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2019年6月29日 (土)

善導大師に徹底的に扱き下ろされた高森顕徹会長

明日の高森顕徹会長の話は、ドクターストップのため、中止となりました。毎度毎度のことですから、会員も恒例行事くらいにしか思っていない人がほとんどのようです。

さて、前回の高森会長の話でも因果の道理のことを言っていましたが、因果の道理を信じていたなら、阿弥陀仏に救われる人と救われない人の差は、過去世において何らかの因縁があったに違いないと考えるのが当然です。因果の道理を深信していた聖道門の人からすると、阿弥陀仏に救われる人は過去世に相当の善をしてきた人でなければ筋が通らないと考え、それが宿善という概念に繋がってくるわけです。つまり高森会長の宿善論は、聖道門と全く同じです。

この聖道門の概念を徹底的に論破されたのが、浄土門の善知識方でありました。

善導大師は、『玄義分』でこう仰っています。

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。 なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。 悪業をもつてのゆゑなり。 終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。 かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。 なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。
もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗を始めて学ぶ十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
(中略)
下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗を始めて学ぶ十信位の人ということができようか。もし他師らのような考えをするならば、みずから利益を失い他をあやまらせて、害をなすことがいよいよ甚だしい。

『観無量寿経』の中で、下品上生から下生までの悪人が往生できたのは、過去世に大乗仏教に遭った十信位の人であると聖道門の諸師が解釈しているのは間違いだと、厳しく非難為されています。「仏法・世俗の二種の善根あることなし」です。過去にも現在にも全く善根がないということですから、全くの無善の人であり、仏法も聞いてこなかった人だと善導大師は断言されているのです。一応言っておきますが、雑毒の善は悪ではなく善ですから、雑毒の善をしてきた人は、ここには入りません。雑毒の善も高森会長の勧める聞法善も、朝晩のお勤めも親切などの善もしてこなかった人のことを善導大師は「下輩の三人」と定義されていることが判ります。

ただ、現実には人間界に生まれるには、さすがに無善では生まれられないので、言い過ぎという感じはしますが、善導大師としては聖道門の諸師に対して「阿弥陀仏のお力をどれだけ軽んじているのか」、という激しい怒りで、「もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。」とまで扱き下ろされたのでしょう。

したがいまして善導大師が高森会長の宿善論を知られたら、「もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし」と躊躇なく大喝せられるでしょう。

高森会長が『玄義分』を読んでいるわけがないので、聖道門の諸師と同じ主張を平気で言えることも判ります。

もちろん、善導大師だけがこのように仰っているのではありません。次回は源信僧都がどう仰っているか述べます。

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コメント

私は学生時代不真面目で非行を繰り返し、親から金銭を盗んで学校に行かず遊んだりといったことをしてきました。善は何もしてません。こういう私が念仏で極楽に行けるでしょうか?

投稿: 丸山紗希 | 2019年7月 2日 (火) 23時27分

親殺しの罪でさえ、何の障りもなく往生できるのですから、十悪は尚更です。
このような悪をしたら往生できないのではないかと思うことを、仏智疑う罪と親鸞聖人は仰り、無明とも言われます。
だからと言って、悪をどれだけしても構わないから敢えて悪をしていくのは、造悪無碍と言われる異安心です。

投稿: 飛雲 | 2019年7月 3日 (水) 05時56分

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