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2019年11月

2019年11月30日 (土)

親鸞聖人の仰る信心とは3

真実の信心は、前回も述べた通り「信楽」であり「深心(深信)」です。
その内容を様々な表現で親鸞聖人は仰っていますが、今回は『浄土文類聚鈔』で見てみます。

しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。
度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心はすなはちこれ畢竟平等心なり。この心はすなはちこれ大悲心なり。この心作仏す。この心これ仏なり。

(現代語訳)

そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。 この深心は堅く信じる心、 すなわち堅固深信である。 この堅固深信は真実の徳を持った心、 すなわち真心である。 この真心は金剛のように堅く決して砕かれることのない心、 すなわち金剛心である。 この金剛心はこの上なくすぐれた心、 すなわち無上心である。 この無上心はすなわち淳心・一心・相続心である。 この淳心・一心・相続心は広大な法を受けた喜びの心、 すなわち大慶喜心である。 大慶喜心を得たなら、 この心は、 嘘いつわりで飾り立てることのない淳朴な心となり、 疑うことなくひとすじに信じる心となり、 途切れることなく生涯たもたれる心となる。 この心は大いなるさとりを求める心、 すなわち大菩提心である。 この大菩提心はまことの心、 すなわち真実信心である。 この真実信心は仏になろうと願う心、 すなわち願作仏心である。 この願作仏心はすべてのものを救おうとする心、 すなわち度衆生心である。 この度衆生心はすべてのものを安楽浄土に生れさせる心である。 ^この心は自他にとらわれない平等の真理をさとった心、 すなわち畢竟平等心である。 この心はすべてのものを慈しみ哀れむ心、 すなわち大悲心である。 この心はさとりを開く正しい因であり、 仏のはたらきそのものである。

二河白道の譬えの解説の部分です。
一心」が真実の信心です。18願文の「信楽」にあたる「一心」の言い換えをたくさん出されていますが、図式にすると

信楽
=一心
=深心
=堅固深信
=真心
=金剛心
=無上心
=淳一相続心
=大慶喜心
=三信に順ず
=大菩提心
=真実信心
=願作仏心
=度衆生心
=衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心
=畢竟平等心
=大悲心
=作仏す
=仏なり

となります。
詳しい説明はしませんが、真実の信心とは、最後にある仏のはたらきそのものになります。信心を頂くのと仏に成るのは違います。仏になる種を頂いたことであって、凡夫の間は、種のままです。

ここからもそれが判られると思いますが、他にも『教行信証』信巻に、『定善義』を引かれて

またいはく、「金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり」と。

と仰っています。
金剛」という真実の信心は「無漏の体」であるということです。「無漏」とは「有漏」に対する言葉です。煩悩のない清らかな仏そのもののことです。煩悩具足の凡夫が「無漏」になるのではありません。「無漏」の種を頂くだけで、「有漏」のまま何も変わりません。

ついでに「大慶喜心」も凡夫の心が大きな喜びの心になるのではなく、大きな喜びの種になるだけです。

もちろん真実の信心とは、絶対の幸福ではありません。信心を獲たという喜びはあっても、信心自体が喜びの心ではありません。

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2019年11月24日 (日)

親鸞聖人の仰る信心とは2

信心の説明を親鸞会の会員に求めたならば、二種深信を出してくることが多いでしょう。また、「信楽」という人もあると思います。それ自体は間違いではありません。

善導大師は『往生礼讃』に

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

と仰っています。「深心(深信)」が「真実の信心なり」です。

ところが、この善導大師の二種深信の表現は親鸞会では聞いたことがないでしょう。高森顕徹会長が知らないのですから、当然なことです。

機の深信は「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し」とあります。注目点は、無善根ではなく「善根薄少」です。善ができないではなく、善が少ない、その結果として「三界に流転して火宅を出でず」です。

法の深信については、「いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して」です。「名号を称すること」とは、文字通り称名念仏のことです。念仏を称えることが、「下十声・一声等に至るに及ぶまで」ですので、10回の念仏、あるいは1回の念仏を称えただけでも、「さだめて往生を得」なのです。法の深信はつまり、念仏を1回でも称えたならば、間違いなく往生できると深信することです。

善導大師が仰る信心とは、凡夫の修する程度の善では迷いの世界から出ることはできず、念仏を称えることでのみ往生できると深信することです。

親鸞聖人は、この善導大師のお言葉を受けられて、『教行信証』の行巻と信巻の二か所で、この二種深信を紹介されているのですが、実は、若干の違いがあります。

機の深信の方は同じですが、法の深信が変わっています。

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

違いは、「一声」が「」に変わっています。これは親鸞聖人が改竄されたのではなく、『往生礼讃』を引用したであろう『集諸経礼懺儀』という書を親鸞聖人が引かれるという手法をとられています。

