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2019年6月 4日 (火)

親鸞聖人が他力の念仏を最初から勧められたことを知らない親鸞会

某所で某退会者が教義について書いた内容を、親鸞会の講師部員が間違いを指摘して、あっけなく退会者が論破されることが繰り返されました。正直言いまして、擁護しようのない内容でしたので、当然の結末でしょう。親鸞会を論破することなど、実に容易いのですが、だからと言って親鸞会と同じように聖教に基づかない創作教義を持ち出しても親鸞会を論破できると思ったら大間違いです。

退会者も、親鸞会を邪義と批判するなら、自分が邪義を言わないように聖教をよく読むことを勧めます。

さて、高森顕徹会長の邪義は邪義のままですが、その邪義の内容は変化してきています。念仏誹謗に近い念仏軽視から、念仏の肯定に転じてきたことは、ある意味評価しても良いです。もちろん、邪義は邪義ですが、過激な邪義から落ち着いた邪義に変わったことは認めましょう。

この念仏については、実は簡単に説明できる内容ではありません。特に信前の念仏について親鸞聖人が勧められている、とは単純に言い切れないからです。

『正像末和讃』誡疑讃23首についてほとんどが自力の念仏についてですが、例えば最初の2首は

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

とあるように、自力の念仏では化土にしか往けない、という誡めとして仰っているのであって、自力の念仏を勧められているのではありません。

この後にある

信心のひとにおとらじと
 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり
 称名念仏はげむべし

は自力の念仏を勧められているお言葉だと思う人もあるでしょうが、この誡めの流れの中ですので、「如来大悲の恩をしり」が他力の信心を獲ての意味になり、信後他力の「称名念仏はげむべし」となります。

似たような勘違いをしやすいのが『高僧和讃』龍樹讃の

不退のくらゐすみやかに
 えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して
 弥陀の名号称すべし

です。これは龍樹菩薩の教えられた内容ですので、『正信偈』で言えば

唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

と同じで、「恭敬の心に執持して」が他力の信心を獲ての意であり、信後他力の「弥陀の名号称すべし」です。

つまり、親鸞聖人の御著書の中で、信前の自力の念仏を勧められた直接のお言葉というものがないのです。ただし、20願から18願へ転入するというお言葉はあります。

では念仏を勧められていないのかと言えば、『教行信証』行巻を読めば判りますが、行巻にある他力の念仏を勧められています。

自力の念仏を飛ばしていきなり他力の念仏?

と思われるかもしれませんが、聖教上ではそのようにしか書かれていません。

典型的なのが『安楽集』を引かれた

『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。

(現代語訳)

『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。

です。
行巻ですので、他力の念仏についての内容として親鸞聖人が顕わされた内容になります。

とはいうものの、他力の念仏の前には、自力の念仏が通常はありますので、自力の念仏を誡めはされても否定されているのでないことは、普通に考えれば判る話でしょう。

まだまだ説明が必要ですが、今回はここまでで。

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唯念仏」カテゴリの記事

コメント

その退会者の主張を、全ての退会者の主張の代表として、
親鸞会は久しぶりの勝利を、会員に誇らしげに大本営発表するのでしょうか。
また、会員は騙されてしまいますね。

どのようなやり取りだったのか気になります。
概要だけでも教えて貰えないでしょうか?

投稿: 久しぶりの勝利? | 2019年6月 5日 (水) 12時41分

久しぶりの勝利?さん

その人の名誉にも関わることですから、ぼかして簡潔に言うと、

一般の人はどんなに頑張っても、救われても凡夫のままで菩薩にはなれませんが、菩薩の智慧が得られるように主張し、菩薩は仏ではありませんが、仏の智慧が体得できると言ったことに対する指摘です。仏、菩薩、凡夫の違いが不明瞭で、突っ込まれて当然なのですが、本人はどう思っているのかわかりません。

投稿: 飛雲 | 2019年6月 5日 (水) 21時13分

そんなことがあったのですね。全く知りませんでした。よくよく聖教を読み、正しい教学を身に付けたいと思います。

顕正新聞などの機関紙に、この内容が載るかもしれないですね。

投稿: とある元学徒 | 2019年6月 8日 (土) 16時18分

>顕正新聞などの機関紙に、この内容が載るかもしれないですね。

書くことがなければ、ひょっとすると載せるかもしれないですね。『歎異抄』解説書が未だに出ていないと平気で言い続けられる感覚ですから、何を言ってきても不思議ではありません。

投稿: 飛雲 | 2019年6月 8日 (土) 21時24分

こんばんわ、Abcです。

この度は、『和讃』を用いての御説明ありがとうございます。
先日は、私の側にも落ち度がありましたし、それを鑑みたうえで切磋琢磨しております。

さて、
>他力の念仏の前には、自力の念仏が通常はありますので、自力の念仏を誡めはされても否定されているのでないことは、普通に考えれば判る話でしょう。

と記されているように親鸞は、「他力の念仏」をお勧めされております。
ただ、源空聖人(法然上人)においては、「他力の念仏、自力の念仏」両方の御説明をされております。

 飛雲さんの過去エントリーでありますが、リンクを張らせていただきます。
『親鸞聖人は法然上人の教えを聞いて救われた、と言いながら法然上人の教えを完全否定する高森顕徹会長』
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-5e7d.html

ここに、
>信前において諸善を捨てて自力でも唯念仏を称え続けなさい、そうすれば必ず往生できる

とご説明されたのが源空聖人ですが、一方で

『選択集』三選文
 「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」

といわれ、
 「正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」とあるように、この「称名念仏」は「仏の本願によるがゆゑ」と締められております。

 親鸞は、この『選択集』にてご説明された事柄を、明恵上人の著書を受けて改めて『ご本典』を記されました。

 なもあみだ、なもあみだ
Abc

投稿: Abc | 2019年6月 9日 (日) 17時52分

Abc様

自力の念仏については難しい問題です。

投稿: 飛雲 | 2019年6月12日 (水) 14時09分

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