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2020年1月 9日 (木)

最近の親鸞会との法論4

親鸞会でも有名な三願転入の文

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。

ですが、この意味を高森顕徹会長も親鸞会会員もよく判っていないようです。
三願転入の文で高森会長は19願の説明ばかりですが、ここのポイントは20願と18願です。
論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」、19願を出て離れて、「善本徳本の真門」20願に入ったとされています。七高僧方の教えによって、19願から20願に「回入」されたのですから、七高僧方の教えられたことに20願があると親鸞聖人は見做されていたといえます。もとろん、そこから18願に転入するまでが七高僧方の教えですが、18願の前に七高僧方の導きで20願に入られたと親鸞聖人は仰っています。

ここで前回の話に戻りますが、19願から20願に入ったことがハッキリするのかどうかについて、この三願転入の文でも、親鸞聖人はハッキリしたと仰っているのです。

この三願転入の文で、親鸞聖人は本当はハッキリしないが20願に入られたと仰っただけというのが、親鸞会の解釈ですか?

このようにも問いましたが、親鸞会某講師からまったく返答はありませんでした。

ただし親鸞聖人の直接の師匠であった法然上人が親鸞聖人に対して直接20願に入ることを勧められたのではないと思われます。なぜなら、法然上人が20願について全くと言っていいほど言及されていないからです。

親鸞聖人が法然上人の法語を編纂された『西方指南抄』には

ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心を、すなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。

とありますように、法然上人は自力でも念仏を称えることで信心を頂けるという教え方をされていましたので、それを20願果遂の誓いと親鸞聖人は味わわれて仰ったのではないかと思われます。

これは19願についても言えることで、親鸞聖人は19願をいつ実践されたのかという問題があります。法然上人のお弟子になられてから19願を実践されたことは考えられないですし、そうなるとその前の比叡山時代に天台浄土教で19願の実践はあり得ない話ではないですが、そこは記録がないので、何とも言えません。聖道門でのご修行を19願に置き換えられて仰ったという見方もできますが、『教行信証』化土巻の要門釈にある、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

より、外道から聖道門、聖道門から19願という流れで、聖道門を断念した人の受け皿としての19願という親鸞聖人の解釈を御自身に準えて19願を通られたと告白されたのではなかろうかと思います。ここは解釈の分かれるところで、異論のある方もいらっしゃると思いますが、親鸞聖人が御自身の道程を仰っていないので、断定する根拠がありません。

いずれにしましても、三願転入につきましては、七高僧方は仰っていませんし、覚如上人も蓮如上人も仰っていない、歴史に名を残す妙好人も言われていない上に、親鸞聖人は『教行信証』の中でこそっと仰ったに過ぎないことですから、三願転入を殊更取り上げて、これこそが親鸞聖人の教えの根基だというのは、根本的におかしいでしょう。

親鸞会がというより高森会長が、私のことを非難するセリフを考えて、会員に伝えたことの1つに、

それでは三願転入ではなく二願転入だろう

というのがありますが、少なくとも19願を勧められた善知識方はおられないですから三願転入ではなく、自力の念仏から他力の念仏へと転入することについて教えられた善知識方の意図をくみ取るなら、二願転入と馬鹿にすること自体が馬鹿にされる非難といえます。

聖教を読んでいない高森会長と講師部員、会員が想像で物を言ってきたところで、何ら恐れることはありません。実際に某講師からの反論は1度だけで、こちらが再反論したら沈黙するほどの情けなさです。

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コメント

飛雲 様
 
「三願転入は、間違った考えである」に賛成です。

19願、20願、18願はそれぞれ独立した教えだと思います。
このことは、飛雲 様 をはじめ他の方々も言われていることだと認識しています。それぞれ三つの道があり、また進むとき同時に二つの道を進むことは、できません。なぜなら、進んだ先の浄土は、それぞれ違った浄土だからです。

19願、20願、18願は、それぞれ浄土の教えなので、関連付けてしまい、あたかも階段を一段、二段、三段と登るがごとく進んでいくのだと思ってしまいます。

どのようにして、18願に転入するのかについては、当方が何度も聖典
を拝読し勉強した結果ですが、

末法の世に於いて、18願の道を勧める方が、真の善知識であり、
19願の道、20願の道を勧める方は、知識といえると思います。

無知な衆生は知識の勧めにより、それぞれの道に進みます。
「19願の道を行け」といわれれば、19願の道をそのまま進む。
「20願の道を行きなさい」といわれれば、20願の道を素直に進もうとする。

「現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪廻せり。苦しみいふべからず。いま善知識に遇ひて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。一心に称念して往生を求願せよ。願はくは仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまはざれば、弟子を摂受したまへり」と。(行巻)<行巻には、十七願、十七願成就文が説かれている。>

