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2019年7月

2019年7月19日 (金)

”宿善薄き”弥勒菩薩、”宿善厚き”高森顕徹会長

高森顕徹会長の衰えもあるのでしょうが、映画は親鸞会内でも盛り上がりに欠け、大コケとなっています。予想されたことですので、何も驚くべき結果ではありません。

さて、『教行信証』信巻にある、親鸞会でも有名な御文

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ですが、ここから弥勒菩薩は「念仏の衆生」ではないし、信心を獲て往生即成仏もできない、と親鸞聖人は観られていたことが判ります。

では、弥勒菩薩は阿弥陀仏の18願を知られないのか、と思う人もあるかもしれませんが、弥勒菩薩は『大無量寿経』の聴衆であるだけでなく、釈尊との問答までされていますので、当然ながら、18願についてもすべて知られた上で、聖道門の修行を続けられているのです。

『大無量寿経』の最後に

仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。
このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん。多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道においてつひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し、持誦し、説行すべし」と。

(現代語訳)

釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。
だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい。なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことができないものだからである。もしこの教えを聞いたなら、この上ないさとりを開くまで決して後もどりすることはないであろう。だからそなたたちはひたすらこの教えを信じ、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」

とありまして、釈尊が弥勒菩薩に直接、阿弥陀仏の救いの教えを信じて、聞いて、念仏せよ、と説かれたにも関わらず、弥勒菩薩は信じられなかった、ということになります。

弥勒菩薩は、仏の一歩手前ですので、仏を除いた善人の筆頭です。過去世においても、そして現在も、弥勒菩薩以上の善人はいません。当たり前ですが、一応言っておきますと、弥勒菩薩は悪人ではありません。
善人の第一人者である弥勒菩薩をしても、阿弥陀仏の救いを信じられない高森流の”宿善薄き者”になるのです。弥勒菩薩以外の多くの菩薩は、「多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。」と釈尊が仰るように、阿弥陀仏の救いを知られないから、信じようもないかもしれませんが、弥勒菩薩は釈尊から直接聞かれているのです。

この弥勒菩薩のことを通してでも、阿弥陀仏の18願に救われることと、善とは全く関係ないと判ります。高森理論を当てはめると、弥勒菩薩が”宿善薄き者”ですから、”宿善厚き者”は仏だけになります。つまり、全人類は仏にならなければ、”宿善厚き者”となることができないことになります。”宿善厚き者”の高森会長は、仏のつもりなのでしょう、きっと。

ここまでくると無茶苦茶な話です。

高森理論の崩壊と共に、親鸞会の崩壊も近づいているようです。

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2019年7月 7日 (日)

親鸞聖人の教えと対極にある高森顕徹会長の教え

高森顕徹会長の休みは、まだまだ続きそうですが、ヘンテコ宿善論もまだ続けていく気満々なのでしょう。

親鸞聖人は、宿善という言葉自体を御著書には使用されていません。近い親鸞聖人のお言葉を紹介するなら、『教行信証』総序の

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

でしょう。また『浄土文類聚鈔』には

たまたま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ

とあります。宿善も宿縁も同じだと高森会長は考えているようですが、明らかに違います。「たまたま行信を獲ば」「たまたま信心を獲ば」です。必然ではなく「たまたま」です。なぜかよく判らないが「行信」「信心」を獲たならば、遠い過去からの「宿縁」を慶びなさい、です。

高森先生もそのように仰っている

と寝とぼけた会員は反論するでしょうが、宿善を自らの努力によって厚くすることができて、厚くなった宿善が開発するのだ、という理屈なら、「たまたま」ではないですし、「遠く宿縁を慶べ」ではなく、過去の自分を褒めてあげましょう、ということになります。

自分の力が一切間に合わないことが知らされてどううのこうの

と訳の判らないことをまだ言ってくるでしょうが、「自分の力が間に合わない」と知らされるまで努力した結果、信心を獲るのですから、必然ですし、過去にそこまで頑張った自分を褒めてあげましょう、になるのです。

