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2019年10月

2019年10月29日 (火)

親鸞聖人の仰る往生の道とは5

どうすれば救われるのかについて親鸞聖人が、実例を出して示されている箇所があります。最も顕著で判りやすいのが、釈尊が父の浄飯王に説かれた内容でしょう。

『教行信証』行巻に『安楽集』を引かれて

『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。
(以下略)

(現代語訳)

『安楽集』にいわれている。
「『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
 世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。

行巻の念仏は他力の念仏について教えられたところですので、親鸞聖人は、釈尊が最初から他力の念仏を浄飯王に勧められたと解釈なされていることが判ります。

ここで注目点はもう一つありまして、浄飯王に、なぜ諸善ではなく念仏を釈尊は勧められたのかです。それは、浄飯王には行じがたい諸善を勧めてもできないことを釈尊は判っておられたからです。
浄飯王は、善ができると自惚れていましたが、釈尊は「ではやってみなさい」とは仰らずに、「できないから念仏を勧めているのだ」と仰っています。

できないのにできると自惚れているから実際にやらせてみて、できないことを判らせる

そんな回りくどいことを釈尊はされず、最初から念仏を勧められていることの意味を親鸞会会員は考えるべきでしょう。
一応言っておきますが、浄飯王はこの時点では信心決定していません。信前です。信前の人に、釈尊は最初から念仏三昧を勧められていて、そのことを道綽禅師も親鸞聖人も、そのまま教えられているのですから、信前の人に何を勧めるのかの答えがこれだということです。

最初から他力の念仏を勧めるのはおかしい

とマインドコントロールのよく効いている親鸞会会員は反論するでしょうが、釈尊、道綽禅師、親鸞聖人がそのように教えられていますので、それが真宗においては正解なのです。

それでも

方便がどうのこうの

というのなら、釈尊、道綽禅師、親鸞聖人の教えられたことを否定していると公言すればよいのです。

とはいうものの、最初から他力念仏を称えることができる人は、限られるでしょうから、他力念仏になる前の自力念仏の状態が普通はあります。しかし、自力念仏を親鸞聖人は勧められた箇所がないので、最初から他力念仏を称えよと教えられているのです。

結果として自力念仏にしかならないとしても、他力念仏を目指す、これが親鸞聖人の教えを信奉する者といえるでしょう。

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2019年10月23日 (水)

親鸞聖人の仰る往生の道とは4

『観無量寿経』の上品上生の往生の条件として、行福と三心(至誠心・深心・回向発願心)が挙げられていて、至誠心と深心についての善導大師の解釈の概要をこれまで述べてきました。

今回は回向発願心についてです。善導大師の回向発願心釈には、二河白道の譬喩がありまして、この譬喩に善の勧めがあるのかないのかという議論があります。至誠心釈・深心釈を踏まえれば、善の勧めがないと普通は考えるでしょうが、行福との関係で善の勧めがあってもおかしくない、という主張もできそうですので、善導大師のお言葉を見てみます。

全文載せると長いので、ポイントだけ紹介しますと、行者が東岸にいる時に、西岸上の人から喚び声が聞こえてきます。

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。
この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。

喚び声を聞いて、心が定まって白道に乗って進んだとあります。「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」は、高森顕徹会長でさえ認める阿弥陀仏の18願文の言い換えです。
18願文を聞いて、直ちに心が定まったのですから、善の勧めが入り込む余地がありません。
実際、善導大師の解説が

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

ですから、善はありません。その証拠が以前にも紹介した

上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

です。定散二善は説かれていても、願意は、「衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」です。

一心に念仏して来なさい

が阿弥陀仏の喚び声であり、それを顕わされたのが二河白道の譬喩です。

善導大師が解説の中で、

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

と仰った一文をもって、

「もろもろの行業を回して」は諸善をしてだ

という人もありますが、「一心に念仏して来なさい」と言われて、「諸善をしてただちに行きます」とは、どんなギャグかと思います。「一心に念仏して来なさい」に対しては、「諸善を捨てて念仏だけに心を定めて行きます」としかなりません。