「善知識に遇ひて弥陀本願の名号を聞くことを得たり」これは、十七願、十七願成就文の働きで、18願に転入することを現しています。

18願に転入するための願は、十七願、十七願成就文である。

では、二十願はどうなのか。

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する(浄土和讃)

定善の機、散善の機は、二十願の称名で18願に転入することができる。
しかし、悪機は二十願の称名で、18願に転入することはできない。
「善知識に遇ひて弥陀本願の名号を聞くこと」で、18願に転入できる。

投稿: 間違ったら 叱られる | 2020年1月11日 (土) 22時27分

間違ったら 叱られる様

概ね良いと思いますが、悪機は20願で18願に転入することができないかどうかは微妙です。

謗法闡提は20願ができないと言えますが、十悪の機ができないかどうかは、意見が分かれるところです。

投稿: 飛雲 | 2020年1月12日 (日) 15時07分

飛雲 様

十悪の機は、称名を諸善の一つと考えていれば20願ができないことになります。聖道門の人でさえ、称名を諸善の一つと考えています。

投稿: 間違ったら 叱られる | 2020年1月14日 (火) 14時07分

十悪の機とは、諸善のできない機であり、19願の対機には通常入りません。
従いまして、称名を諸善の一つとすることは、十悪の機にはありません。
観無量寿経の下品上生が十悪の機ですが、善を死ぬまですることなく臨終になって初めて念仏を称えて往生するということですが、これを顕では19願中の念仏と解釈することも可能ですが、それと20願ができないとの関連性はありません。20願は善を捨てて念仏一つとなったことですので、20願の念仏はできるという解釈は成り立ちます。
ただし、化土巻の真門決釈に

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

と仰っていまして、悪人が含まれていないので、十悪の機は20願の対機ではないという解釈もできます。

投稿: 飛雲 | 2020年1月14日 (火) 21時02分

お答え頂きありがとうございます。

>20願は善を捨てて念仏一つとなったこと

当方の考えでは、「善を捨てて念仏一つとなる」このような心に
なるには、善知識に遭って教えを聞く必要があります。
十七願に入らないと、このような心には、ならない。
ですから、「善を捨てて念仏一つとなった」ということは、十七願に入った
ということです。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。
果遂の誓、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。
(化土巻)

「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」とありますので、親鸞聖人は
善知識の勧化によって十八願に入られたのですから、十七願の働きで
十八願に入られたことになります。

十七願の働きですから、この文は三願転入の根拠にはならないと思います。


投稿: 間違ったら 叱られる | 2020年1月15日 (水) 10時28分

正直申しまして、仰っていることがよく理解できません。
17願と20願との関係については、難しいところがありまして、解釈が分かれるところでもあります。
解釈が決定的なところでなければ、そのような解釈をされているということで宜しいのではないでしょうか。

投稿: 飛雲 | 2020年1月15日 (水) 17時00分

>仰っていることがよく理解できません。

そうですか。

「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化により」は、十七願成就文の「十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。」にあたると思います。

論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によらなければ、「善を捨てて念仏一つ」とはならないということです。

投稿: 間違ったら 叱られる | 2020年1月16日 (木) 11時44分

ここに関しては、そのような味わいなんだと理解しました。

投稿: 飛雲 | 2020年1月16日 (木) 20時35分

阿弥陀経は、無問自説(誰も問わないのに自分で説かれた)の経だといわれています。
36回出てくる「シャーリーホ」は、智恵第一の舎利弗です。

このことは、智恵第一の舎利弗でも、お釈迦さまが阿弥陀経を説かれなければ、「善を捨てて念仏一つ」とはならないことを示しています。

お釈迦さまが阿弥陀経を説かれたというのは、十七願の働きです。

善知識の勧化によってはじめて衆生は、「善を捨てて念仏一つ」になれるということです。

このことは、「味わい」では、ありません。事実です。

親鸞会では、
>十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する十方衆生の道程と、
>見ておられることがよくわかる。

このように、十方衆生を強調していますが、十七願成就文の善知識(諸仏、如来)は、十方衆生を救おうと名号の不可思議なることを説いておられます。

「至心信楽欲生と
十方諸有をすすめてぞ
不思議の誓願あらわして
真実報土の因とする」(第十八願) (浄土和讃)

 「至心発願欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける」(第十九願) (浄土和讃)

 「至心廻向欲生と
十方衆生を方便し
名号の真門ひらきてぞ
不果遂者と願じける」(第二十願) (浄土和讃)

