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2019年12月15日 (日)

最近の親鸞会との法論1

親鸞会では、講師部員に向けて高森顕徹会長による法論禁止令が長らく出されていまして、退会者との法論を避け続けてきました。しかし、多数の退会者が出そうな状況や大きな行事前の誘いのために、思わず法論をしてしまうことがあります。
今年もそんなことが何回かありましたので、一部を紹介します。
ただし、講師部員の主張をそのまま掲載すると、顧問弁護士から著作権侵害等で訴えられる可能性があり、直接的な文章は紹介しませんので、その点はご了解ください。

まずは、因果の道理についてです。

因果の道理を否定したら、仏教の否定になり、阿弥陀仏の救いもないことになります。

というようなことを言ってきました。
これに対する反論は実に簡単にできます。

ボランティアをする人で、この善が往生のために、もしくは信仰のためにプラスになると思うことは、普通はありません。浄土往生を目指していても、親孝行と往生とを関連付けることも普通はありません。つまり、世間的な因果の道理をどれだけ信じようとも、それと往生とが無関係なら、何の問題もありません。問題となるのは、世間的な善、そして仏教で教える善を往生と関連付けること、つまり因果の道理と往生とは密接不利な関係にあるという考えです。

以下の蓮如上人のお言葉が最も判りやすいでしょう。
『御文章』5帖目13通

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

信前の人も信後の人も心得るべきことは、「王法を本とし」(国の法律を守り)、「仁義をもつて本とし」(倫理道徳の善に心がけ)です。一方で「後生のためには」(往生のためには)、「自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして」(仏教で教える善に心を留めない)です。

世間的なこととしては、世間的な因果の道理を信じて、法律を守り、倫理道徳の善をしましょう、だけど、往生のためには仏教で教えられる雑行・雑善は捨てましょう。

こういうことです。
もっと簡潔に言うなら、

世間的な因果の道理は信じるべきですが、仏教で教える因果の道理を信じると往生の妨げになります。

なぜなら、仏教で教えられる因果の道理と阿弥陀仏の救いとは相反するからです。

僅かこれだけで、講師部員は沈黙しました。

この後、まだ説明しようと思っていたのですが、あっけなく終わりました。
一応、ここではもう少し説明しておきます。

仏教で教えられる因果の道理と阿弥陀仏の救いが相反することを最も端的に表現されているのが、蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』にあります。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。

判りやすく訳すと、

仏教で教えられる因果の道理からは、往生しようと思うならば、衆生一人一人が願を発して、衆生一人一人が行を励むことになるはずですが、その願と行を法蔵菩薩が衆生の代わりになされて、その果は衆生が受けることになります。これは世間の因果の道理、仏教の因果の道理をはるかに超えて異なっているのです。

ということです。世間の因果の道理、仏教で教えられる因果の道理と、阿弥陀仏の救いとは全く別なのです。つまり、仏教の因果の道理を信じることが阿弥陀仏の救いを疑うことになるのです。

なぜなら、我々が往生するという果に対する因は、阿弥陀仏の願と行だからです。我々は何一つしなくても良いように、阿弥陀仏がすべての因そして縁も用意して下されているのですから、自因自果、自業自得の道理とは、相反するからです。

したがいまして、自力、疑情について親鸞聖人は「罪福信ずる心」という言い方を多くされているのです。
親鸞会でも知っている御文ならば、『教行信証』化土巻の

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

です。

この他にも因果の道理に関する御文はたくさんありますが、それは次回に紹介します。

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コメント

そうですね、聞法精進という言葉を頻繁に親鸞会では使われますが、本願にあわない造語だと最近気づきました。

投稿: a | 2019年12月16日 (月) 08時57分

釈迦の説かれた仏法を一貫して流れているものは因果の道理である。
それは我々の運命を決めるものである。
善因善果、自因自果。悪因悪果 自因自果。すべては自業自得である。
ここでいろいろの例を挙げて、善の奨励となる。直接言わなくてもそう思う気持ちにさせる。
ここが乾坤一擲の分かれ道。
でも親鸞聖人は罪福信ずる人は化土往生。
源信僧都が報化二土正弁立と教えてくださる。
今回のご指摘は意味が深い。

投稿: 運命を決めるもの | 2019年12月16日 (月) 18時13分

飛雲様
最近、このブログを読ませていただくようになりました。私は親鸞会に入ってもう30年以上になります。
飛雲さんのブログで、今まで拝読しても理解できなかったお聖教の意味が分かるようになり、これまでの疑問が一つ一つ解けていきます。嬉しさの余りコメントさせていただきました。飛雲さんのブログを最初からすべて読ませていただくつもりです。
これからもよろしくお願いいたします。

投稿: | 2019年12月16日 (月) 21時04分

名無し様

質問疑問等有れば、いつでもコメントください。

投稿: 飛雲 | 2019年12月17日 (火) 07時06分

名無し様
私も2019年6月に、このブログに初めて出会って、38年間の親鸞会から退会するきっかけとなりました。
それから、毎日毎日が初事初事になることが出来、本当に多くのご同行に遇うことが出来ました。

投稿: 土見誠輝 | 2019年12月17日 (火) 08時57分

 12月15日「飛雲」様 『安心決定鈔』・まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。・・・の説法、有難うございました。私としては、かなりスッキリしたところです。                                                    ①ところで、因である願行が弥陀で成されているとして、では縁は具体的には何になるのでしょうか? 弥陀の行なのか、何なのか? 五正業とか? ②こちらにできることがないとすれば、称名念仏の意義・位置付けはどうなるのでしょうか?                                       以上、よろしくお願いいたします。

