最近の親鸞会との法論5
次に某講師が言ってきたことは、
「19願を勧められた善知識はおられない」と言うが、善導大師は「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」(散善義)と仰っているではないか。
というものでした。
何でも、善の勧めだと勘違いしているのが親鸞会ですが、これもこの文の前後を読めば簡単に論破できます。
このお言葉は、『観無量寿経』の上品上生に説かれた三心である至誠心・深心・回向発願心の至誠心について、善導大師が解釈なされた一文です。
『散善義』の中では上品上生のことを
これすなはち大乗を修学する上善の凡夫人なり。
と解釈され、また『玄義分』では
まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
とも仰っています。大乗仏教で教えられる善を行ずる最上の凡夫で、その日数は少ないけれども行業を修める時は非常に勇猛であるということです。
つまり、この「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」の前提が、上品上生という「大乗極善の上品の凡夫」のことについてのお言葉であることを知れば、我々のような者と関係があるのかないのか、判りそうなものですが、上品上生のところで仰ったお言葉だとは、高森顕徹会長をはじめ、講師部員は知らないので、的外れなことを平気で言えるのです。
更には、善導大師が至誠心についての解釈をなされたところですので、至誠心の内容です。前後を紹介しますと、
一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。
この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。
です。
「外に賢善精進の相を現じ」るのが、上品上生の機です。これ前提で、たとえ善をしていても、内が虚仮では、「雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。」と仰っています。
更には、このような内が虚仮でする善では、「かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。」と断言されています。「上善の凡夫人」「大乗極善の上品の凡夫」ではあっても、内が虚仮であっては、往生できないという善導大師の解釈です。
なぜ往生できないのかの理由が次にあります。
まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。
阿弥陀仏は法蔵菩薩の時に「真実心」で菩薩の行を行じられたのだから、法蔵菩薩と同じ「真実心」でなければ、阿弥陀仏の浄土に往くことはできないという理屈です。
簡単に言うと、難しい善のできる凡夫であっても、法蔵菩薩と同じ「真実心」で善を修しなければ往生できない、ということです。
ここまでくればお判りかと思いますが、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」は、善を勧められたお言葉ではなく、「真実心」を勧められたお言葉なのです。
上記ほど詳しい説明はしませんでしたが、「真実心」を勧められているのであって、19願を勧められたのでも、善を勧められたお言葉でもないと言ったら、それ以降は沈黙でした。
至誠心についてはもう少し説明しないと判らないと思いますので、次回に補足します。
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