親鸞聖人が、「たまたま」とか、「遠く宿縁を慶べ」と仰ったのは、源信僧都が仰ったことと同じで、

生死の因縁は不可思議なり

だからです。

聖道門で命がけの修行をしている人は、信心を獲ることができず、強盗放火殺人と悪の限りを尽くした耳四郎が、信心を獲ることができたのは、「たまたま」としか言いようがありません。その因縁は何か全く判らないが、それを慶ぶしかない、というお言葉となってくるのです。

それを証明するお言葉は『教行信証』信巻の

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

です。『浄土文類聚鈔』にも、全く同じお言葉があります。現代語訳は

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

です。高森流の宿善論で言うなら、宿善が厚いのも薄いのも、宿善を厚くするのも、すべて阿弥陀仏がなされることであり、それ以外にはない、ということです。

自分で努力してという因は、欠片もないのが、阿弥陀仏の救いです。

この極めて重要なことを完全に捻じ曲げて、というよりも知らないで、適当なことを言い続けてきたナンチャッテ善知識が高森顕徹という人物です。
親鸞聖人の教えと対極にあるのが、高森会長の教えですから、高森会長の話を正しく聞いて救われることは、「たまたま」もありません。高森会長の話を180度聞き間違う特殊な能力が「たまたま」あれば、救われることもあるかもしれませんが、もしそうなったら、その特殊な能力を「慶べ」です。

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2019年7月 1日 (月)

源信僧都でも判らないと仰ったことを判ったつもりで断言する勘違い高森顕徹会長

源信僧都は、高森会長のいう”宿善厚い人”(過去の善根の厚い人)と”宿善薄い人”(過去の善根の薄い人)が、阿弥陀仏の本願を聞ける人と聞けない人とどのような関係になっているかを『往生要集』に教えておられます。

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 『無量清浄覚経』にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。これいまだ解脱を得ざるなり」と。{略抄}
また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。{乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。{以上}
まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。《平等覚経》に説かれている。
善男・善女があって、無量清浄仏のみ名を聞いて、喜び踊り、身の毛がよだって抜けるように思う人は、みな悉く過去世にすでに仏道を修めているものである。もしまた人があって、仏を疑って信じないものは、みな悪道から来て、その罪がまだ尽きないもので、なおまだ解脱を得ることができないのである。
また《大集経》の第七巻に説かれている。
もし衆生があって、すでに無量無辺の仏の所において、もろもろの徳本を植えたものは、この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。中略 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。たとい聞くことができたとしても、まだ必ずしも信ずることはできないのである。
これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

ここの結論が「生死の因縁は不可思議なり」です。”宿善の薄い人”(過去の善根の薄い人)つまり「薄徳のもの」でも「聞くことを得る」で、過去世の功徳が少ない者であっても、18願念仏往生を聞いて信じることができるのだと仰っています。しかも、その理由を知ることは難しいと源信僧都でさえ仰っています。

また

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

かつて諸の菩薩の行を修められて仏になられた方であっても、「なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき」ですから、”宿善の極めて厚い人”(過去の善根が極めて厚い人)が、阿弥陀仏の本願を聞けなかったのに、”宿善の薄い人”(過去の善根の薄い人)が簡単に阿弥陀仏の本願を聞いてしまうという現実に対して源信僧都のような方でさえも、過去世の因縁について知ることは難しい、と繰り返し仰っています。「道理に違せり」「これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。」と明言をさけておられます。宿善とは、過去世において善をしてきたかどうか、という単純なことではないと、源信僧都は仰っているのです。

具体的な例を挙げるなら、弥勒菩薩は”宿善の厚い人”(過去の善根の厚い人)のトップです。弥勒菩薩以上の人は仏ですから、人間で弥勒菩薩を超えることは不可能です。その弥勒菩薩は、未だ他力の信心を獲ていません。念のため言っておきますと、弥勒菩薩は『大無量寿経』で釈尊と問答をされていますので、阿弥陀仏の18願を知らないということではありません。それに対して、耳史郎は”宿善の薄い人”(過去の善根の薄い人)の代表ですが、他力の信心を獲たと、高森顕徹会長も認めています。

高森流宿善論が如何に幼稚な理屈かお判りになられると思います。本願寺が呆れるのも当然でしょう。親鸞会の理屈など、赤子の手を捻るくらい簡単に論破できます。

反論があればいつでもどうぞ。

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