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2019年11月30日 (土)

親鸞聖人の仰る信心とは3

真実の信心は、前回も述べた通り「信楽」であり「深心(深信)」です。
その内容を様々な表現で親鸞聖人は仰っていますが、今回は『浄土文類聚鈔』で見てみます。

しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。
度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心はすなはちこれ畢竟平等心なり。この心はすなはちこれ大悲心なり。この心作仏す。この心これ仏なり。

(現代語訳)

そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。 この深心は堅く信じる心、 すなわち堅固深信である。 この堅固深信は真実の徳を持った心、 すなわち真心である。 この真心は金剛のように堅く決して砕かれることのない心、 すなわち金剛心である。 この金剛心はこの上なくすぐれた心、 すなわち無上心である。 この無上心はすなわち淳心・一心・相続心である。 この淳心・一心・相続心は広大な法を受けた喜びの心、 すなわち大慶喜心である。 大慶喜心を得たなら、 この心は、 嘘いつわりで飾り立てることのない淳朴な心となり、 疑うことなくひとすじに信じる心となり、 途切れることなく生涯たもたれる心となる。 この心は大いなるさとりを求める心、 すなわち大菩提心である。 この大菩提心はまことの心、 すなわち真実信心である。 この真実信心は仏になろうと願う心、 すなわち願作仏心である。 この願作仏心はすべてのものを救おうとする心、 すなわち度衆生心である。 この度衆生心はすべてのものを安楽浄土に生れさせる心である。 ^この心は自他にとらわれない平等の真理をさとった心、 すなわち畢竟平等心である。 この心はすべてのものを慈しみ哀れむ心、 すなわち大悲心である。 この心はさとりを開く正しい因であり、 仏のはたらきそのものである。

二河白道の譬えの解説の部分です。
一心」が真実の信心です。18願文の「信楽」にあたる「一心」の言い換えをたくさん出されていますが、図式にすると

信楽
=一心
=深心
=堅固深信
=真心
=金剛心
=無上心
=淳一相続心
=大慶喜心
=三信に順ず
=大菩提心
=真実信心
=願作仏心
=度衆生心
=衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心
=畢竟平等心
=大悲心
=作仏す
=仏なり

となります。
詳しい説明はしませんが、真実の信心とは、最後にある仏のはたらきそのものになります。信心を頂くのと仏に成るのは違います。仏になる種を頂いたことであって、凡夫の間は、種のままです。

ここからもそれが判られると思いますが、他にも『教行信証』信巻に、『定善義』を引かれて

またいはく、「金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり」と。

と仰っています。
金剛」という真実の信心は「無漏の体」であるということです。「無漏」とは「有漏」に対する言葉です。煩悩のない清らかな仏そのもののことです。煩悩具足の凡夫が「無漏」になるのではありません。「無漏」の種を頂くだけで、「有漏」のまま何も変わりません。

ついでに「大慶喜心」も凡夫の心が大きな喜びの心になるのではなく、大きな喜びの種になるだけです。

もちろん真実の信心とは、絶対の幸福ではありません。信心を獲たという喜びはあっても、信心自体が喜びの心ではありません。

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