親鸞聖人の仰る往生の道とは8
前回の
極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得
についてですが、まず「極重の悪人」という言葉があるとということは、「軽度の悪人」もあるということです。つまりは、悪人には、軽度から重度、最悪の極重と種類があるということです。
悪人とは、九品の下品のことですが、下品にも三種類ありまして、下品上生、下品中生、下品下生と分かれています。
このことについて『玄義分』には、
次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。 なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。
(現代語訳)
つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗を始めて学ぶ十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
と定義されています。「仏法・世俗の二種の善根あることなし」ということは、過去世においても現在世においても仏法上の善はもちろんのこと、世間的な倫理道徳の善もしてこなかった人のことです。仏法を聞いたこともないし、布施もしてこなかったのですから、高森顕徹会長の言う宿善論も間違いだし、善の勧めなど無関係です。
これを踏まえた上で、下品上生については、
ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。
下品下生については、
これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。
と明確に区別されています。
ここまでくれば説明するまでもないでしょうが、「極重の悪人」とは、下品下生のことです。
そこでまずは、『観無量寿経』の下品下生を見てみると、
下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。(現代語訳)
次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、< もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい > と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。
とあります。
これを善導大師は『玄義分』で簡略に
これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。 命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず
(現代語訳)
これらの衆生は、善くない業である五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
難しい内容ではありませんので、理解は簡単だと思います。
「仏法・世俗の二種の善根あることなし」ですから、臨終になるまで善はしてこなかった悪人が、臨終になって初めて仏法を聞こうという心が起きて、善知識から初めて仏法を聞いて、その善知識から勧められたことは、善ではなく、念仏だけだということです。そして、念仏だけを称えてその念仏によって往生する、ということです。
これが前回の
極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得
の意味です。
善導大師も源信僧都も親鸞聖人も、往生に「他の方便なし」で善は無関係だということを断言されているのです。往生の条件は唯一念仏だけだということです。
もう一つ加えるなら、全人類が「極重の悪人」ではないし、「極重の悪人」と知らされる必要があるとは善導大師も源信僧都も親鸞聖人も仰っていないということです。
この単純明快な教えを、宿善論だとか三願転入だとか信じられない詭弁と超屁理屈で複雑怪奇で難透難解な教えにしたのが高森会長です。
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