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2019年11月20日 (水)

親鸞聖人の仰る信心とは1

親鸞聖人が信心を強調されたのは、今更言うまでもないことですが、問題は親鸞聖人が信心をどのように説明されているかです。親鸞聖人が仰る信心の内容を間違って理解している人が、意外と多いです。

そこで、親鸞聖人の信心の説明を紹介しておきます。

信心とは、18願にある至心・信楽・欲生我国の三心のことです。
これは以前に紹介した『観無量寿経』にある至誠心・深心・回向発願心と重なっているところがあり、善導大師が『散善義』で至誠心・深心・回向発願心解釈をされたことろを自力と他力に分けられて、その他力信心の部分を親鸞聖人が『教行信証』信巻に引かれています。
この善導大師の至誠心・深心・回向発願心の解釈を基に、親鸞聖人は至心・信楽・欲生我国の解釈をなされています。

話がややこしくなりましたが、要するに親鸞聖人の信心の解釈の大半が、善導大師の信心の解釈を基としているということです。

判りやすい例を挙げると18願の三心(至心・信楽・欲生我国)の中心は信楽ですが、その信楽釈で親鸞聖人はこのように仰っています。

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

(現代語訳)

ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。
如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

親鸞会の会員でも半分は馴染みのあるお言葉でしょう。
この基となっているのが、善導大師の至誠心釈です。一部、親鸞聖人の読み替えがありますが、その読み替えの方を示しておきます。

三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。
もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。

一目瞭然でしょう。
ちなみに、この直前がこれまた親鸞聖人の読み替えで親鸞会でも有名な

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。

です。

親鸞聖人の信楽釈を簡単に言うなら、

必死になって善をしてもその程度の善では報土に往くことはできないから、法蔵菩薩のご修行なされた際の真実心が報土往生の因であり、その真実心を我々が頂いて他力の信心となって報土往生できるのだ

ということです。
このことだけでも理解できれば、往生のために何かをする必要があるかどうか判るはずです。答えは、

何もする必要がない

です。

ならば、念仏も称える必要がないし、聞く必要もない

と短絡的に考える人がいますが、それは親鸞会思考が強く残っているからでしょう。

今回は信心の内容のさわりのところだけ説明しましたので、信心と念仏、聴聞との関係は次回に述べます。

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