ですから親鸞聖人も二河白道の譬喩は『教行信証』信巻に引かれて、化土巻では引かれていないのです。
しかも『浄土文類聚鈔』では

「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。

と阿弥陀仏の喚び声を明確に、「一心に念仏して来なさい」と仰っています。

白道」についても同じく『浄土文類聚鈔』で

また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。

と仰っていますので、

白道」=「能生清浄願心」=「凡夫自力の心にあらず

ですから、「白道」は他力にしかなりません。

もちろん『教行信証』信巻でも

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。

と他力の信心です。

つまりは、善導大師でも親鸞聖人でも、二河白道の譬喩に自力や諸善の混じりようがないのです。

二河白道の譬喩が上品上生のところにあるのも、至誠心・深心同様に「もろもろの行業を回して」を諸善を捨てて念仏だけを勧められたお言葉となるのです。

親鸞聖人は「白道」を他力でしか教えられていない、と私が高森会長の間違いを指摘したら、

白道を善導大師は自力で教えられたのを、親鸞聖人は他力で解釈されたのだ
ワシは善導大師の立場で教えてきただけだ

と得意の絶頂で講師部講義で突如語った高森会長ですが、その間違いをまた指摘してからは、そんな面白いセリフが聞かれなくなって残念です。

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2019年10月22日 (火)

親鸞聖人の仰る往生の道とは3

『観無量寿経』上品上生のところに、行福と共に三心(至誠心・深心・回向発願心)が説かれていますが、三心の最初の至誠心は、法蔵菩薩と同じ「真実心」である、と善導大師が解釈されていることを前回述べました。

この至誠心の次が深心です。深心について善導大師は『散善義』で、

「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。

と仰って、この後にいわゆる二種深信を記されていますが、機の深信である

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

を見ますと、出離できない凡夫であることを深信するとありますので、言い換えると、菩薩になれない凡夫、ということです。

これも前回同様に、法蔵菩薩の「真実心」を自力で発すという意味であるとするなら、完全に矛盾することになります。菩薩になれないと深信したなら、法蔵菩薩と同じ「真実心」を自力で発すことはできないと深信したということです。

更には、上品上生で説かれた行福の1つ「修行六念」について善導大師が解釈なされた後に、

行者等すでに念知しをはりなば、すなはちみづから思念すべし。 わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。 たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

と仰っています。
長いので現代語訳を付けると

行者たちは、 すでにこれを念知し終わったならば、 みずから考えよ。 わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。 その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。 しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

仏や菩薩方のことを念知することで、如何に、我ら凡夫と仏や菩薩方と異なっているかが知らされて、わが身のお粗末さに悲しむばかりだということです。
ここからも、法蔵菩薩と同じ「真実心」に自力ではなれないことを善導大師が仰っていることになりますので、「真実心」は阿弥陀仏から頂くのだと親鸞聖人は教えられたのです。

『観無量寿経』の上品上生の往生とは、行福と三心が条件となっていますので、文字上では行福をして自力で三心を発すことと取れます。しかし、凡夫の実態を知れば、三心は他力でなければ筋が通らなくなりますので、善導大師はこのことを踏まえられて自力と他力の混合で『散善義』を著わされたのですが、親鸞聖人は凡夫の実態をそのまま反映されて、行福を勧められることもなく、他力の三心を勧められたと言えます。

なお、善導大師の解釈なされた三心は、上品上生だけではなく、定善の機にも、上品中生以下にも共通の信心とされていますので、自分が悪人だと思うのであれば、自力の三心を発そうなどとは最初から思わないでしょうし、諸善をしようとも思わないでしょう。

行は念仏、信は他力、これだけを親鸞聖人が教えられたのでありますから、先日の高森顕徹会長の話のように、因果の道理を信じるという行福をする必要があるのかないのかは、明白でしょう。

ちなみに、上品中生の条件の1つが深信因果、上品下生の条件の1つが亦信因果です。つまり、因果の道理を浅くでも信じることができるなら、上品下生以上の機です。悪人ではありませんので、善人になるように勧めているのが高森会長であり、悪人正機の否定です。

理路整然とした親鸞聖人の教えは、支離滅裂・竜頭蛇尾の高森教とは、似て非なる教えです。

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2019年10月20日 (日)

親鸞聖人の仰る往生の道とは2

前回の続きです。

『観無量寿経』の上品上生の往生について、行福という善と三心(至誠心・深心・回向発願心)の2つの条件が挙げられています。この三心を善導大師は『散善義』の中で非常に詳しく解釈なされています。

繰り返しますが、三心については上品上生のところにあります。
上品上生の機について善導大師は

大乗を修学する上善の凡夫人なり。

と仰っています。聖道門の学僧が菩薩と解釈したのを完全否定されて、凡夫だと断言されています。
三心の最初の至誠心には、親鸞会でも有名な「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」があります。前後を含めて紹介すると、

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。
この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。