このご和讃の「すすめてぞ」、「仮門ひらきてぞ」、「真門ひらきてぞ」とありますが、
これらはすべて善知識の勧化であり、十七願の働きを示しています。

「親鸞は、弥陀の三願によって救われた」のではなく
「親鸞は、善知識の勧化(十七願の働き)によって救われた」です。

三願転入でなく、十七願から十八願に転入する。

さらに言うと、当方だけの意見ではありませんが、蓮如上人の五重の義では、宿善・善知識・光明・信心・名号とあります。

五重の義の「善知識」は、十七願の働きです。十七願の働きがあってこそ、信心が獲られます。
第十九願、第二十願よりも、はるかに十七願が重要なのです。

投稿: 間違ったら 叱られる | 2020年1月17日 (金) 11時44分

いわゆる両重因縁でも教えられていますから、それはそれで間違いないです。
今は、三願転入についての話ですから、途中の理屈がどうであれ結論が

>第十九願、第二十願よりも、はるかに十七願が重要なのです。

については同意します。

投稿: 飛雲 | 2020年1月17日 (金) 12時01分

>>第十九願、第二十願よりも、はるかに十七願が重要なのです。

>については同意します。

「第十九願、第二十願よりも、はるかに十七願が重要」
このことから 

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化
によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の
往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生
の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、
選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、
難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、まことに由あるかな。
ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。

この文は、三願転入の根拠でなく、十七願から十八願に転入するという根拠となります。

では、第十九願、第二十願は、何のために説かれたのかという問題については、

当方の意見ですが、深心因果した善人は、十八願に転入することが難しいということです。

根拠は、大無量寿経(下巻)に「このゆえに弥勒、たとい大火ありて三千大千世界に充満せんに、要ず当にこれを過ぎてこの経法を聞きて、歓喜信楽し、受持読誦し、説のごとく修行すべし。」

「深心因果した善人」が、「弥勒」にあたり「十八願に転入する」が、「この経法を聞きて、歓喜信楽し」になります。「十八願に転入することが難しい」が、「たとい大火ありて三千大千世界に充満せんに、要ず当にこれを過ぎて」にあたります。(重要:弥勒は、釈尊のご説法で十八願に転入していません。)

ですから、深心因果した善人は、19願で仏と成ります。根拠は、観無量寿経の「極楽世界のすがたを想い描くためのいろいろな方法を説き、また清らかな行を修めたいと願う未来のすべての人々を西方の極楽世界に生れさせよう。その世界に生れたいと願うものは、次の三種の善い行いを修めるがよい。・・・・・・韋提希よ、そなたは知っているだろうか。この三種の行いは、過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、さとりを得る正しい因なのである」→定善のご説法

そして二十願は、深心因果した善人のなかで、次に説かれる定善のできない人のために説かれた。
深心因果した善人は、十八願に転入するのが難しいので、阿弥陀仏は十九願、二十願を誓われた。
善人が、二十願から十八願に転入できる根拠は、
「定散自力の 称名は 果遂のちかひに 帰してこそ をしへざれども 自然に 真如の門に 転入する」

大無量寿経からこの問題をまとめると悪人正機であり、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。 」です。

投稿: 間違ったら 叱られる | 2020年1月19日 (日) 06時03分

仰りたいことは判りました。
但し19願の対機は、定散の機です。
深信因果は、定善の機と上品上生の機、上品中生の機までです。上品下生の機は亦信因果で、深信因果できない善人です。中品も深信因果できない善人ですが、19願の対機です。

投稿: 飛雲 | 2020年1月19日 (日) 06時33分

お答え頂き有難うございます。

三願転入の問題を当方なりに浄土三部経を根拠とし、かってにまとめました。ただし、十方衆生が仏と成る流れで述べています。

1.悪人は、十七願から十八願に転入し、浄土に生まれて仏と成る。(例:韋提希夫人 根拠 観無量寿経)
2.弥勒のような菩薩は、(十七願→十八願)→十九願の流れで仏となる。
(弥勒は、釈尊のご説法で十八願に転入していない。 根拠 大無量寿経)
3.2以外の善人は、二十願から十八願に転入し浄土に生まれて仏と成るか、十七願から十八願に転入し浄土に生まれて仏と成る。

解説
「十九願の流れで仏となる。」については、十九願成就文(上輩)では、「自然に化生して」とあり、報土に生まれて仏と成ることを意味しています。

善人が善知識の説法を必要とせず、「二十願から十八願に転入する」の根拠は、親鸞聖人の浄土和讃です。

「2以外の善人」については、阿弥陀経の「善男子、善女人(善人)」にあたります。(釈尊は、おべっかで云われたのでは、ありません。)

「2以外の善人」も、十七願から十八願に転入するについては、
「舎利弗、もし善男子・善女人ありて、この諸仏の所説の名および経の名を聞かん者は、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏の共に護念する所と為り、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得。このゆえに舎利弗、汝等、みな当に我が語および諸仏の所説を信受すべし。」(阿弥陀経)

善人に対して、善知識から名号の功徳を疑いなく聞くことが、勧めれれている。

投稿: 間違ったら 叱られる | 2020年1月20日 (月) 13時02分

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