親鸞聖人の仰る往生の道とは6
前回、『安楽集』にある、釈尊が浄飯王に念仏三昧のみを勧められた『観仏三昧経』の内容を親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれていることを紹介しました。
同じ内容が、同じく『教行信証』行巻にまだあります。
『浄土五会念仏略法事儀讃』にいはく、「それ如来、教を設けたまふに、広略、根に随ふ。つひに実相に帰せしめんとなり。真の無生を得んものには、たれかよくこれを与へんや。しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもつて、焉に仏、願力を事として衆生を度したまふ。{乃至}
如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、〈王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや〉と。{乃至}
(現代語訳)
『五会法事讃』にいわれている。
「そもそも、如来が教えを説かれるときには、その相手に応じて、詳細に説かれたり簡略に説かれたりする。それは、まことのさとりにたどりつかせるためであり、不生不滅の真実のさとりを得たものに、これらの教えを与える必要はない。この念仏三昧は、真実でこの上なく奥深い法門である。阿弥陀仏の四十八願成就の名号をもって、その本願のはたらきにより衆生を救われるのである。(中略)さて、如来は常に三昧の中にあって、詳しく教えを説き明かされるのである。釈尊は父である浄飯王に、<王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが、凡夫にどうしてできましょうか>と仰せになる。(中略)
『五会法事讃』は、善導大師の生れかわり「後善導」と称された法照(五会法師)が著わされた書ですが、親鸞聖人は、『五会法事讃』を善導大師の書並みに扱われています。
この中で釈尊が浄飯王に仰ったお言葉が、「王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや」です。簡単に言うなら、善はできないから、念仏だけ称えなさい、ということです。
くどいようですが、浄飯王は信前です。善を勧められることなく、念仏だけを勧められたということです。
信前に念仏を勧めるのは間違いだという人が親鸞会をはじめ、時々ありますが、釈尊は信前の浄飯王に念仏を勧められていて、しかも親鸞聖人は、二度もそのことを根本聖典である『教行信証』に紹介されています。
この事実を無視して、「信前の人に念仏を称えるように勧めるのは間違いだ」という人は、真宗門徒でもなければ仏教徒でもないでしょう。聖道門でさえ、念仏を勧めます。
なお、親鸞聖人はこの後も『五会法事讃』を長く引かれているのですが、長いのでここで全文は掲載しませんが、一部だけ抜粋しておきます。
ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。
念仏成仏はこれ真宗なり。
ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。
借問ふ、なにによりてかかしこに生ずることを得ん。報へていはく、念仏おのづから功を成ず。
一念弥陀の号を称得して、かしこに至れば、還りて法性身に同ず
往生するのに念仏を称えることが条件となっています。それどころか、成仏の条件が念仏です。もちろん、信心が伴っての話ですが、往生に念仏が不要という人は「ただ名を称するのみありて、みな往くことを得」が読めないのでしょう。
『唯信鈔文意』でも「ただ名を称するのみありて、みな往くことを得」を親鸞聖人は
ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり
と解釈なされています。
「ただ名を称するのみありて、みな往くことを得」は親鸞聖人のお言葉ではない、という強弁は言えても、「ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり」は親鸞聖人の直のお言葉ですから、それも使えませんし、『教行信証』に『五会法事讃』を引かれている時点で、親鸞聖人の教えそのものです。
親鸞聖人の仰る往生の道とは、
ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり
と言えるのです。様々な事情で念仏が称えられないことがあっても結果として往生できるということと、念仏を称えられる人が念仏を称えることを拒否しても往生できる教えだということとは全く違います。「ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり」と聞いて念仏を敢えて称えないで信心が獲られるか少し考えたら判りそうなものです。
ところが自分が正しいという執着で、信心と念仏との関係が判らないとまた、
信心だけで往生できるのだ
聞くだけで往生できるのだ
と反論する人もあるでしょうが、そういう人は真宗とは別に新宗を名乗ったら宜しいかと思います。
| 固定リンク
「唯念仏」カテゴリの記事
- 親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義3(2021.03.05)
- 親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義1(2021.02.18)
- 三願転入に対する親鸞会の妄想9(2020.10.22)
- 念仏の信心も信心正因称名報恩の意味も知らない相伝もなきしらぬくせ法門(2020.07.19)
- 聖教を読む前に日本語のお勉強をして「念仏往生の願」の意味を知りましょう(2020.07.03)
コメント
ショウさんは、念仏軽視の高森さんとどこが違うのかわからない。
親鸞会時代の失敗が何も活かされていない。というか、まだ会員なの?
投稿: サウザー | 2019年11月 2日 (土) 21時51分
なんまんだぶ
今生に生を受けたのは「念仏一つであった」と分からせてもらいました。
ここまで来るのには、それなりに紆余曲折ありました。
一番はっきりしなかったのは「信前の念仏」です。
そこのところを今回明瞭にご説明されています。ありがたいです。
他力の信心は「無所得性」である、と教えられており
信心獲得、とか、明らかに知られたり、とか別世界に出るのではないと知らされたからです。
良寛和尚の
”他力とは、のなかに立てる竹なりや、より触らぬを他力とぞいう”
なんかもその世界を垣間見る一つなんて思っています。
なんまんだぶ
投稿: 念仏しかない人 | 2019年11月 3日 (日) 08時39分