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2020年2月 5日 (水)

最近の親鸞会との法論11

親鸞会の主張する本尊論の最後の砦は、『慕帰絵詞』でした。
『慕帰絵詞』とは、『世界大百科事典』によれば

親鸞の後継者で本願寺発展の基礎を開いた第3世覚如(1270‐1351)の伝記を描いた絵巻。西本願寺所蔵。《慕帰絵詞》と題したのは,上人の帰寂(入寂)を恋い慕うゆえであることが,冒頭の詞書に述べられている。1351年(正平6∥観応2)の上人没後,ただちに次子慈俊によって詞書がつくられ,絵もほどなく完成したものと思われる。全10巻のうち第1,7両巻ははやくに失われ,1482年(文明14)詞書を飛鳥井雅康(あすかいまさやす),絵を藤原久信が補作した。

と説明されています。覚如上人の伝記を、言葉と絵で著わされた絵巻ものです。
この中に以下の一文があります。

かかる時も他の本尊をばもちいず、無碍光如来の名号ばかりをかけて、一心に念仏せられけるとぞ。

これはまさしく、親鸞会の究極の根拠と言えましょう。ただし、断章取義でなければですが、当然断章取義です。

これは、慈信房善鸞の件についての記述であって、宗祖のことではない。

と、30年以上も前に本願寺の山田師から指摘されて反論もできていないのですが、そこを某講師に追及すると、

善鸞が名号のみを本尊とされていたということは、親鸞聖人が名号のみを本尊とされていた証拠だ

と驚天動地の主張をしてきました。
ここまでくると、その辺の芸人よりも面白いです。
この一文のある段を全文紹介しておきます。

慕帰絵詞  第四巻
第一段

同三年には、法印そのとき廿一のことにや、本願寺先祖勧化し給ふ門下ゆかしくおぼゆるに、さることのたよりあることをよろこびて、しばらくいとまを南都の御所へ申賜て、東国巡見しけるに、国はもし相州にや、余綾山中といふ所にして風瘧をいたはる事侍るに、慈信房[元宮内卿公善鸞]入来ありて、退治のためにわが封などぞ、さだめて験あ らんと自称しあたへんとせらる。真弟如信ひじりも坐せられけるに、法印申さく、い まだ若齢ぞかし、其うへ病屈の最中も堅固の所存ありければ、おもひける様、おとさ ばわれとこそおとさめ、この封を受用せん事しかるべからず、ゆへは師匠のまさしき厳師にて坐せらるれば、もだしがたきには似たれども、この禅襟としひさしく田舎法師となり侍れば、あなづらはしくもおぼえ、しかるべくもおもはぬうへ、おほかた門流にをいて聖人の御義に順ぜず、あまさへ堅固あらぬさまに邪道をことゝする御子になられて、別解・別行の人にてましますうへは、今これを許容しがたく、粛清の所存ありければ斟酌す。まづ請取てのむ気色にもてなして掌中にをさめけり。それをさすがみとがめられけるにや、後日に遺恨ありけるとなん。この慈信房は安心などこそ師範と一味ならぬとは申せども、さる一道の先達となられければ、今度東関下向のとき、法印常睦に村田といふあたりを折節ゆきすぎけるに、たゞいま大殿の御浜いでとて男法師尼女たなびきて、むしといふ物をたれて、二三百騎にて鹿島へまいらせたまふとて、おびたゞしくのゝめく所をとおりあひけり。大殿と号しけるも、辺土ながらかの堺なれば、先代守殿をこそさも称すべけれども、すこぶる国中帰伏のいたりにやと不思議にぞあざめける。かゝる時も他の本尊をばもちゐず、無礙光如来の名号ばかりをかけて、一心に念佛せられけるとぞ。

