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2019年8月

2019年8月18日 (日)

弥勒菩薩以上の”聞法善”をしてきたと悲しい勘違いをしている高森顕徹会長

本日は、久しぶりに高森顕徹会長が話をしました。頭を冷やして少しは面白い話をしてくれるのかと思いましたが、いつもと変わらずつまらない話でした。

高森会長の好きな親鸞聖人の『教行信証』信巻のお言葉、

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

を出して、いつも通りの、

救われたらガラリと変わる
「まことに知んぬ」は、ハッキリ知らされた

という根拠として使用していました。
妄想が激しすぎるのですが、救われたからと言って、弥勒菩薩の成仏の時期が判る筈もなく、七高僧方がどなたも仰っていない往生即成仏が救われてハッキリ知らされたのなら、七高僧は救われていなかったことになります。
ちょっと考えれば判りそうなことが、高森会長の話術にかかってしまうと騙されるのです。

さて、親鸞聖人がここで弥勒菩薩を出されていることには、様々な意味が考えられます。

1つは、聖道門の理想像である弥勒菩薩でさえも、成仏に途方もない年月を要することを示して、18願の素晴らしさを際立たせたいことです。
2つに、『大無量寿経』の聴衆の一人であり、釈尊と問答までされた弥勒菩薩は18願ではなく、聖道門での修行を続けられていることです。
3つに、仏を除いて最高の善人である弥勒菩薩が、凡夫とは桁違いの度真剣な聞き方をしているはずなのに、救われていないことです。

1番目は解説は要らないでしょうが、2番目と3番目は親鸞会の邪義を暴く根拠になっています。
阿弥陀仏の18願を聞くことは、聖道門の善人では難しい、つまり高森流の”宿善厚き人”は救われがたいが、聖道門など全くできない悪人の”宿善薄き人”の方が救われやすいので、まさに『歎異抄』の

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

の通りであることが、理屈上で”ハッキリ”知らされます。
それと、弥勒菩薩は51段の菩薩ですから、厳しい修行を積み重ねられ、当然ながら高森流の”聞法善”も凡夫では絶対にできないレベルでしてきたので、『大無量寿経』もそんなレベルで聞法しても、救われるどころか聖道門に留まったままなら、凡夫がそれ以上の”聞法善”など絶対にできないので、凡夫は絶対に救われないことになります。

今回も「聞く一つ」と強調していましたが、その言葉自体は正しくても、”聞法善”の積み重ねで救われるという意味合いでしか話をしていない高森会長は、会員に弥勒菩薩以上の”聞法善”を要求しているのですが、ちなみに高森会長は弥勒菩薩以上の”聞法善”をしてきたと自惚れているのでしょうか。
自惚れているというより、悲しい勘違いなのでしょう。

そんなかわいそうな高森会長を信じている会員は、更にかわいそうです。

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2019年8月14日 (水)

阿弥陀仏の救いを根本から疑う高森顕徹流”真実信心”

親鸞会の教義は10年も前から破綻が顕在化していましたが、組織は問題がありながらも存続してきました。ところが昨年から組織の破綻も顕著になってきて、たとえば講師部員はバラバラで、士気が下がりまくり、離脱も出ています。

適当教義と方針行き当たりばったりの高森顕徹会長ですから、因果の道理を深信すればこうなることは、だれでも予想できるでしょう。

さて、親鸞会会員が妄想している真実信心と、親鸞聖人が仰る真実信心とは、天地ほどの違いがあります。会員が自力の信心だからではなく、高森会長の言っている真実信心の説明が出鱈目だからです。

親鸞聖人は、真実信心について様々な説明をなされていまして、高森会長の説明と悉く違っていますが、今回は以下のところからそれを見てみたいと思います。

『教行信証』信巻にこうあります。

元照律師のいはく、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
またいはく、「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。
またいはく、「この悪世にして修行成仏するを難とするなり。もろもろの衆生のために、この法門を説くを二つの難とするなり。前の二難を承けて、すなはち諸仏所讃の虚しからざる意を彰す。衆生聞きて信受せしめよとなり」と。{以上}

(現代語訳)

元照律師が『阿弥陀経義疏』にいっている。
 「『阿弥陀経』には、釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、阿弥陀仏の教えを説かれたことを<甚難希有>と示されているが、他の仏がたのできないことであるから甚難であり、この世で今までになかったことであるから希有である」
また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。
「念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」
また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。
「この五濁の世で修行して仏になるということは難しい。多くの衆生のために阿弥陀仏の教えを説くことも難しい。この二つの難事をあげて、仏がたが釈尊をほめたたえられることが無意味でないことを明らかにされている。これは衆生に教えを聞かせて信を得させるためである」

『阿弥陀経』について解釈された元照律師の『阿弥陀経義疏』を引かれている箇所です。『阿弥陀経』ですので、当然、念仏についての内容になるのですが、念仏を称えることによって往生する、もしくは仏になる、という教えが「甚難信」だと親鸞聖人もみられていたことが判ります。
この次に

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

(現代語訳)

律宗の用欽がいっている。
「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

ここでは、なぜ「難信」なのかについての解説となっています。阿弥陀仏の救いとは、凡夫が仏になることは、手のひらを表から裏へ返すのと同じくらい極めて容易いことであるから、そんな簡単なはずがないと疑うのだということです。信心を獲ることが難しいのではなく、その前の、阿弥陀仏の救い自体に大きな疑惑がおきて、それを拭い去ることができないから、「難信」になるのです。
現代的な言い方をするならば、

念仏を称えたくらいで仏になれる、そんなうまい話があるか

という疑いです。これは聖道門を信じている人たちの当然な疑問ですが、阿弥陀仏の救いを”正しく”聞いているはずの親鸞会会員の心でもあります。阿弥陀仏に救われたはずの高森会長の心でもあります。

逆の言い方をしますと、真実信心とは

念仏を称えただけで仏になれる、そんなうまい話が阿弥陀仏の救いだった

と疑いなく信じたことをいうのです。これを真っ向から批判する高森会長と会員に対して、「易往而無人」と説かれているのです。

教義も組織も破綻した親鸞会に留まって、

易往而無人」だから信心が獲られなくても当然だ、死んだら必堕無間でしかたがない

と思い続けたいのなら、どうぞ好きにしてください。

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