投稿: 迷い人 | 2019年12月22日 (日) 09時44分

迷い人様

因は阿弥陀仏の願行ですが、言い換えると願行の結果である名号、あるいは念仏となります。

縁は阿弥陀仏の光明

これが両重因縁です。

投稿: 飛雲 | 2019年12月22日 (日) 09時49分

12月15日での出典「安心決定抄」。通販のその書評を見ていましたら、(長文で申し訳ありません → )「正式な浄土真宗の教義によると、煩悩具足の凡夫が救われて浄土に往生する条件は念仏をして、そこではじめて、阿弥陀の浄土に往生できると主張する。しかしながら、もし、なんらかの事情によって念仏さえ出来ない人々がいるかも知れない。そのような人々は浄土往生出来ないのだろうか?という疑問が絶えず私の心を苦しめていた。ところがこの「安心決定鈔」によると、阿弥陀如来は「一切衆生を極楽に往生させることができないならば、私は佛にはなりません」と法蔵菩薩時代の修行期にハッキリ誓願を立てて誓っている。しかも、そのような誓いを立てた法蔵菩薩はすでに成仏して十劫たって浄土の完成も、すべての菩薩の修行をも完成して阿弥陀佛となっている。これはつまり、我々は佛が正覚を開いた十劫という遥かな過去において、すでに往生していたと解釈できる。それではなぜ今の今まで我々は浄土へ行くことあたわず、佛にも成れずに苦界に輪廻しているのか?それは、阿弥陀佛の慈悲と誓願の完成を信じなかったためである。【 本来はすでに浄土往生しているはずなのである。】 【つまり佛の正覚と一切衆生の救済は「同時」であり、「機法一体である」ことを明らかにしたのが、この「安心決定鈔」なのである。】よって念仏十返さえ出来ない人々でも、「一念の信心さえあれば」すでに浄土往生は決定されていたのである。要は一念でも信があれば、この一点だけがクリアになれば、念仏不要でさえあり、阿弥陀の浄土への往生は確実と言うことになる。如来の慈悲、ここにきわまれりである。本書は「歎異抄」のように聖典としてポピュラーな書物ではないが、真宗の蓮如がその価値の高さを評価して、「黄金のような聖典」としている重要聖典だけに、真宗者必読の書と言えよう 」とありました。
 【 】は、よく呑み込めないので私がしました。③「すでに往生している。」が不審です。十劫安心?  ④このときに「機法一体」と出てきましたが、これも何か唐突感で釈然としません。                         【 】の内外、15日の説法の関連として、もう少し敷衍していただけませんでしょうか? あれば有難いのですが。
                                  

投稿: 迷い人 | 2019年12月22日 (日) 10時31分

投稿してから見ましたら、。先ほどの質問の答えがもう出てきていて、感謝感謝です。「光明」「両重の因縁」と重たい言葉です。今にして、再敬礼で探求します。 ・・・有難うございました。 

投稿: 迷い人 | 2019年12月22日 (日) 10時37分

阿弥陀仏が本願を成就されて仏に成られているから、理屈から言えば衆生も往生していないと本願が成就したことにならないが、衆生がいつか必ず往生することが決まっているので、本願が成就しているのだということです。

投稿: 飛雲 | 2019年12月22日 (日) 10時38分

飛雲さんは自分の信心をどのように検証されましたか?

念仏している。教えを聴けている。
これは阿弥陀仏の働きが今、現に私に働き続けているからだと思います。

本当に私が浄土にいけるのかは全くわかりません。
たまに、実は自分の信心は違っていて、勘違いのまま死んでいくのかもと思うときがあります。

何か体験なるものがあれば分かりやすくて良いのになと思います。

投稿: ワタ | 2019年12月23日 (月) 20時44分

ワタ様

浄土に往けるかどうか、どれを知る智恵は凡夫にはありません。弥勒菩薩でさえ判らないとされています。
信心を獲ても、信心を獲る前と殆ど変わりません。唯一変わるのは、あった自力が無くなったことです。

自力とは、念仏なり聴聞なり何とか頑張って信心を獲てしたいという心で、罪福信じる心です。それがなくなった状態とは、阿弥陀仏に信心も往生もまかせたのだから自分でどうこう思ったり考えたりしなくなります。高森会長はそれを無力と言いますが、無力と他力は表面上は同じです。簡単に言うと、元々自力がなかったか、あったものがなくなったかの違いです。

体験とは、あった自力が無くなったことが判ることです。

投稿: 飛雲 | 2019年12月23日 (月) 20時59分

飛雲様

以前は念仏をしているうちに救いなるものがわかると思って

よく念仏していましたが、

私が探し求めるまでもなく南無阿弥陀仏の名号は

すでに私のところに来ていたと思うようになってから

何かをして救われようという気持ちはなくなりました。

私の中で変わったところはそこだけでした。

投稿: ワタ | 2019年12月24日 (火) 06時16分

私も同じです。

投稿: 飛雲 | 2019年12月24日 (火) 06時43分

飛雲さま

質問してよかったです。
ありがとうございます。

投稿: ワタ | 2019年12月24日 (火) 18時44分

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