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2019年7月 1日 (月)

源信僧都でも判らないと仰ったことを判ったつもりで断言する勘違い高森顕徹会長

源信僧都は、高森会長のいう”宿善厚い人”(過去の善根の厚い人)と”宿善薄い人”(過去の善根の薄い人)が、阿弥陀仏の本願を聞ける人と聞けない人とどのような関係になっているかを『往生要集』に教えておられます。

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 『無量清浄覚経』にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。これいまだ解脱を得ざるなり」と。{略抄}
また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。{乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。{以上}
まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。《平等覚経》に説かれている。
善男・善女があって、無量清浄仏のみ名を聞いて、喜び踊り、身の毛がよだって抜けるように思う人は、みな悉く過去世にすでに仏道を修めているものである。もしまた人があって、仏を疑って信じないものは、みな悪道から来て、その罪がまだ尽きないもので、なおまだ解脱を得ることができないのである。
また《大集経》の第七巻に説かれている。
もし衆生があって、すでに無量無辺の仏の所において、もろもろの徳本を植えたものは、この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。中略 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。たとい聞くことができたとしても、まだ必ずしも信ずることはできないのである。
これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

ここの結論が「生死の因縁は不可思議なり」です。”宿善の薄い人”(過去の善根の薄い人)つまり「薄徳のもの」でも「聞くことを得る」で、過去世の功徳が少ない者であっても、18願念仏往生を聞いて信じることができるのだと仰っています。しかも、その理由を知ることは難しいと源信僧都でさえ仰っています。

また

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

かつて諸の菩薩の行を修められて仏になられた方であっても、「なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき」ですから、”宿善の極めて厚い人”(過去の善根が極めて厚い人)が、阿弥陀仏の本願を聞けなかったのに、”宿善の薄い人”(過去の善根の薄い人)が簡単に阿弥陀仏の本願を聞いてしまうという現実に対して源信僧都のような方でさえも、過去世の因縁について知ることは難しい、と繰り返し仰っています。「道理に違せり」「これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。」と明言をさけておられます。宿善とは、過去世において善をしてきたかどうか、という単純なことではないと、源信僧都は仰っているのです。

具体的な例を挙げるなら、弥勒菩薩は”宿善の厚い人”(過去の善根の厚い人)のトップです。弥勒菩薩以上の人は仏ですから、人間で弥勒菩薩を超えることは不可能です。その弥勒菩薩は、未だ他力の信心を獲ていません。念のため言っておきますと、弥勒菩薩は『大無量寿経』で釈尊と問答をされていますので、阿弥陀仏の18願を知らないということではありません。それに対して、耳史郎は”宿善の薄い人”(過去の善根の薄い人)の代表ですが、他力の信心を獲たと、高森顕徹会長も認めています。

高森流宿善論が如何に幼稚な理屈かお判りになられると思います。本願寺が呆れるのも当然でしょう。親鸞会の理屈など、赤子の手を捻るくらい簡単に論破できます。

反論があればいつでもどうぞ。

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