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2019年10月23日 (水)

親鸞聖人の仰る往生の道とは4

『観無量寿経』の上品上生の往生の条件として、行福と三心(至誠心・深心・回向発願心)が挙げられていて、至誠心と深心についての善導大師の解釈の概要をこれまで述べてきました。

今回は回向発願心についてです。善導大師の回向発願心釈には、二河白道の譬喩がありまして、この譬喩に善の勧めがあるのかないのかという議論があります。至誠心釈・深心釈を踏まえれば、善の勧めがないと普通は考えるでしょうが、行福との関係で善の勧めがあってもおかしくない、という主張もできそうですので、善導大師のお言葉を見てみます。

全文載せると長いので、ポイントだけ紹介しますと、行者が東岸にいる時に、西岸上の人から喚び声が聞こえてきます。

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。
この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。

喚び声を聞いて、心が定まって白道に乗って進んだとあります。「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」は、高森顕徹会長でさえ認める阿弥陀仏の18願文の言い換えです。
18願文を聞いて、直ちに心が定まったのですから、善の勧めが入り込む余地がありません。
実際、善導大師の解説が

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

ですから、善はありません。その証拠が以前にも紹介した

上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

です。定散二善は説かれていても、願意は、「衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」です。

一心に念仏して来なさい

が阿弥陀仏の喚び声であり、それを顕わされたのが二河白道の譬喩です。

善導大師が解説の中で、

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

と仰った一文をもって、

「もろもろの行業を回して」は諸善をしてだ

という人もありますが、「一心に念仏して来なさい」と言われて、「諸善をしてただちに行きます」とは、どんなギャグかと思います。「一心に念仏して来なさい」に対しては、「諸善を捨てて念仏だけに心を定めて行きます」としかなりません。

ですから親鸞聖人も二河白道の譬喩は『教行信証』信巻に引かれて、化土巻では引かれていないのです。
しかも『浄土文類聚鈔』では

「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。

と阿弥陀仏の喚び声を明確に、「一心に念仏して来なさい」と仰っています。

白道」についても同じく『浄土文類聚鈔』で

また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。

と仰っていますので、

白道」=「能生清浄願心」=「凡夫自力の心にあらず

ですから、「白道」は他力にしかなりません。

もちろん『教行信証』信巻でも

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。

と他力の信心です。

つまりは、善導大師でも親鸞聖人でも、二河白道の譬喩に自力や諸善の混じりようがないのです。

二河白道の譬喩が上品上生のところにあるのも、至誠心・深心同様に「もろもろの行業を回して」を諸善を捨てて念仏だけを勧められたお言葉となるのです。

親鸞聖人は「白道」を他力でしか教えられていない、と私が高森会長の間違いを指摘したら、

白道を善導大師は自力で教えられたのを、親鸞聖人は他力で解釈されたのだ
ワシは善導大師の立場で教えてきただけだ

と得意の絶頂で講師部講義で突如語った高森会長ですが、その間違いをまた指摘してからは、そんな面白いセリフが聞かれなくなって残念です。

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唯念仏」カテゴリの記事

コメント

お久しぶりです、Abcです。

>「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

とありますのは、

→「信心の行者(念仏者)は白道(無碍道、念仏道)を行きて(回向して、行じて)【ここの「行きて」を親鸞聖人は全分他力の立場から「回向し給いて(行じさせていただいて)」と釈された】直ちに(「頓」に同じ)西方浄土に向かう【ここも全分他力の解釈より「回向していただく」または「帰せよの勅命」より「向かうべしと弥陀、仰せ給えり」などとも釈される】」ということは、即ち「もろもろの行業」(万行諸善)を回して(ここは「回向して(行じて)」ではなく「迂回」をあるように「遠くにして(なげうちて など 詳しくは『選択集 三選の文』)」である)すぐに(直、頓に同じ)西方浄土に向かう(ここも「全分他力」の立場より「使役動詞(受け身系)」の「向かわせていただく」を用いる)ことに例えられている。

ですね。いろいろカッコとか解説とかつけてたら長くなりました。

飛雲さんの解説は、よくよく読ませていただいております。ありがとうございます。


ここであえて「先に釘を打っておき」ますが、
「これはAbcの味わいであり、教義に反している」として「全文」を挙げる方が過去にいましたが、その際は必ず「Abcの「~~~~」の箇所が『お聖教』の「ーーー」の箇所とはそぐわないから、味わいではないか?」と仰ってください。

こちらとしても突然、全文を転載されて、批判箇所を挙げず「Abcは味わいと教義を混ぜている! けしからん!!」等と言われないようにお願いします。

 それでも、再び「けしからん!!」と言われるのでしたら、今記した但し書きは読んでいないものとします。


 飛雲さん、長文すみません。ですが、「先手」を打っておかなければならないことお許しください。

なもあみだ、なもあみだ
 Abc

投稿: Abc | 2019年10月24日 (木) 00時26分

Abc様

そんなに警戒しなくてもよいと思いますし、今回のコメントも教義上問題があるとも思っておりません。

投稿: 飛雲 | 2019年10月24日 (木) 12時15分

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