最近の親鸞会との法論13
「若不生者」について、親鸞聖人がどう仰っているのかの根拠を列記しておきます。「往生」とか「生まれる」だけで、「どこに」「どんな身に」が記されていない御文は除いています。
まずは『教行信証』行巻より
諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ
諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ
前者は『大無量寿経』の異訳経である『大阿弥陀経』、後者は同じく異訳経の『平等覚経』で、共に18願の異訳で「わが国」ですから、浄土に生まれるという意味です。
もう一つ行巻より
『双巻経』(大経)の三輩の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな「一向専念無量寿仏」といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、「乃至十念 若不生者 不取正覚」と。四つに『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」
これは『往生要集』を引かれたものですが、直接「若不生者」についての解釈を仰っているのではありません。しかし、最後の文が18願文の「生」がどこかを明確にされています。「極楽」。
次に『尊号真像銘文』です。
「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
これはよく知られていますので、解説は要らないでしょう。「浄土」。
もう一つ
「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。
ですが、これは18願文を言い換えられた善導大師の『観念法門』にある
若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚
の「若不生者」についてですが、当然、18願文の「若不生者」そのままですから、18願文の「若不生者」の解釈と同じです。「もし本願の実報土に生れずは」ですから、「本願の実報土」です。
『唯信鈔文意』には、
「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。
とあり、ここでも「浄土」です。
もう一つ
「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。
です。「わがくに」です。
次に『愚禿鈔』ですが、これは18願文を二河白道の譬えで言い換えられた
汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん
で「若不生者」にあたる「来れ」の解釈で
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。
と仰っておられます。「報土」です。
最後は『末灯鈔』で親鸞聖人が18願文をご自身のお言葉で言い換えられた
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる
です。「極楽」です。
これで
1.「浄土に生まれる」と仰った根拠
教行信証行巻 3文
尊号真像銘文 2文
唯信鈔文意 2文
愚禿鈔 1文
末灯鈔 1文
計 9文
です。これ以外にもあるかもしれませんが、思いつくものとして挙げた9文です。
「信楽に生まれる」という解釈をされた箇所は、全くないのです。
理屈でどうこういうのではなく、
親鸞聖人がどう仰っているか
論点はこの一点で、高森会長が親鸞聖人とは違う教え方しかしていない、という結論に達するのです。
これで某講師は完全に沈黙しました。
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コメント
こんばんわ、Abcです。
>「信楽に生まれる」という解釈をされた箇所は、全くないのです。
→確かに「信楽に生まれる」という表現はございません。が、それに類似した表現はございます。
ただ、「生まれる」という「自分から生まれに行く」のような自力の心構えで書かれたところはございません。
「私(行者)は主ではなく親様こそを主とせよ」という「約仏」にて記されたものが『お聖教』でありますから、いうならば「信楽に生まれさせる」ですよね。ただ、「念仏ないから」らしいので、「信楽」などは、名ばかりとなっております。
さて、本題です。親鸞聖人は、『正信偈』にて、
「速入寂静無為楽 必以信心為能入」と示されました。
【】内はレ点、1,2点 〈〉内を送り仮名としますと、
「速〈ヤカニ〉入〈ルニハ〉【二】寂静無為〈ノ〉楽〈ニ〉【一】 必〈ズ〉以〈ツテ〉【レ】信-心〈ヲ〉為〈ス〉【レ】能-入〈ト〉」と顕わされ、
このうちの「信心ヲ以ツテ 楽ニ速ヤカニ入ル」を「信楽」と顕わされます。
ただし、「念仏ないから」と二律背反的に説かれる方の理論をあてはめますと、「念仏(行)=名号(証)=お誓い(教)」でありますから、この後の「信心ひとつ」は「念仏ないから、名号ないから、誓われていないから」という「ナゾの信心」となります。
それでいて「信楽に生まれる」という「信楽」とはどんな楽(みやこ)なのでしょうね。
まさに「自然の浄土をえぞ知らぬ」であります。この『和讃』をおさえて「まことに知んぬ」でありました。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2020年3月 9日 (月) 23時21分
Abc様
今問題にしていることは、18願文の「若不生者」の直接の解釈です。
それと元の『選択本願念仏集』の
涅槃之城以信為能入
を親鸞聖人は『尊号真像銘文』に
「涅槃之城」と申すは、安養浄刹をいふなり、これを涅槃のみやことは申すなり。「以信為能入」といふは、真実信心をえたる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。
と仰っています。
投稿: 飛雲 | 2020年3月10日 (火) 02時18分
飛雲さん
さようであります。
この「若不生者」もこのエントリーで記されているように、
「生:浄土、報土、安養、極楽」について言われたことでありますね。
このことを鑑みても、
「もし浄土に生まれなかったならば、」であります。
この「浄土に生まれなかったら」の対機は、ご存じ「念仏の衆生見そなはし」でありますので、「念仏の衆生」ですね。
それと「自然の浄土をえぞ知らぬ」の上の句、「念仏成仏これ真宗」が、如実に示しておりますが、
「念仏成仏」のお謂れも、「浄土に生まれなかったら」の対機でありますね。
そもそも、「念仏の衆生を見られて」の「念仏」とは、2番目に示した「念仏成仏の願(王本願)」に始まる、「教:『大経』」、「行:選択本願、選択称名願」、「証:証大涅槃願」、「真仏土:寿命無量願、光明無量願」であります。
また、これらを合わせて「五願」とも言われますね。
そして、飛雲さんが示していただいた
「「涅槃之城」と申すは、安養浄刹をいふなり、これを涅槃のみやことは申すなり。」であります。
そのため、「念仏ないから、信心一つ」という格言は
「真宗ないから、高森信心一つ」という事にほかなりません。「涅槃の城」「涅槃のみやこ」にはたどり着けない、まさに「自然の浄土をえぞ知らぬ」なのであります。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2020年3月11日 (水) 00時40分