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2019年6月10日 (月)

法然上人と親鸞聖人の念仏についての見解の違い

前回の続きです。

 
法然上人は明らかに、自力の念仏を勧められています。しかも、自力の念仏から他力の念仏になるという意味合いです。
親鸞聖人は、それを否定されてはいません。
それは『浄土和讃』大経讃に
 
定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する
 
とあることからも判ります。
 

しかしながら、前回も言いましたように、親鸞聖人に積極的な自力の念仏の勧めというのはないのです。つまり、法然上人の教えられたこととは若干のずれがあるのです。

 
たとえば『選択本願念仏集』で法然上人はこのように仰っています。
 
わたくしにいはく、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず」といふは、諸余の雑行はかの国に生じがたし。ゆゑに「随縁雑善恐難生」といふ。少善根とは多善根に対する言なり。しかればすなはち雑善はこれ少善根なり、念仏はこれ多善根なり。ゆゑに龍舒の『浄土文』にいはく、「襄陽の石に『阿弥陀経』を刻れり。すなはち隋の陳仁稜が書けるところの字画、清婉にして人多く慕ひ玩ぶ。〈一心不乱〉より下に、〈専持名号以称名故諸罪消滅即是多善根福徳因縁〉といふ。今世の伝本にこの二十一字を脱せり」と。{以上}
ただ多少の義あるのみにあらず。また大小の義あり。いはく雑善はこれ小善根なり、念仏はこれ大善根なり。
 
(現代語訳)
 
わたくしにいう。 「少善根福徳の因縁をもっては、 かの国に生まれることはできない」 というのは、 念仏よりほかのいろいろの自力の行では、 かの国に生まれ難いから、 「おのおのの根機に応じて作った雑善では恐らくは生まれがたい」 というのである。
少善根というのは、 多善根に対する言葉である。 そうであるから雑善は少善根であり、 念仏は多善根である。 そこで、 龍舒の『浄土文』に、
「襄陽にある石に刻んだ『阿弥陀経』は、 すなわち隋の陳仁稜が書いたもので、 字がうるわしく、 人が多く慕い愛でるが、 「一心にして乱れず」 の下に 「専ら名号を持ち、 名を称するを以ての故に諸罪消滅す。 即ち是れ多善根福徳の因縁なり」 と記されてある。 今の世に伝わる本には、 この二十一字が脱ぬけている。」 以上
といってある。
ただに多少の義があるばかりではなく、 また大小の義もある。 すなわち雑善は小さい善根であり、 念仏は大きい善根である。 
 
ここで法然上人が仰っていることは、諸善は「少善根福徳の因縁」であるから浄土に生まれることはできないが、念仏は「多善根福徳の因縁」であるから浄土に生まれることができるのだ、ということです。化土往生については仰っていないので、18願の報土往生について念仏は「多善根福徳の因縁」だということになります。
 
ところが親鸞聖人はこの襄陽の石碑について『教行信証』化土巻の真門釈でこのように仰っています。
 
元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。{以上} 
 
(現代語訳)
 
元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。 
「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>」 
 
化土巻の真門釈ですから、親鸞聖人は20願の自力の念仏についてと解釈されているのです。
法然上人は、念仏は「多善根福徳の因縁」だから報土往生できるのだと教えられ、
親鸞聖人は、自力の念仏は「多善根福徳の因縁」だから化土往生できるのだと教えられた
ということになります。
 
念のためもう一度言いますが、
 
親鸞聖人は法然上人の教えられたことを否定はされていません。しかし、念仏についての見解には、ずれがあるのです。
親鸞聖人は、自力の念仏を否定されてはいませんが、積極的な勧め方をされていないということは、知っておかねばなりません。

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コメント

前にお念仏のことで「よく分からなかった」のですが、今回の記事で、よく分かりました。ありがとうございました。

投稿: よく分かりません | 2019年6月11日 (火) 13時53分

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