« 2020年2月 | トップページ | 2020年4月 »

2020年3月

2020年3月29日 (日)

新型コロナに怯える絶対の幸福の体現者

現在、世界中が新型コロナで大騒ぎしています。いわゆる疫病の一つですが、疫病は人類の歴史の中で常に流行して、夥しい死者が出て人口が激減したことが何度もあります。これだけ医療が発展しても、疫病を克服することは容易ではないと皆さん実感されていることと思います。

経典や真宗の聖教にも、疫病に関することが記されていますので、仏教史、真宗史においても疫病の流行は身近なものであったと言えます。

存覚上人の『持名鈔』にはこのように書かれています。

されば阿弥陀仏は、現世・後生の利益ともにすぐれたまへるを、浄土の三部経には後生の利益ばかりを説けり、余経にはおほく現世の益をもあかせり。かの『金光明経』は鎮護国家の妙典なり。かるがゆゑに、この経より説きいだすところの仏・菩薩をば、護国の仏・菩薩とす。しかるに正宗の四品のうち、「寿量品」を説きたまへるは、すなはち西方の阿弥陀如来なり。これによりて阿弥陀仏をば、ことに息災延命、護国の仏とす。かの天竺に毘舎離国といふ国あり。その国に五種の疫癘おこりて、ひとごとにのがるるものなかりしに、月蓋長者、釈迦如来にまゐりて、「いかにしてかこの病をまぬかるべき」と申ししかば、「西方極楽世界の阿弥陀仏を念じたてまつれ」と仰せられけり。さて家にかへりて、をしへのごとく念じたてまつりければ、弥陀・観音・勢至の三尊、長者の家に来りたまひしとき、五種の疫神まのあたりひとの目にみえて、すなはち国土を出でぬ。ときにあたりて、国のうちの病ことごとくすみやかにやみにき。そのとき現じたまへりし三尊の形像を、月蓋長者、閻浮檀金をもつて鋳うつしたてまつりけり。その像といふは、いまの善光寺の如来これなり。霊験まことに厳重なり。

阿弥陀仏は、後生の利益はもちろんで、現世の利益も与えて下されるのですが、浄土三部経には、後生の利益ばかりが説かれ、他の経典には現世の利益が多く説かれていることを仰った上で、『金光明経』寿量品の現世利益の内容を紹介されています。
インドの毘舎離国という国で5種の疫病が流行り、多くの人が感染したので、月蓋長者が釈尊を訪ねて、「どうしたらこの病気から逃れることができますか」と申したところ、釈尊は、「西方極楽にまします阿弥陀仏を念じなさい」と仰いました。そこで月蓋長者が家に帰って、釈尊の仰せの通りに阿弥陀仏を念じたところ、5種の疫病の神が国を出ていったのを見た。すると5種の疫病がすべてなくなり、その時に現われられた弥陀三尊の形をそのまま金で鋳造した。その像が現在の長野にある善光寺の本尊である。

親鸞聖人も『浄土和讃』現生利益和讃に

阿弥陀如来来化して
 息災延命のためにとて
 『金光明』の「寿量品」
 ときおきたまへるみのりなり

と仰っていますのも同じことです。
なお、親鸞聖人は越後に流刑に遭われて関東に向かわれる途中で善光寺に寄られたと伝えられていまして、『正像末和讃』には善光寺についての和讃を

善光寺の如来の
 われらをあはれみましまして
 なにはのうらにきたります
 御名をもしらぬ守屋にて

等、5首も残されています。
親鸞聖人も存覚上人も、名号本尊に反する善光寺の本尊を間違いだとか否定するようなことはどこにも仰っていないので、親鸞会の名号本尊論の嘘はここからも言えます。

『持名鈔』に書かれた現世利益はこのような内容ですが、ならば、新型コロナを無くすために阿弥陀仏を念じれば良いのかという素朴な疑問に対して存覚上人はこの後に

ただし、これはただ念仏の利益の現当かねたることをあらはすなり。しかりといへども、まめやかに浄土をもとめ往生をねがはんひとは、この念仏をもつて現世のいのりとはおもふべからず。ただひとすぢに出離生死のために念仏を行ずれば、はからざるに今生の祈祷ともなるなり。

と仰っています。真剣に浄土往生を願っている人は、現世の利益を願うのではなく、ただ一筋に出離のために念仏を行ずれば、現世の利益もついてくるのだということです。

要するに、信心を獲て往生が定まれば、現世利益もついてくるということですので、信心を獲ていない人は信心を獲ることに心を掛けましょうということです。

なお、存覚上人は「ただひとすぢに出離生死のために念仏を行ずれば」という言い方をされています。信心を獲ていない人は信心を獲て往生が定まるためにすることは「念仏を行ずれば」です。「念仏を行ず」ることは、「出離生死のため」と副産物の「今生の祈祷ともなる」のです。

ところで、高森顕徹会長は現在、F館に籠って、F館には掃除をする係以外は入れないようにしているそうです。新型コロナに怯えているこの高森会長の無様な姿を会員はどう思っているのでしょう。新型コロナに罹らない現世利益を信じていない絶対の幸福の体現者とは、お笑いですが、本尊論、信前の人に対する念仏の勧めも含めて、何一つ真宗らしいところが無い高森会長と親鸞会です。

| | コメント (7)