下野国高田顕智房と称するは、真壁の真佛ひじりの口決をえ、鸞聖人には孫弟たりながら、御在世にあひたてまつりて面受し申こともありけり。或冬の事なりけるに、炉辺にして対面ありて、聖人と慈信法師と、御顔と顔とさしあはせ、御手と手ととりくみ、御額を指合て何事にか物を密談あり。其時しも顕智ふと参たれば、両方へのきたまひけり。顕智大徳後日に法印に語示けるは、かゝることをまさしくまいりあひてみたてまつりし、それよりして何ともあれ、慈信御房も子細ある御事なりと[云々]。是をおもふに、何様にも内証外用の徳を施して、融通し給ふむねありけるにやと符合し侍り、天竺には頻 婆娑羅王・韋提夫人・阿闍世太子・達多尊者・耆婆大臣等の金輪婆羅門種姓までも、あひ 猿楽をしてつゐには佛道に引入せしめ、和朝には上宮皇子、守屋大連を誅伐したまひしも、佛法の怨敵たりし違逆の族を退むがために、君臣の戦におよびしにいたる までも、みな佛の変作なれば、巧方便をめぐらして、かへりて邪見の群衆を化度せんとしたまふ篇あれば、彼慈信房おほよそは聖人の使節として坂東へ差向たてまつられけるに、真俗につけて、門流の義にちがひてこそ振舞はれけれども、神子・巫女の 主領となりしかば、かゝる業ふかきものちなづきて、かれらをたすけんとにや、あや しみおもふものなり。

関係ない話が多いので要点を簡潔に言いますと、

覚如上人が東国に行かれて2回目撃した善鸞(慈信房)は、男女200、300騎の修験者たちの棟梁として馬上にいた。そして、無碍光如来の名号を首に掛けて、念仏をとなえていた

と言う事です。その善鸞が、首に名号を掛けていたのを覚如上人が目撃された、という話を伝聞で記した内容です。

ここで、何度か紹介したこの法論の条件で某講師が言った

どんな「史料」にどんな「史実」が書いてあっても、お聖教が物差しで、お聖教に反していたら「史実」は根拠にならない。

を基にこの文章を読めば、

覚如上人が首から名号を掛けていた善鸞を目撃されたというのは「史実」であって、お聖教ではありません。その「史実」を基として、親鸞聖人は名号のみを本尊とされたという「推論」です。つまり、根拠とならないという「史実」から更に根拠のない「推論」が、親鸞聖人の名号本尊の証拠だというのです。
こんな恥ずかしいことをよくも言えたものだと、感心しました。

当然ですが、親鸞聖人あるいは覚如上人が名号だけを本尊としていた「史実」はこの「史料」にはありません。

もう一つダメ押しが「絵巻」の絵です。

Bokie


そこで、

覚如上人の病床での絵に描かれた絵像本尊が間違いであるという根拠を示してください。覚如上人が名号本尊しか認められていなかったならば、これを描いた藤原隆昌・隆章は覚如上人のことに無知であり、しかもそれを許して絵をそのままにしてきた存覚上人や蓮如上人はどういうお気持ちであったのかも説明してください。まさか覚如上人のお子さんである存覚上人が知らなかったなんてことは言わないでしょうね。

と言うと、黙ってしまいました。

これで、親鸞会の本尊論は完全終了でした。
こんな子供じみた詭弁がいつまでも通用すると思っていたのなら、見くびられたものです。

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コメント

本願寺派門徒の私も長年の冊子購読で、名号本尊に洗脳された一人でした。
この度の法論で完全に親鸞会を論破(畳み込み)されましたね。

スッキリして爽快です 本当にありがとうございました。

投稿: Tokuma | 2020年2月 6日 (木) 00時06分

Tokuma様

本派でも、親鸞会の詭弁に騙されて、名号本尊以外は偽物だ、とまでいう人もいらっしゃいまして、困ったものだと思っています。

投稿: 飛雲 | 2020年2月 7日 (金) 17時00分

>男女200、300騎の修験者たちの棟梁として馬上にいた。そして、無碍光如来の名号を首

親鸞会の高森光晴の雄姿をも彷彿とさせますね
彼の目指すところは、善鸞なのでしょう、だんだん言行が似てきています

投稿: a | 2020年2月 9日 (日) 21時31分

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