親鸞聖人がなぜこのようなややこしいことをされたのかと言いますと、「」に拘られたからです。とはいえ、念仏とは関係のない「」ではなく、「名号を称すること」の「」ですから、念仏抜きの信心ということではありません。

その証拠は、親鸞会の会員が信心のもう一つの説明として出す「信楽」からも言えます。

『教行信証』信巻には、

この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。

とも仰っていますので、念仏往生の願から出た信心が「信楽」であり、言い換えると、念仏を称える者を往生させると誓われた18願の信心が「信楽」であるからです。
なお、念のために「念仏往生」という言葉についての説明を親鸞聖人のお言葉で示すなら、『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

にあるように、
念仏往生
名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる

です。

さて、ここで前回の信楽釈を再度見ると、

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。

この前半が機の深信であり、後半が法の深信になります。
前半は凡夫の修する程度の善では迷いの世界をできることはできないという機の深信そのままです。
後半が、念仏を称える者を往生させると誓いを立てられ、その誓いを成就されるために「三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなき」「如来の大悲心」でご修行なされ、その「無碍広大の浄信」を衆生に与えて下されるということです。ただし、どのような方法で「無碍広大の浄信」を衆生に与えられるかまではここにはありませんが、念仏往生の願の信楽ですので、念仏を称えさせて、もしくは念仏往生と聞かせて、与えるということですので、表現は違えども『集諸経礼懺儀』の法の深信です。

長くなったので、まとめると、

真実の信心
=信楽
=二種深信
=凡夫の修する程度の善では迷いの世界をできることはできない、ただ念仏を称えるだけ、もしくは念仏往生と聞くだけで間違いなく往生できると深信すること

言い換えると、善は往生には不要で、必要なのは念仏往生と深く信じることだ、というのが親鸞聖人の仰る信心であり、宿世の善根とか六度万行の実践とか、往生とは最初から最後まで何の関係もないのです。

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2019年11月20日 (水)

親鸞聖人の仰る信心とは1

親鸞聖人が信心を強調されたのは、今更言うまでもないことですが、問題は親鸞聖人が信心をどのように説明されているかです。親鸞聖人が仰る信心の内容を間違って理解している人が、意外と多いです。

そこで、親鸞聖人の信心の説明を紹介しておきます。

信心とは、18願にある至心・信楽・欲生我国の三心のことです。
これは以前に紹介した『観無量寿経』にある至誠心・深心・回向発願心と重なっているところがあり、善導大師が『散善義』で至誠心・深心・回向発願心解釈をされたことろを自力と他力に分けられて、その他力信心の部分を親鸞聖人が『教行信証』信巻に引かれています。
この善導大師の至誠心・深心・回向発願心の解釈を基に、親鸞聖人は至心・信楽・欲生我国の解釈をなされています。

話がややこしくなりましたが、要するに親鸞聖人の信心の解釈の大半が、善導大師の信心の解釈を基としているということです。

判りやすい例を挙げると18願の三心(至心・信楽・欲生我国)の中心は信楽ですが、その信楽釈で親鸞聖人はこのように仰っています。

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

(現代語訳)

ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。
如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

親鸞会の会員でも半分は馴染みのあるお言葉でしょう。
この基となっているのが、善導大師の至誠心釈です。一部、親鸞聖人の読み替えがありますが、その読み替えの方を示しておきます。

三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。
もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。

一目瞭然でしょう。
ちなみに、この直前がこれまた親鸞聖人の読み替えで親鸞会でも有名な

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。

です。

親鸞聖人の信楽釈を簡単に言うなら、

必死になって善をしてもその程度の善では報土に往くことはできないから、法蔵菩薩のご修行なされた際の真実心が報土往生の因であり、その真実心を我々が頂いて他力の信心となって報土往生できるのだ

ということです。
このことだけでも理解できれば、往生のために何かをする必要があるかどうか判るはずです。答えは、

何もする必要がない

です。

ならば、念仏も称える必要がないし、聞く必要もない

と短絡的に考える人がいますが、それは親鸞会思考が強く残っているからでしょう。

今回は信心の内容のさわりのところだけ説明しましたので、信心と念仏、聴聞との関係は次回に述べます。

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2019年11月10日 (日)

親鸞聖人の仰る往生の道とは8

前回の

極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得

についてですが、まず「極重の悪人」という言葉があるとということは、「軽度の悪人」もあるということです。つまりは、悪人には、軽度から重度、最悪の極重と種類があるということです。
悪人とは、九品の下品のことですが、下品にも三種類ありまして、下品上生、下品中生、下品下生と分かれています。
このことについて『玄義分』には、

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。 なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗を始めて学ぶ十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。

