弥勒菩薩以上の”聞法善”をしてきたと悲しい勘違いをしている高森顕徹会長
本日は、久しぶりに高森顕徹会長が話をしました。頭を冷やして少しは面白い話をしてくれるのかと思いましたが、いつもと変わらずつまらない話でした。
高森会長の好きな親鸞聖人の『教行信証』信巻のお言葉、
まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
を出して、いつも通りの、
救われたらガラリと変わる
「まことに知んぬ」は、ハッキリ知らされた
という根拠として使用していました。
妄想が激しすぎるのですが、救われたからと言って、弥勒菩薩の成仏の時期が判る筈もなく、七高僧方がどなたも仰っていない往生即成仏が救われてハッキリ知らされたのなら、七高僧は救われていなかったことになります。
ちょっと考えれば判りそうなことが、高森会長の話術にかかってしまうと騙されるのです。
さて、親鸞聖人がここで弥勒菩薩を出されていることには、様々な意味が考えられます。
1つは、聖道門の理想像である弥勒菩薩でさえも、成仏に途方もない年月を要することを示して、18願の素晴らしさを際立たせたいことです。
2つに、『大無量寿経』の聴衆の一人であり、釈尊と問答までされた弥勒菩薩は18願ではなく、聖道門での修行を続けられていることです。
3つに、仏を除いて最高の善人である弥勒菩薩が、凡夫とは桁違いの度真剣な聞き方をしているはずなのに、救われていないことです。
1番目は解説は要らないでしょうが、2番目と3番目は親鸞会の邪義を暴く根拠になっています。
阿弥陀仏の18願を聞くことは、聖道門の善人では難しい、つまり高森流の”宿善厚き人”は救われがたいが、聖道門など全くできない悪人の”宿善薄き人”の方が救われやすいので、まさに『歎異抄』の
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
の通りであることが、理屈上で”ハッキリ”知らされます。
それと、弥勒菩薩は51段の菩薩ですから、厳しい修行を積み重ねられ、当然ながら高森流の”聞法善”も凡夫では絶対にできないレベルでしてきたので、『大無量寿経』もそんなレベルで聞法しても、救われるどころか聖道門に留まったままなら、凡夫がそれ以上の”聞法善”など絶対にできないので、凡夫は絶対に救われないことになります。
今回も「聞く一つ」と強調していましたが、その言葉自体は正しくても、”聞法善”の積み重ねで救われるという意味合いでしか話をしていない高森会長は、会員に弥勒菩薩以上の”聞法善”を要求しているのですが、ちなみに高森会長は弥勒菩薩以上の”聞法善”をしてきたと自惚れているのでしょうか。
自惚れているというより、悲しい勘違いなのでしょう。
そんなかわいそうな高森会長を信じている会員は、更にかわいそうです。
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