外に賢善精進の相を現じ」が何を意味しているかは、上品上生を理解すれば容易に判ります。くどいようですが、上品上生の機は行福のできる「上善の凡夫人」です。つまり、行福を修することが「外に賢善精進の相を現じ」であり、上品上生の機の条件です。
行福を修することが前提で、たとえ行福を修していても、内が虚仮では、「雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。」と仰っています。
更には、このような内が虚仮で修する行福では、「かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。」と断言されています。行福のできる「上善の凡夫人」ではあっても、内が虚仮であっては、往生できないという善導大師の解釈です。
なぜ往生できないのかの理由が次にあります。

まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。

阿弥陀仏は法蔵菩薩の時に「真実心」で菩薩の行を行じられたのだから、法蔵菩薩と同じ「真実心」でなければ、阿弥陀仏の浄土に往くことはできないという理屈です。

簡単に言うと、難しい善のできる凡夫であっても、法蔵菩薩と同じ「真実心」で善を修しなければ往生できない、ということです。

ここまでくればお判りかと思いますが、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」は、善を勧められたお言葉ではなく、「真実心」を勧められたお言葉なのです。

問題は法蔵菩薩と同じ「真実心」ですが、普通に考えると、法蔵菩薩と同じ「真実心」で善を修することができるなら、その人は凡夫ではなく、菩薩か仏です。

善導大師は、上品上生の機とは、菩薩ではなく「上善の凡夫」だと仰りながら、菩薩以上の「真実心」になるように勧められたことになり、完全な矛盾ですので、この「真実心」は自力ではないことになります。つまり、阿弥陀仏から頂く他力の信心であると解釈すべきことになります。

それで親鸞聖人が善導大師の「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」を「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて」と読み替えられて、善導大師の御心を明確にされたのです。

なお、善導大師が勧められている行は、同じく『散善義』に

まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもつて比類となすことを得るにあらざることを顕す。

また

上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

と仰っていることからも念仏であることは周知の事実です。一応説明しますと、念仏は雑善とは比較にはならないし、阿弥陀仏の本願にはただ1つ念仏だけが勧められているということです。

まとめると、善導大師の「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」は、「外に賢善精進の相を現じ」ることを勧められたのではなく、「外に賢善精進の相を現じ」ていても阿弥陀仏から「真実心」を頂かなければ往生できないことを教えられたものであり、それを親鸞聖人が更に判りやすく言い換えられて解釈された、ということです。そして善導大師も親鸞聖人も、念仏一つを勧められているのです。

高森顕徹会長のような曲がった解釈は、原典を当たれば簡単に論破できます。

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2019年10月19日 (土)

親鸞聖人の仰る往生の道とは1

『観無量寿経』には、10種類の機について説かれています。
10種類の機とは

定善の機―──定善のできる機
上品上生─┐
上品中生  ├─行福のできる機
上品下生─┘
中品上生─┐
中品中生─┴─戒福のできる機
中品下生───世福のできる機
下品上生───無善十悪の機
下品中生───無善破戒の機
下品下生───無善五逆の機

ということです。
10種類の気があるといっても、真実は下品下生の逆謗の一機だと言いう人がいますが、間違いです。定善の機は定善の【できる】機ですし、上品の三機は、行福の【できる】機です。定善・散善のできる機は存在しないのではなく、存在するから分けて説かれているのです。

各機に対して『観無量寿経』では往生の方法が記されています。

定善ができる機(定善の機)には、定善をしての往生
散善行福ができる機(上品上生・上品中生・上品下生)には、行福をしての往生
散善戒福ができる機(中品上生・中品中生)には、戒福をしての往生
散善世福ができる機(中品下生)には、世福をしての往生
定善も散善もできない機(下品上生・下品中生・下品下生)には、念仏での往生

もし、自分が下品下生の機だと思うのであれば、念仏での往生を願う以外に道はありません。しかし、定善の機から中品下生までは、定善なり自分のできる善による往生という道があることになります。ですから、定善の機から中品下生までの善人には善が勧められて、悪人には念仏しか勧められていないのは、筋が通っています。

これを、悪人に善を勧められた、という頓珍漢なことをいうから、筋も通っていないし、『観無量寿経』も読んでいないのだろうと判明するのです。

ちなみに、以前も述べた通り、親鸞聖人は善人にも念仏を勧められたのだということを教えられています。それが『教行信証』化土巻の

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

です。

さて今回は『観無量寿経』に説かれた上品上生について見てみます。

上品上生といふは、もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。また三種の衆生ありて、まさに往生を得べし。なんらをか三つとする。一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗の方等経典を読誦す。三つには六念を修行す。回向発願してかの国に生ぜんと願ず。この功徳を具すること、一日乃至七日してすなはち往生を得。

