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2019年10月22日 (火)

親鸞聖人の仰る往生の道とは3

『観無量寿経』上品上生のところに、行福と共に三心(至誠心・深心・回向発願心)が説かれていますが、三心の最初の至誠心は、法蔵菩薩と同じ「真実心」である、と善導大師が解釈されていることを前回述べました。

この至誠心の次が深心です。深心について善導大師は『散善義』で、

「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。

と仰って、この後にいわゆる二種深信を記されていますが、機の深信である

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

を見ますと、出離できない凡夫であることを深信するとありますので、言い換えると、菩薩になれない凡夫、ということです。

これも前回同様に、法蔵菩薩の「真実心」を自力で発すという意味であるとするなら、完全に矛盾することになります。菩薩になれないと深信したなら、法蔵菩薩と同じ「真実心」を自力で発すことはできないと深信したということです。

更には、上品上生で説かれた行福の1つ「修行六念」について善導大師が解釈なされた後に、

行者等すでに念知しをはりなば、すなはちみづから思念すべし。 わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。 たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

と仰っています。
長いので現代語訳を付けると

行者たちは、 すでにこれを念知し終わったならば、 みずから考えよ。 わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。 その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。 しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

仏や菩薩方のことを念知することで、如何に、我ら凡夫と仏や菩薩方と異なっているかが知らされて、わが身のお粗末さに悲しむばかりだということです。
ここからも、法蔵菩薩と同じ「真実心」に自力ではなれないことを善導大師が仰っていることになりますので、「真実心」は阿弥陀仏から頂くのだと親鸞聖人は教えられたのです。

『観無量寿経』の上品上生の往生とは、行福と三心が条件となっていますので、文字上では行福をして自力で三心を発すことと取れます。しかし、凡夫の実態を知れば、三心は他力でなければ筋が通らなくなりますので、善導大師はこのことを踏まえられて自力と他力の混合で『散善義』を著わされたのですが、親鸞聖人は凡夫の実態をそのまま反映されて、行福を勧められることもなく、他力の三心を勧められたと言えます。

なお、善導大師の解釈なされた三心は、上品上生だけではなく、定善の機にも、上品中生以下にも共通の信心とされていますので、自分が悪人だと思うのであれば、自力の三心を発そうなどとは最初から思わないでしょうし、諸善をしようとも思わないでしょう。

行は念仏、信は他力、これだけを親鸞聖人が教えられたのでありますから、先日の高森顕徹会長の話のように、因果の道理を信じるという行福をする必要があるのかないのかは、明白でしょう。

ちなみに、上品中生の条件の1つが深信因果、上品下生の条件の1つが亦信因果です。つまり、因果の道理を浅くでも信じることができるなら、上品下生以上の機です。悪人ではありませんので、善人になるように勧めているのが高森会長であり、悪人正機の否定です。

理路整然とした親鸞聖人の教えは、支離滅裂・竜頭蛇尾の高森教とは、似て非なる教えです。

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