”宿善薄き”弥勒菩薩、”宿善厚き”高森顕徹会長
高森顕徹会長の衰えもあるのでしょうが、映画は親鸞会内でも盛り上がりに欠け、大コケとなっています。予想されたことですので、何も驚くべき結果ではありません。
さて、『教行信証』信巻にある、親鸞会でも有名な御文
まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
ですが、ここから弥勒菩薩は「念仏の衆生」ではないし、信心を獲て往生即成仏もできない、と親鸞聖人は観られていたことが判ります。
では、弥勒菩薩は阿弥陀仏の18願を知られないのか、と思う人もあるかもしれませんが、弥勒菩薩は『大無量寿経』の聴衆であるだけでなく、釈尊との問答までされていますので、当然ながら、18願についてもすべて知られた上で、聖道門の修行を続けられているのです。
『大無量寿経』の最後に
仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。
このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん。多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道においてつひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し、持誦し、説行すべし」と。(現代語訳)
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。
だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい。なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことができないものだからである。もしこの教えを聞いたなら、この上ないさとりを開くまで決して後もどりすることはないであろう。だからそなたたちはひたすらこの教えを信じ、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」
とありまして、釈尊が弥勒菩薩に直接、阿弥陀仏の救いの教えを信じて、聞いて、念仏せよ、と説かれたにも関わらず、弥勒菩薩は信じられなかった、ということになります。
弥勒菩薩は、仏の一歩手前ですので、仏を除いた善人の筆頭です。過去世においても、そして現在も、弥勒菩薩以上の善人はいません。当たり前ですが、一応言っておきますと、弥勒菩薩は悪人ではありません。
善人の第一人者である弥勒菩薩をしても、阿弥陀仏の救いを信じられない高森流の”宿善薄き者”になるのです。弥勒菩薩以外の多くの菩薩は、「多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。」と釈尊が仰るように、阿弥陀仏の救いを知られないから、信じようもないかもしれませんが、弥勒菩薩は釈尊から直接聞かれているのです。
この弥勒菩薩のことを通してでも、阿弥陀仏の18願に救われることと、善とは全く関係ないと判ります。高森理論を当てはめると、弥勒菩薩が”宿善薄き者”ですから、”宿善厚き者”は仏だけになります。つまり、全人類は仏にならなければ、”宿善厚き者”となることができないことになります。”宿善厚き者”の高森会長は、仏のつもりなのでしょう、きっと。
ここまでくると無茶苦茶な話です。
高森理論の崩壊と共に、親鸞会の崩壊も近づいているようです。
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