(現代語訳)

極楽世界に往生するものには、上品上生から下品下生までの九種類がある。その中で、まず上品上生から説き始めよう。
人々の中でその国に生れたいと願うものは、三種の心を起して往生するのである。その三種の心とは何かといえば、一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心である。この三種の心をそなえるものは、必ずその国に生れるのである。
次の三種の行を修める人々はみな往生することができる。それはどのようなものかといえば、一つにはやさしい心を持ち、むやみに生きものを殺さず、いろいろな戒を守って修行するもの、二つには大乗の経典を口にとなえるもの、三つには六念の行を修めるものである。この人々がそれらの功徳をもってその国に生れたいと願い、一日から七日の間この功徳を積んだなら、ただちに往生することができる。

往生の条件が2つあります。1つが「三種の心を発して」、もう1つが「三種の衆生ありて」です。
三種の心」とは「一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。
三種の衆生」とは「一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗の方等経典を読誦す。三つには六念を修行す。回向発願してかの国に生ぜんと願ず。

つまり、信心と行福が上品上生の往生の条件となっています。
ここで、「三心を具するものは、かならずかの国に生ず。」に着目し、行福よりも信心について強調されたのが善導大師です。『観無量寿経疏』の多くをこの信心について解釈に費やされています。

なお、『観無量寿経』も『観無量寿経疏』も読んだことのない親鸞会でさえも知っている『観無量寿経疏』の内容は、ここに集中しています。
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」は至誠心釈にあります。
二種深信は、深心釈にあります。
二河白道の譬喩は、回向発願心釈にあります。

今回は述べませんが、親鸞会でさえ知っているこれらのことが、上品上生のところに出てくることを踏まえると、善導大師の御心が、高森顕徹会長等の言っていることと全く違うことが判ってきますので、まずそこを押さえておいてください。

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2019年10月10日 (木)

親鸞聖人の仰る実機とは3

『歎異抄』の有名な一文、

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

これが機の深信であり、全人類の実相だという主張をしがちですが、これも間違いです。

まず、『歎異抄』は親鸞聖人が仰ったとされることを、著者が記憶に基づいて書き残したものですが、親鸞聖人が間違いなく仰ったという確証がありませんし、仮に仰ったとしても、どのような状況下での発言かも考慮が必要です。

次に親鸞聖人が著わされた書物や書簡を見ると、これに近い内容の御文はありません。それどころか、地獄に堕ちる人は、念仏誹謗などの条件付きでしか仰っていませんし、親鸞聖人ご自身がその条件から外れているという前提です。

地獄に関する言及で最も顕著で繰り返されているところは、『教行信証』信巻の多くを占める阿闍世の物語です。

親鸞聖人は『涅槃経』を長々と引かれていますが、その内容は、父を殺したことで無間地獄に堕ちるという恐怖に悶え苦しむ阿闍世に対して、釈尊が繰り返し繰り返しくどいほど「地獄に堕ちる罪ではない」と諭されています。

最初に仰った

いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん

から始まり、

いはんや王勅せず、いかんぞ罪を得ん。

もし諸仏世尊、罪を得たまふことなくは、なんぢ独りいかんぞ罪を得んや。

殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。

もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。

と続き、この後に

殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。

を7回繰り返され、更に

殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。

を2回繰り返され、

しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。

の後に、空の思想で殺を説明されて、地獄に堕ちる罪ではないことを阿闍世に説かれ、この御説法により阿闍世は信を獲ています。

この『涅槃経』の御説法をどう解釈するかということですが、真実は無間地獄に堕ちることになるが、阿闍世の苦悩を取り除かれるために、敢えて真実と違うことを釈尊が説かれたと主張する人もいます。それが正しいのかどうかは置いておいて、親鸞聖人はどう解釈なされたのかが問題ですが、上記に挙げた、釈尊の「地獄に堕ちる罪ではない」を省略されても阿闍世の獲信を顕わすことができたにも関わらず、省略されずに『教行信証』に引かれていることは、親鸞聖人のメッセージと取るべきでしょう。

阿闍世は地獄に堕ちる罪を造っていないし、機の深信は地獄一定と知らされることでもない

高森顕徹会長の解釈など、阿闍世の物語を読めば、笑い飛ばすだけです。
『教行信証』の全体を読めなくても、阿闍世の物語だけは読んでおきたいものです。

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