と定義されています。「仏法・世俗の二種の善根あることなし」ということは、過去世においても現在世においても仏法上の善はもちろんのこと、世間的な倫理道徳の善もしてこなかった人のことです。仏法を聞いたこともないし、布施もしてこなかったのですから、高森顕徹会長の言う宿善論も間違いだし、善の勧めなど無関係です。
これを踏まえた上で、下品上生については、

ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。

下品下生については、

これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。

と明確に区別されています。

ここまでくれば説明するまでもないでしょうが、「極重の悪人」とは、下品下生のことです。

そこでまずは、『観無量寿経』の下品下生を見てみると、

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、< もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい > と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

とあります。
これを善導大師は『玄義分』で簡略に

これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。 命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず

(現代語訳)

これらの衆生は、善くない業である五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。

難しい内容ではありませんので、理解は簡単だと思います。
仏法・世俗の二種の善根あることなし」ですから、臨終になるまで善はしてこなかった悪人が、臨終になって初めて仏法を聞こうという心が起きて、善知識から初めて仏法を聞いて、その善知識から勧められたことは、善ではなく、念仏だけだということです。そして、念仏だけを称えてその念仏によって往生する、ということです。

これが前回の

極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得

の意味です。

善導大師も源信僧都も親鸞聖人も、往生に「他の方便なし」で善は無関係だということを断言されているのです。往生の条件は唯一念仏だけだということです。
もう一つ加えるなら、全人類が「極重の悪人」ではないし、「極重の悪人」と知らされる必要があるとは善導大師も源信僧都も親鸞聖人も仰っていないということです。

この単純明快な教えを、宿善論だとか三願転入だとか信じられない詭弁と超屁理屈で複雑怪奇で難透難解な教えにしたのが高森会長です。

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2019年11月 6日 (水)

親鸞聖人の仰る往生の道とは7

親鸞聖人の教えは、どうすれば救われるのかとの問いに対して、

信じる1つで救われる
聞く1つで救われる

と答える人は多いでしょう。
これが間違っているというつもりはありませんし、私もその通りだと思います。

ところが、親鸞聖人はこれとは違う言い方をされている箇所があります。前回はその一部を紹介しましたが、それを簡単に言うと、

念仏を称える1つで救われる

これに拒否反応を示す人が意外に多いのは、ある意味、驚きです。
なぜなら、親鸞聖人がそう仰っているのですから、それを拒否する心が理解できません。

たとえば『正信偈』に

弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即のとき必定に入る。

とありますので、「憶念」としかないから、一見念仏は不要だという親鸞聖人のお言葉と捉えがちですが、この元になった龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』を『教行信証』行巻に引かれているところを見ると、

問うていはく、ただこの十仏の名号を聞きて執持して心に在けば、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして、阿惟越致に至ることを得とやせんと。
答へていはく、〈阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得ることかくのごとし〉と。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。
いままさにつぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王仏[乃至その余の仏まします]この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人、われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得、このゆゑにつねに憶念すべしと。

(現代語訳)

問うていう。ただこの十仏の名号を聞いて信じるものは、ついにこの上ないさとりに至る位を得ることができるが、他の仏・菩薩の名号によっても、同じように不退転の位に至ることができるのであろうか。
答えていう。阿弥陀仏などの仏がたや多くの菩薩たちの名号を称えて一心に念じれば、同じように、また不退転の位を得ることができる。阿弥陀仏などの仏がたを、あつく敬い礼拝して、その名号を称えるがよい。
今、詳しく無量寿仏について説こう。世自在王仏をはじめ、その他の仏がたもおられるが、これらの仏がたは、現にすべての清らかな世界において、みな阿弥陀仏の名号を称え、その本願を念じておられることは、以下の通りである。すなわち、阿弥陀仏の本願には、<もし人が、わたしの名を称え、他力の信心を得るなら、ただちに必定の位に入り、この上ないさとりを得ることができる>と誓われている。だから、常に阿弥陀仏を念じるがよい。

となっています。信心と念仏がセットになっています。
それでも捻くれた解釈をするなら、
われを念じ名を称しておのづから帰すれば」「恭敬礼拝し、その名号を称すべし」は、信心の後に念仏だから、この念仏は救われた後の報恩の念仏だと言えないことはないです。
ところが、「名を称し一心に念ずれば」「名を称し阿弥陀仏の本願を憶念すること」は、念仏が先にあって、その後に信心ですから、念仏が救いに関係があることが大前提です。