2020年3月18日 (水)

8年間沈黙で法論から逃げまくりの親鸞会と、親鸞会的な思考

今から8年前に、親鸞会に対して正式に法論を申し込みました。以下がその内容です。

 

W 様


御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
              法論の申し込み
                            平成24年3月18日
弘宣局長 W 様

御無沙汰しております、○○です。

昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。

法論の条件は、

1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
  mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
  http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする

以上の4点です。

かつて親鸞会は公約していた筈です。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

これが口先だけであったとは、言わせません。

私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間


2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている


3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である


4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない


5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力


6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ


7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ


8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない


9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる


10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。

                                           ○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。

なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。

目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。

○○○○

返事は全くなく、その代わりに『顕真』上で「ひと口問答」として反論するという腰抜けぶりでした。

詳しくは

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」

をご覧ください。

 

さて、親鸞会はもちろんですが、聖教の読み方の基本を誤っている人が意外と多いのには驚きます。

まずは親鸞聖人が仰ったこと、あるいは覚如上人、蓮如上人が仰ったことをそのまま受け取ることですが、一見、矛盾していることを仰っているように思える箇所かあった時に、片方だけを正しいものとし、もう片方を無視するのは学問的に言ってもおかしいことです。

基本は、

総合的に判断して、矛盾していないから、ここはこう解釈すべき

という思考です。

わかりやすい例が、親鸞聖人は信心決定していない人の死後を、六道、三悪道、あるいは化土という言い方しかされていないし、蓮如上人もそのように仰っている箇所かいくつもあるのに、「この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」という一文だけを正として一切衆生必堕無間が真実だと解釈するのは、思考が根本的におかしいです。他との整合性をはかるという発想自体がない、幼稚な思考といえます。

念仏と信心もそうです。念仏称えて往生できる、という表現と、信心一つで往生できる、という表現の2つがあった時に、後者だけが正という発想が幼稚です。両方あるのですから共に正でなければ嘘と真実を混ぜて親鸞聖人も蓮如上人も仰ったことになってしまいます。両方正と見れば、念仏と信心との関係も判るのです。

親鸞会を馬鹿にしながら、親鸞会と同じレベルでは情けないので、学術的な観点で聖教を読む習慣を身につけてもらいたいものです。

 

| | コメント (7)

2020年3月 8日 (日)

念仏往生を知らないし否定する浄土真宗があるか?

世の中、新型コロナの話題ばかりで、死の恐怖から親鸞聖人の教えを真面目に学んで聞こうとするのなら、ある意味で善い縁と言えるのかもしれませんが、親鸞会では親鸞聖人の教えを真面目に学ぶ気のない会員に、単に不安を煽って財施を募るばかりです。

さて、本日は死を人一倍恐れている高森顕徹会長が、隔離された部屋で話をしてネット中継しました。

演題は「名号・信心・念仏」でしたが、念仏の話はないといういつもの間の抜けた話でした。

高森会長がなぜ念仏の話をしないのかと言えば、親鸞聖人が教えられた念仏を知らないからです。高森会長の理解では、念仏=お礼としか思っていないから、信心のおまけなのです。

では、親鸞聖人は念仏についてどう教えられているのかですが、難しい話をすると、会員は理解できないでしょうから、できるだけ簡単に述べておきます。

親鸞会でも重要視する18願のことを親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は様々な呼び方をされていますが、その中の1つが、念仏往生の願です。念仏お礼の願ではありません。念仏称えて往生する願ということです。
親鸞会でも知っている根拠を挙げるなら『改邪鈔』の

かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」と等の文をもつて依憑とす。このほかいまだきかず。

があります。親鸞会の好きな18願成就文のことを「念仏往生の願成就」と仰っています。「依憑」である18願成就文は、念仏を称えて往生する願の成就文です。成就文を高森流の説明でいうなら、念仏を称えて往生する願を釈尊が解説なされたもの、になります。念仏が如何に重要かこれだけでも判るというものです。

親鸞会でも使う『御文章』5帖目1通に

末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。

とありますが、この後に、

これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。

とあります。念仏往生抜きにして、浄土真宗を語ることなどあり得ないのです。
その決定的証拠として親鸞聖人が『一念多念証文』の総まとめでこう仰っています。

浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり

信心と念仏との関係が判らないと、

信心で助かるのであって、念仏で助かるのではない!

と言ってくるでしょうが、信心が念仏往生の信心だということも知らないから、間の抜けたことを言うのです。
『末灯鈔』には

選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。

また

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

とも仰っています。

念仏往生と深く信じたのが信心です。

更には、親鸞会でさえも毎日読んでいる「正信偈」の正式名称は、「正信念仏偈」ですし、その中にも

弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、
信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。

と「本願念仏」を信じることの難しさを仰っています。当たり前ですが、「本願念仏」を信じたのが信心で、本願の信心を信じたのが信心ではありません。

簡単な話しかしていませんが、親鸞聖人の教えを真面目に学ぶ気があるなら、これで高森会長に対する疑念が起きて当然です。疑念が起きないのは、親鸞聖人などどうでもよいからです。

| | コメント (3)

« 2020年2月 | トップページ | 2020年4月 »