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2019年12月

2019年12月22日 (日)

最近の親鸞会との法論2

因果の道理について、親鸞聖人は『正像末和讃』誡疑讃にて次のように仰っています。

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

など他にもありますが、「仏智の不思議をうたがふ」とは「罪福信ずる」こととされています。
罪福信ずる」とは「自業自得の道理」でもあり、自分に起きる禍福は自分に因があるというものです。
これと阿弥陀仏の救いとは相いれません。なぜなら、衆生が往生し成仏する果の因は、すべて阿弥陀仏の因であるからです。それ以外にはありません。
宿善を厚くして救われる、というような理屈ですと、それは衆生に因があることになります。

『教行信証』信巻に、

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

と仰っていますが、行も信も阿弥陀仏から回向されたもので、その阿弥陀仏から回向された行と信を因として往生成仏するのですから、阿弥陀仏の回向された行と信以外には因はないのです。

これは聖道門では考えられない道理になります。
それで覚如上人は『改邪鈔』に

もしいまの凡夫所犯の現因によりて当来の果を感ずべくんば、三悪道に堕在すべし。人中・天上の果報なほもつて五戒・十善まつたからずは、いかでか望みをかけんや。いかにいはんや、出過三界の無漏無生の報国・報土に生るる道理あるべからず。
しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。この仏因仏果においては、他力より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきに あらず、また撥無すべきにあらず。

と仰っています。
因果の道理にしたがえば、凡夫は死後に三悪道に堕ちるしかなく、報土に往くことなどあり得ないことになります。なぜなら阿弥陀仏の本願を信じたと言っても、悪因は悪果にしかなりません。もしそうなら、本願も釈尊の教えられた浄土の教えも嘘になります。
したがいまして、阿弥陀仏の救いというのは、釈尊の聖道門の教えからは、その例がない全く異なった道理になります。もし因果の道理の通りであるなら、阿弥陀仏、釈尊、諸仏方がご苦労なされて教えられた他力の教えが無駄になります。この道理は、阿弥陀仏の願行の因により阿弥陀仏を仏に成す果であり、衆生の側から言えば、阿弥陀仏の願行の因によって、衆生が往生成仏する果となるのです。

この根本にあるのが回向の考え方です。自因が自果に限らず、他果にもなる、つまり利益を自分以外の人にも与えることができるという考え方です。

以上から、因果の道理を聞いて信じることは、この回向を否定することでありますから、「仏智の不思議をうたがふ」ことになり、因果の道理に反する回向の話を聞いて疑いなく信じたことが他力の信心になるのです。

因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざる」状況に押し込んでいるのが、高森顕徹会長なのです。

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2019年12月15日 (日)

最近の親鸞会との法論1

親鸞会では、講師部員に向けて高森顕徹会長による法論禁止令が長らく出されていまして、退会者との法論を避け続けてきました。しかし、多数の退会者が出そうな状況や大きな行事前の誘いのために、思わず法論をしてしまうことがあります。
今年もそんなことが何回かありましたので、一部を紹介します。
ただし、講師部員の主張をそのまま掲載すると、顧問弁護士から著作権侵害等で訴えられる可能性があり、直接的な文章は紹介しませんので、その点はご了解ください。

まずは、因果の道理についてです。

因果の道理を否定したら、仏教の否定になり、阿弥陀仏の救いもないことになります。

というようなことを言ってきました。
これに対する反論は実に簡単にできます。

ボランティアをする人で、この善が往生のために、もしくは信仰のためにプラスになると思うことは、普通はありません。浄土往生を目指していても、親孝行と往生とを関連付けることも普通はありません。つまり、世間的な因果の道理をどれだけ信じようとも、それと往生とが無関係なら、何の問題もありません。問題となるのは、世間的な善、そして仏教で教える善を往生と関連付けること、つまり因果の道理と往生とは密接不利な関係にあるという考えです。

以下の蓮如上人のお言葉が最も判りやすいでしょう。
『御文章』5帖目13通

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

信前の人も信後の人も心得るべきことは、「王法を本とし」(国の法律を守り)、「仁義をもつて本とし」(倫理道徳の善に心がけ)です。一方で「後生のためには」(往生のためには)、「自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして」(仏教で教える善に心を留めない)です。

世間的なこととしては、世間的な因果の道理を信じて、法律を守り、倫理道徳の善をしましょう、だけど、往生のためには仏教で教えられる雑行・雑善は捨てましょう。

こういうことです。
もっと簡潔に言うなら、

世間的な因果の道理は信じるべきですが、仏教で教える因果の道理を信じると往生の妨げになります。

なぜなら、仏教で教えられる因果の道理と阿弥陀仏の救いとは相反するからです。

僅かこれだけで、講師部員は沈黙しました。

この後、まだ説明しようと思っていたのですが、あっけなく終わりました。
一応、ここではもう少し説明しておきます。

仏教で教えられる因果の道理と阿弥陀仏の救いが相反することを最も端的に表現されているのが、蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』にあります。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。

判りやすく訳すと、

仏教で教えられる因果の道理からは、往生しようと思うならば、衆生一人一人が願を発して、衆生一人一人が行を励むことになるはずですが、その願と行を法蔵菩薩が衆生の代わりになされて、その果は衆生が受けることになります。これは世間の因果の道理、仏教の因果の道理をはるかに超えて異なっているのです。

ということです。世間の因果の道理、仏教で教えられる因果の道理と、阿弥陀仏の救いとは全く別なのです。つまり、仏教の因果の道理を信じることが阿弥陀仏の救いを疑うことになるのです。

なぜなら、我々が往生するという果に対する因は、阿弥陀仏の願と行だからです。我々は何一つしなくても良いように、阿弥陀仏がすべての因そして縁も用意して下されているのですから、自因自果、自業自得の道理とは、相反するからです。

したがいまして、自力、疑情について親鸞聖人は「罪福信ずる心」という言い方を多くされているのです。
親鸞会でも知っている御文ならば、『教行信証』化土巻の

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

です。

この他にも因果の道理に関する御文はたくさんありますが、それは次回に紹介します。

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