このところを親鸞聖人は『高僧和讃』で

不退のくらゐすみやかに
 えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して
 弥陀の名号称すべし

とも仰っています。簡単に言うと、救われたいと思うなら、信心と念仏を揃えなさい、となります。

それでも納得しない人には、『正信偈』の

極重の悪人はただ仏を称すべし。

が最も明快でしょう。
この元はやはり行巻に『往生要集』を引かれて、

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

とあり、極重の悪人には念仏以外に方便はなく、唯念仏1つで極楽に生まれることができる、ということです。ここには信心を意味する語はありませんので、どんなに捻くれた解釈をしても、念仏1つで救われる、の意味にしかならないのです。
ただし、捻くれを通り越して、詭弁を弄するのが親鸞会です。

極重の悪人と知らされた人には、方便は必要なく、報謝の念仏を称えて極楽に生まれることができる

文法も文脈もへったくれもないのですが、『観無量寿経』に説かれている内容を知れば、滅茶苦茶な理屈とすぐに判ります。

次回、詳しく解説します。

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2019年11月 2日 (土)

親鸞聖人の仰る往生の道とは6

前回、『安楽集』にある、釈尊が浄飯王に念仏三昧のみを勧められた『観仏三昧経』の内容を親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれていることを紹介しました。
同じ内容が、同じく『教行信証』行巻にまだあります。

『浄土五会念仏略法事儀讃』にいはく、「それ如来、教を設けたまふに、広略、根に随ふ。つひに実相に帰せしめんとなり。真の無生を得んものには、たれかよくこれを与へんや。しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもつて、焉に仏、願力を事として衆生を度したまふ。{乃至}

如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、〈王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや〉と。{乃至}

(現代語訳)

『五会法事讃』にいわれている。
 「そもそも、如来が教えを説かれるときには、その相手に応じて、詳細に説かれたり簡略に説かれたりする。それは、まことのさとりにたどりつかせるためであり、不生不滅の真実のさとりを得たものに、これらの教えを与える必要はない。この念仏三昧は、真実でこの上なく奥深い法門である。阿弥陀仏の四十八願成就の名号をもって、その本願のはたらきにより衆生を救われるのである。(中略)

さて、如来は常に三昧の中にあって、詳しく教えを説き明かされるのである。釈尊は父である浄飯王に、<王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが、凡夫にどうしてできましょうか>と仰せになる。(中略)

『五会法事讃』は、善導大師の生れかわり「後善導」と称された法照(五会法師)が著わされた書ですが、親鸞聖人は、『五会法事讃』を善導大師の書並みに扱われています。

この中で釈尊が浄飯王に仰ったお言葉が、「王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや」です。簡単に言うなら、善はできないから、念仏だけ称えなさい、ということです。
くどいようですが、浄飯王は信前です。善を勧められることなく、念仏だけを勧められたということです。

信前に念仏を勧めるのは間違いだという人が親鸞会をはじめ、時々ありますが、釈尊は信前の浄飯王に念仏を勧められていて、しかも親鸞聖人は、二度もそのことを根本聖典である『教行信証』に紹介されています。

この事実を無視して、「信前の人に念仏を称えるように勧めるのは間違いだ」という人は、真宗門徒でもなければ仏教徒でもないでしょう。聖道門でさえ、念仏を勧めます。

なお、親鸞聖人はこの後も『五会法事讃』を長く引かれているのですが、長いのでここで全文は掲載しませんが、一部だけ抜粋しておきます。

ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。

念仏成仏はこれ真宗なり。

ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。

借問ふ、なにによりてかかしこに生ずることを得ん。報へていはく、念仏おのづから功を成ず。

一念弥陀の号を称得して、かしこに至れば、還りて法性身に同ず

往生するのに念仏を称えることが条件となっています。それどころか、成仏の条件が念仏です。もちろん、信心が伴っての話ですが、往生に念仏が不要という人は「ただ名を称するのみありて、みな往くことを得」が読めないのでしょう。

唯信鈔文意』でも「ただ名を称するのみありて、みな往くことを得」を親鸞聖人は

ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり

と解釈なされています。
ただ名を称するのみありて、みな往くことを得」は親鸞聖人のお言葉ではない、という強弁は言えても、「ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり」は親鸞聖人の直のお言葉ですから、それも使えませんし、『教行信証』に『五会法事讃』を引かれている時点で、親鸞聖人の教えそのものです。

親鸞聖人の仰る往生の道とは、

ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり

と言えるのです。様々な事情で念仏が称えられないことがあっても結果として往生できるということと、念仏を称えられる人が念仏を称えることを拒否しても往生できる教えだということとは全く違います。「ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり」と聞いて念仏を敢えて称えないで信心が獲られるか少し考えたら判りそうなものです。

ところが自分が正しいという執着で、信心と念仏との関係が判らないとまた、

信心だけで往生できるのだ
聞くだけで往生できるのだ

と反論する人もあるでしょうが、そういう人は真宗とは別に新宗を名乗ったら宜しいかと思います。

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