、コメントをお控えください、会話が成立しませんので。

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2020年4月13日 (月)

「一向」「一心」の意味を知らない高森顕徹会長と親鸞会会員

新型コロナで、欧米を中心に、パニック状態になっていますが、今のところ日本では欧米ほどのことにはなっていません。
人類の歴史は、疫病と共にありましたので、そういう意味では驚くべき事態ではないと言えます。
蓮如上人も『御文章』4帖9通で

当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。

しかれども、今の時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきやうにみなひとおもへり。これまことに道理ぞかし。このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。

かくのごとくこころえのうへには、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すは、かやうにやすくたすけまします御ありがたさ御うれしさを申す御礼のこころなり。これをすなはち仏恩報謝の念仏とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。

と仰っています。極めて冷静に疫病を見ておられた上で、このような時は、「いよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。」と仰っています。

蓮如上人は「一向」「一心」という言葉をよく使われていますが、具体的にどのようなことなのか判りにくいところがあります。親鸞会では、諸善をしていても阿弥陀仏に向かっていれば、「一向」「一心」だと勘違いしています。常識的に考えれば、少なくとも雑行を捨てた状態でなければ「一向」「一心」とは言えないと判るのですが、国語の能力も教学も劣る高森顕徹会長にかかると、常識的な考え方など吹き飛んでしまうのでしょう。

『正信偈大意』には、「一向」「一心」の意味について判りやすい箇所がありますので紹介しておきます。

かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

曇鸞大師が菩提流支三蔵から言われたことは、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」で、その通りに順われたことを「一向に浄土に帰したまひけり。」と蓮如上人は仰っています。つまり、念仏することを「一向」とされています。
もう一つ

一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜・悟・信の三忍を獲べきなり。

一心」念仏になった行者に信心が定まるということです。この「一心」が自力か他力かという議論はあっても、共通するのは念仏です。

一向」「一心」は、諸善を捨てて念仏1つになることですので、平時も非常時も高森会長の妄想に騙されることなく、念仏1つで「極楽に往生すべしとおもひとりて」ください。

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