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2019年10月20日 (日)

親鸞聖人の仰る往生の道とは2

前回の続きです。

『観無量寿経』の上品上生の往生について、行福という善と三心(至誠心・深心・回向発願心)の2つの条件が挙げられています。この三心を善導大師は『散善義』の中で非常に詳しく解釈なされています。

繰り返しますが、三心については上品上生のところにあります。
上品上生の機について善導大師は

大乗を修学する上善の凡夫人なり。

と仰っています。聖道門の学僧が菩薩と解釈したのを完全否定されて、凡夫だと断言されています。
三心の最初の至誠心には、親鸞会でも有名な「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」があります。前後を含めて紹介すると、

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。
この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。

外に賢善精進の相を現じ」が何を意味しているかは、上品上生を理解すれば容易に判ります。くどいようですが、上品上生の機は行福のできる「上善の凡夫人」です。つまり、行福を修することが「外に賢善精進の相を現じ」であり、上品上生の機の条件です。
行福を修することが前提で、たとえ行福を修していても、内が虚仮では、「雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。」と仰っています。
更には、このような内が虚仮で修する行福では、「かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。」と断言されています。行福のできる「上善の凡夫人」ではあっても、内が虚仮であっては、往生できないという善導大師の解釈です。
なぜ往生できないのかの理由が次にあります。

まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。

阿弥陀仏は法蔵菩薩の時に「真実心」で菩薩の行を行じられたのだから、法蔵菩薩と同じ「真実心」でなければ、阿弥陀仏の浄土に往くことはできないという理屈です。

簡単に言うと、難しい善のできる凡夫であっても、法蔵菩薩と同じ「真実心」で善を修しなければ往生できない、ということです。

ここまでくればお判りかと思いますが、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」は、善を勧められたお言葉ではなく、「真実心」を勧められたお言葉なのです。

問題は法蔵菩薩と同じ「真実心」ですが、普通に考えると、法蔵菩薩と同じ「真実心」で善を修することができるなら、その人は凡夫ではなく、菩薩か仏です。

善導大師は、上品上生の機とは、菩薩ではなく「上善の凡夫」だと仰りながら、菩薩以上の「真実心」になるように勧められたことになり、完全な矛盾ですので、この「真実心」は自力ではないことになります。つまり、阿弥陀仏から頂く他力の信心であると解釈すべきことになります。

それで親鸞聖人が善導大師の「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」を「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて」と読み替えられて、善導大師の御心を明確にされたのです。

なお、善導大師が勧められている行は、同じく『散善義』に

まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもつて比類となすことを得るにあらざることを顕す。

また

上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

と仰っていることからも念仏であることは周知の事実です。一応説明しますと、念仏は雑善とは比較にはならないし、阿弥陀仏の本願にはただ1つ念仏だけが勧められているということです。

まとめると、善導大師の「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」は、「外に賢善精進の相を現じ」ることを勧められたのではなく、「外に賢善精進の相を現じ」ていても阿弥陀仏から「真実心」を頂かなければ往生できないことを教えられたものであり、それを親鸞聖人が更に判りやすく言い換えられて解釈された、ということです。そして善導大師も親鸞聖人も、念仏一つを勧められているのです。

高森顕徹会長のような曲がった解釈は、原典を当たれば簡単に論破できます。

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コメント

2日とも参詣してきました。1日目は因果の通り、2日目は19願に腰を据えた話であり、18願の話はほとんどなかったというのが印象です。
観経安心にほとんどの会員、講師ともに陥っているとおもいます。
しかしその安心も善知識だのみ、組織だのみであることとおもいます。

投稿: a | 2019年10月21日 (月) 11時40分

情報ありがとうございます。
観経安心ならまだましで、こんきょのなんかよくわからないものを信じているのが実態です。

投稿: 飛雲 | 2019年10月22日 (火) 06時50分

昨日、二種深心、念仏についての座談会が仏法讃嘆に残った人たち向けに急遽ありまして、全国にビデオ配信されました
会長は海外の人がたくさんやってきたので、機嫌よいみたいです。
ギネス認定もうれしいんでしょうね

投稿: a | 2019年10月22日 (火) 15時23分

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