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2019年6月23日 (日)

高森顕徹流ヘンテコ宿善論復活

本日の高森顕徹会長の話は、また過激な邪義に逆戻りでした。前回の話の時に、邪義が落ち着いてきたと評価しましたので、天邪鬼の高森会長が昔の邪義を復活させたというところでしょうか。あるいは、映画の評判が会員にも良くないので、会員の心を引き留めるために話を昔の通りに戻したのかもしれません。

内容は、宿善についてでした。『本願寺なぜ答えぬ』でも書いていた宿善を厚くする方法についてと言った方が正確です。少し前に”縁の浅い会員”が、「高森会長は宿善を厚くする話をしていない」、とか言って、私を批判してきたことがありましたが、現実に、宿善を厚くして救われるという話を今でもしていることが、これで証明されたのです。それでも思考停止の会員は「そんなことを高森先生は仰っていない。そんな聞き方だから親鸞会を辞めたんだろう。」とか言ってくるかもしれません。かわいそうに。

さて今回の宿善の話で出した根拠の一つが『御一代記聞書』の

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。
已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。
昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

です。『なぜ生きる2』18章でも最後の2文を除いて取り上げられています。
ただし、この意味がまた無茶苦茶です。この意訳として

陽の当たるところの花は速く咲き、日蔭の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。聞法を怠れば日蔭の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人があるのは、人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

としています。
かなり無理な訳にしていることがお判りでしょうか。
最も問題なのが

かように宿善も遅速あり

ですが、この意味は高森顕徹会長の言葉を使うなら、

同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人がある

です。

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ

の意味はありません。
その証拠をお見せしましょう。

このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。事実、『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分は

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

です。
ここに書かれてあることは、
阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについてです。
『御一代記聞書』と比較するとよく判ります。

已今当の往生あり(『御一代記聞書』)
=すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり(『安心決定鈔』)
=已・今・当の三世の往生は不同なれども(『安心決定鈔』)

このことより、

宿善も遅速あり(『御一代記聞書』)
=仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば(『安心決定鈔』)
=覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり(『安心決定鈔』)

となります。

ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に

昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とありますので、『御一代記聞書』の「宿善」とは、信心のことを指していることがお判り頂けると思います。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と教えられたお言葉と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

に、そのことが明確に解説されています。
要するに、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

結局

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。

こんな意味になることは、100%あり得ません。
今回のエントリーは、人並みの読解力がないと理解できない内容ですから、国語の成績が良くない人は、国語の成績の良い人に解説してもらってきてください。その上で、反論があるなら、いつでも反論を受け付けます。コメント欄で削除されるとか言うのなら、私が消すことのできない公平などこかの掲示板でも結構ですから反論を書いて、そこでやり取りをしますよ。
それだけの勇気があるならですが。

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