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2020年1月22日 (水)

最近の親鸞会との法論7

親鸞会が声高に主張していることで、これまで当ブログで話題にしてこなかったものに、本尊論があります。なぜ取り上げなかったのかといいますと、根拠がないからです。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、名号のみを本尊とせよ、と仰った聖教上の根拠もないし、絵像・木像でも良い、と仰った聖教上の根拠もありません。つまり、親鸞会と法論して、白黒ハッキリ付けられるものではないので、敢えて話題にしてきませんでした。

それで気を大きくしたのか、自信満々に、

浄土真宗の正しい本尊は名号だ、それを実践しているのは親鸞会だけだ

と宣伝しまくっています。

そして、このことで某講師と法論になりました。

親鸞会の言ってくることは、30年以上前に本願寺との本尊論の法論で言った以上のことはありませんので、親鸞会の言っている根拠を一つ一つ潰していけば、根拠のないことが明確になります。

しかしながら、結論は30年以上前にすでに出ていますので、ほとんどは以下を詳しく説明するだけでした。

山田行雄著『真宗の本尊について』

この論文を示した上で、最初の導入として

本尊のまとめ

A)教えとして
1.七高僧は名号本尊とせよとは仰っていない。
2.親鸞聖人は名号本尊とせよとは仰っていない。
3.覚如上人は名号本尊とせよとは仰っていない。
4.蓮如上人は名号本尊とせよとは仰っていない。

つまり、教えとして名号本尊でなければならないとはどこにもない。

B)史実として
1.七高僧は木像絵像を本尊とせられた。
2.親鸞聖人は木像絵像を本尊とせられた。
3.覚如上人は木像絵像を本尊とせられた。
4.蓮如上人は木像絵像を本尊とせられた。

と突き付けました。
山田師の論文の全体を読んだことがなかったので、動揺していましたが、これで某講師が引き下がることはなく、言ってきたことが、

どんな「史料」にどんな「史実」が書いてあっても、お聖教が物差しで、お聖教に反していたら「史実」は根拠にならない。

というものです。実は、これが後々自らの首を絞めることになりますので、覚えておいてください。
親鸞会が根拠とする書を列記しておくと
『改邪鈔』
『慕帰絵詞』
『弁述名体鈔』
『御一代記聞書』
です。

論破は簡単ですが、すべてのやりとりを紹介するとかなり長くなりますので、途中のまとめを以下としました。


【本尊について】

・親鸞聖人は、「名号のみを本尊とせよ」と仰ったお言葉はない。
・覚如上人は、「親鸞聖人が名号のみを本尊とせよと仰った」とも書かれていないし、御自身の見解としてそう仰った箇所がない。
・覚如上人は、『改邪鈔』で「親鸞聖人はあながち木像絵像を本尊とされなかった」と仰ってはいても、これが「親鸞聖人は決して木像絵像を本尊とされなかった」という意味に勝手に解釈しているだけで、その根拠が明示できない。
・『慕帰絵詞』では、「善鸞が名号のみを本尊としていた」とある史実に対して、「親鸞聖人も名号のみを本尊としていた」と推論しているだけで、その根拠がない。史実以下で、仮説でしかない。
・『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像本尊とされていた絵については、間違いだと断言されていますが、その根拠がないし、『慕帰絵詞』の絵を見た覚如上人のことをよく知る多くの人が異論を唱えていない。
・存覚上人は、『弁述名体鈔』で木像絵像本尊も認められている。
・蓮如上人は、『御文章』『正信偈大意』で、「名号のみを本尊とせよ」とも仰っていないし、「親鸞聖人が名号のみを本尊とせよと仰った」とも書かれていない。
・『御一代記聞書』で、主語もなく、尊敬語もない文章に対して、蓮如上人のお言葉という理由も推論の域を出ない。

※結論 「名号のみを本尊とせよ」という教え自体が存在せず、そうした事実すらないから、「名号のみを本尊とせよ」は妄想に過ぎない。

山田師の論文に加えたのが『慕帰絵詞』に描かれた覚如上人が絵像本尊にされている絵 と、「親鸞会教義の誤り」の1つのエントリーです。

これでも必死に抵抗してきましたので、そこについては、次回以降、紹介していきます。

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