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2020年2月 2日 (日)

最近の親鸞会との法論10

親鸞会で”お聖教”とされている書の中には、親鸞会の主張する名号本尊の根拠はないので、この時点で、

どんな「史料」にどんな「史実」が書いてあっても、お聖教が物差しで、お聖教に反していたら「史実」は根拠にならない。

が破綻するのですが、『弁述名体鈔』も”お聖教”としています。しかし、高森顕徹会長も含めて親鸞会で『弁述名体鈔』を読んだことのある人はいないのに、どこかで名号本尊について書いてあるという噂で根拠としていただけのようです。

『弁述名体鈔』とは、存覚上人が光明本尊について書かれたものですが、光明本尊とは名号本尊の一種で、名号の周りに光明を放射状に描いた本尊です。したがいまして、親鸞会の本尊とは異なっているのですが、そんなことさえも知らないのでしょう。

さて、親鸞会が断章取義しているであろう文は、

高祖親鸞聖人御在生のとき、末代の門弟等、安置のためにさだめおかるる本尊あまたあり、いわゆる六字の名号、不可思議光如来、无碍光仏等なり。梵漢ことなれども、みな弥陀一仏の尊号なり。

です。親鸞聖人が六字の名号を含む数種の名号を本尊とされていたことを記されたことですが、名号本尊だけ、という内容ではありません。事実、他所には

あるひは形像を図し、あるひは文字をあらはして、真仮ともにしめし、梵漢ならべて存するなり。いづれも弥陀一仏の体なりとしりて、ふかく帰敬したてまつるべきなり。

とありますので、これは絵像木像本尊も「いづれも弥陀一仏の体なりとしりて、ふかく帰敬したてまつるべきなり」という意味以外にどんな解釈ができるのか教えてください。

と某講師に問いかけたところ、返答はありませんでした。

この前の部分も示しますと、

まづ弥陀の形像は、観経の像観のこころなり。かの経に、十三定善をとくなかに、第八の観は像観なり、これ形像なり。第九の観は真身観なり、これ浄土の如来なり。これすなはち衆生、さはりをもくしてはじめより、六十萬億の身量を観すること、かなふベからざるがゆへに、まづこころを形像にとどめて、次第に転入して、浄土の如来を観ぜしめんとなり。これあさきよりふかきをおしへ、仮より真にいる義門なり。かるがゆへに、かの説相にまかせて、まず形像を体として、その阿弥陀仏の真実の体は、不可思議光無碍光の体なりと、さとらしめんがためなり。絵像にかき、木像につくれるは、ちゐさくかけばちゐさきかたち、おほきにつくればおほきなるすがたなり。ただその分をまもるがゆへに、真実にあらず。不可思議光如来とも、無碍光如来ともいひて、文字にあらはせるときは、分量をさささるゆへに、これ浄土の真実の仏体をあらはせるなり。しかれども、凡夫はまどひふかく、さとりすくなきがゆへに、あさきによらずば、ふかきをしるベからず。方便をはなれては、真実をさとるベからざれば、ふかきもあさきも、みな如来の善巧真実も方便も、ともに行者の依怙なり。このゆへに、あるひは形像を図し、あるひは文字をあらはして、真仮ともにしめし、梵漢ならべて存するなり。いづれも弥陀一仏の体なりとしりて、ふかく帰敬したてまつるべきなり。

です。

簡単に解説します。
『観無量寿経』に説かれている定善の第八の像観は、仏像を観ることで、第九の真身観は、阿弥陀仏が浄土にまします真実のお姿とされる「六十萬億の身量」を観ることです。ところが「六十萬億の身量」を観ることは極めて難しい行ですので、まずは仮である通常目にする大きさの仏像を観ることから始めて、真の阿弥陀仏の「六十萬億の身量」を観ることができるようにするということです。親鸞会の大好きな”方便からしか真実に入れず”と同様の「方便をはなれては、真実をさとるベからざれば」と存覚上人は仰って、大きさとは無関係の文字による名号本尊も含めて、「あるひは形像を図し、あるひは文字をあらはして、真仮ともにしめし、梵漢ならべて存するなり。いづれも弥陀一仏の体なりとしりて、ふかく帰敬したてまつるべきなり。」なのです。

名号本尊は最善といえますが、絵像と木像を本尊としてはならない、という意味になりえないのは、マイコン真っただ中の某講師にも理解できたようです。

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