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2019年11月 6日 (水)

親鸞聖人の仰る往生の道とは7

親鸞聖人の教えは、どうすれば救われるのかとの問いに対して、

信じる1つで救われる
聞く1つで救われる

と答える人は多いでしょう。
これが間違っているというつもりはありませんし、私もその通りだと思います。

ところが、親鸞聖人はこれとは違う言い方をされている箇所があります。前回はその一部を紹介しましたが、それを簡単に言うと、

念仏を称える1つで救われる

これに拒否反応を示す人が意外に多いのは、ある意味、驚きです。
なぜなら、親鸞聖人がそう仰っているのですから、それを拒否する心が理解できません。

たとえば『正信偈』に

弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即のとき必定に入る。

とありますので、「憶念」としかないから、一見念仏は不要だという親鸞聖人のお言葉と捉えがちですが、この元になった龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』を『教行信証』行巻に引かれているところを見ると、

問うていはく、ただこの十仏の名号を聞きて執持して心に在けば、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして、阿惟越致に至ることを得とやせんと。
答へていはく、〈阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得ることかくのごとし〉と。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。
いままさにつぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王仏[乃至その余の仏まします]この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人、われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得、このゆゑにつねに憶念すべしと。

(現代語訳)

問うていう。ただこの十仏の名号を聞いて信じるものは、ついにこの上ないさとりに至る位を得ることができるが、他の仏・菩薩の名号によっても、同じように不退転の位に至ることができるのであろうか。
答えていう。阿弥陀仏などの仏がたや多くの菩薩たちの名号を称えて一心に念じれば、同じように、また不退転の位を得ることができる。阿弥陀仏などの仏がたを、あつく敬い礼拝して、その名号を称えるがよい。
今、詳しく無量寿仏について説こう。世自在王仏をはじめ、その他の仏がたもおられるが、これらの仏がたは、現にすべての清らかな世界において、みな阿弥陀仏の名号を称え、その本願を念じておられることは、以下の通りである。すなわち、阿弥陀仏の本願には、<もし人が、わたしの名を称え、他力の信心を得るなら、ただちに必定の位に入り、この上ないさとりを得ることができる>と誓われている。だから、常に阿弥陀仏を念じるがよい。

となっています。信心と念仏がセットになっています。
それでも捻くれた解釈をするなら、
われを念じ名を称しておのづから帰すれば」「恭敬礼拝し、その名号を称すべし」は、信心の後に念仏だから、この念仏は救われた後の報恩の念仏だと言えないことはないです。
ところが、「名を称し一心に念ずれば」「名を称し阿弥陀仏の本願を憶念すること」は、念仏が先にあって、その後に信心ですから、念仏が救いに関係があることが大前提です。

このところを親鸞聖人は『高僧和讃』で

不退のくらゐすみやかに
 えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して
 弥陀の名号称すべし

とも仰っています。簡単に言うと、救われたいと思うなら、信心と念仏を揃えなさい、となります。

それでも納得しない人には、『正信偈』の

極重の悪人はただ仏を称すべし。

が最も明快でしょう。
この元はやはり行巻に『往生要集』を引かれて、

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

とあり、極重の悪人には念仏以外に方便はなく、唯念仏1つで極楽に生まれることができる、ということです。ここには信心を意味する語はありませんので、どんなに捻くれた解釈をしても、念仏1つで救われる、の意味にしかならないのです。
ただし、捻くれを通り越して、詭弁を弄するのが親鸞会です。

極重の悪人と知らされた人には、方便は必要なく、報謝の念仏を称えて極楽に生まれることができる

文法も文脈もへったくれもないのですが、『観無量寿経』に説かれている内容を知れば、滅茶苦茶な理屈とすぐに判ります。

次回、詳しく解説します。

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