最近の親鸞会との法論2
因果の道理について、親鸞聖人は『正像末和讃』誡疑讃にて次のように仰っています。
不了仏智のしるしには
如来の諸智を疑惑して
罪福信じ善本を
たのめば辺地にとまるなり罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける
など他にもありますが、「仏智の不思議をうたがふ」とは「罪福信ずる」こととされています。
「罪福信ずる」とは「自業自得の道理」でもあり、自分に起きる禍福は自分に因があるというものです。
これと阿弥陀仏の救いとは相いれません。なぜなら、衆生が往生し成仏する果の因は、すべて阿弥陀仏の因であるからです。それ以外にはありません。
宿善を厚くして救われる、というような理屈ですと、それは衆生に因があることになります。
『教行信証』信巻に、
しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。
と仰っていますが、行も信も阿弥陀仏から回向されたもので、その阿弥陀仏から回向された行と信を因として往生成仏するのですから、阿弥陀仏の回向された行と信以外には因はないのです。
これは聖道門では考えられない道理になります。
それで覚如上人は『改邪鈔』に
もしいまの凡夫所犯の現因によりて当来の果を感ずべくんば、三悪道に堕在すべし。人中・天上の果報なほもつて五戒・十善まつたからずは、いかでか望みをかけんや。いかにいはんや、出過三界の無漏無生の報国・報土に生るる道理あるべからず。
しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。この仏因仏果においては、他力より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきに あらず、また撥無すべきにあらず。
と仰っています。
因果の道理にしたがえば、凡夫は死後に三悪道に堕ちるしかなく、報土に往くことなどあり得ないことになります。なぜなら阿弥陀仏の本願を信じたと言っても、悪因は悪果にしかなりません。もしそうなら、本願も釈尊の教えられた浄土の教えも嘘になります。
したがいまして、阿弥陀仏の救いというのは、釈尊の聖道門の教えからは、その例がない全く異なった道理になります。もし因果の道理の通りであるなら、阿弥陀仏、釈尊、諸仏方がご苦労なされて教えられた他力の教えが無駄になります。この道理は、阿弥陀仏の願行の因により阿弥陀仏を仏に成す果であり、衆生の側から言えば、阿弥陀仏の願行の因によって、衆生が往生成仏する果となるのです。
この根本にあるのが回向の考え方です。自因が自果に限らず、他果にもなる、つまり利益を自分以外の人にも与えることができるという考え方です。
以上から、因果の道理を聞いて信じることは、この回向を否定することでありますから、「仏智の不思議をうたがふ」ことになり、因果の道理に反する回向の話を聞いて疑いなく信じたことが他力の信心になるのです。
「因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざる」状況に押し込んでいるのが、高森顕徹会長なのです。
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