最近の親鸞会との法論8
親鸞会が名号本尊の根拠として最初に出すのが、『御一代記聞書』の
他流には、「名号より絵像、絵像よりは木像」と、云うなり。当流には、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と、いうなり。
です。
蓮如上人が名号本尊を強調されているではないか!
と言ってきますが、本当にそうなのかです。
『御一代記聞書』の読み方については「親鸞会教義の誤り」でまとめられている通りですが、書かれてある内容を大別すると
1.蓮如上人の直のお言葉
2.蓮如上人のお言葉の聞き書き
3.実如上人、法敬、道宗等の言葉
4.著者もしくは発言者不明の言葉
になります。
1は、『御文章』をそのまま引用されているもので、間違いなく蓮如上人のお言葉と言えます。
2は、蓮如上人のお言葉を聞いた人が、記憶に任せて書き記したものですので、聞き間違いがあるかもしれませんが、蓮如上人の仰ったこととしての信憑性はあると言えます。ここに当てはまるのは、蓮如上人が仰った、と書かれてある場合です。言葉を語られた主語が「蓮如上人」「前々住上人」となっている、もしくは「仰せられ候」等の尊敬語があることで判別できます。
3は、主語が蓮如上人以外の名前である場合ですので、明らかに蓮如上人のお言葉ではありません。
4は、主語がない、そして尊敬語もない、言いっ放しの文章です。これは1でも2でも3でもないことが普通に判る話です。
中学校の国語レベルの問題です。
では
他流には、「名号より絵像、絵像よりは木像」と、云うなり。当流には、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と、いうなり。
はどれに当たるのか考えてみましょう。
発言者の名前がなく、「仰せられ候」とも書かれてありませんので、答えとしては4に当たります。つまり、蓮如上人のお言葉という根拠にはなりません。もしこれが蓮如上人のお言葉であると主張するのであれば、その理由を他の蓮如上人のお言葉で補うしかありませんが、これが唯一の蓮如上人のお言葉ですから、それを指摘したら、某講師は反論できませんでした。
なお、親鸞会でも知っている『御一代記聞書』の
前々住上人の御時、あまた御流にそむき候ふ本尊以下、御風呂のたびごとに焼かせられ候ふ。
は、何が「御流にそむき候ふ本尊」であるかは書かれていませんが、蓮如上人が本願寺を継がれた際には、本願寺は、天台宗の有力寺院である青蓮院の単なる一末寺でしかありませんでした。天台宗の一末寺ですから、天台宗の本尊も本願寺にあったので、「御流にそむき候ふ本尊」とは天台宗の本尊のことと言われています。
史実では、蓮如上人は木像本尊、絵像本尊にされているので、木像と絵像を焼かれたという発想は、流石に親鸞会でもできないようです。
ということで、名号本尊最大の根拠を親鸞会は失いました。
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