« 2019年5月 | トップページ | 2019年7月 »

2019年6月

2019年6月29日 (土)

善導大師に徹底的に扱き下ろされた高森顕徹会長

明日の高森顕徹会長の話は、ドクターストップのため、中止となりました。毎度毎度のことですから、会員も恒例行事くらいにしか思っていない人がほとんどのようです。

さて、前回の高森会長の話でも因果の道理のことを言っていましたが、因果の道理を信じていたなら、阿弥陀仏に救われる人と救われない人の差は、過去世において何らかの因縁があったに違いないと考えるのが当然です。因果の道理を深信していた聖道門の人からすると、阿弥陀仏に救われる人は過去世に相当の善をしてきた人でなければ筋が通らないと考え、それが宿善という概念に繋がってくるわけです。つまり高森会長の宿善論は、聖道門と全く同じです。

この聖道門の概念を徹底的に論破されたのが、浄土門の善知識方でありました。

善導大師は、『玄義分』でこう仰っています。

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。 なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。 悪業をもつてのゆゑなり。 終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。 かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。 なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。
もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗を始めて学ぶ十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
(中略)
下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗を始めて学ぶ十信位の人ということができようか。もし他師らのような考えをするならば、みずから利益を失い他をあやまらせて、害をなすことがいよいよ甚だしい。

『観無量寿経』の中で、下品上生から下生までの悪人が往生できたのは、過去世に大乗仏教に遭った十信位の人であると聖道門の諸師が解釈しているのは間違いだと、厳しく非難為されています。「仏法・世俗の二種の善根あることなし」です。過去にも現在にも全く善根がないということですから、全くの無善の人であり、仏法も聞いてこなかった人だと善導大師は断言されているのです。一応言っておきますが、雑毒の善は悪ではなく善ですから、雑毒の善をしてきた人は、ここには入りません。雑毒の善も高森会長の勧める聞法善も、朝晩のお勤めも親切などの善もしてこなかった人のことを善導大師は「下輩の三人」と定義されていることが判ります。

ただ、現実には人間界に生まれるには、さすがに無善では生まれられないので、言い過ぎという感じはしますが、善導大師としては聖道門の諸師に対して「阿弥陀仏のお力をどれだけ軽んじているのか」、という激しい怒りで、「もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。」とまで扱き下ろされたのでしょう。

したがいまして善導大師が高森会長の宿善論を知られたら、「もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし」と躊躇なく大喝せられるでしょう。

高森会長が『玄義分』を読んでいるわけがないので、聖道門の諸師と同じ主張を平気で言えることも判ります。

もちろん、善導大師だけがこのように仰っているのではありません。次回は源信僧都がどう仰っているか述べます。

| | コメント (2)

2019年6月25日 (火)

高森顕徹会長の宿善論は完璧に「真宗の廃立にそむき、祖師の御遺訓に違せり」

今回の高森顕徹会長の話で、宿善を厚くする方法として、

1.聞法善
2.朝晩のお勤め
3.親切など

と黒板に書いていました。
薄い宿善が、これらをすることによって厚くすることができるということです。
ではその根拠があるかと言えばありません。ただし、この元となったのが親鸞会でも有名な香樹院師の語録です。
加藤智学編『香樹院講師語録』より

禅僧弘海曰く。予かつて師に問う、
私、浄土真宗の教えに帰し、
御講師に随い聴聞いたせども、
未だ心に聞え申さず、如何致すべく候や、と。
師の仰せに、
汝まづ聖教を熟覧せよ、と。

則ち命のごとく拝見候いしが、文義はわかれども、
我が出離にかけて思えば、往生一定ならず。
再び、如何せんと問い参らす。
師曰く、よく聞くべし、と。

予聞いて云わく、
よく聞くとは如何聞くべきや。
師曰く、骨折って聞くべし。

予云わく、
骨折るとは、遠路を厭わず聞き歩くことに候や、
衣食も思わず聞くことに候や。
師曰く、しかり。

予また問うて云わく、
しからば、それほどに苦行せねば聞えぬならば、
今までの禅家の求法と何の別ありや。
師呵して曰く、
汝法を求むる志なし、いかに易行の法なりとも、
よく思え、今度佛果を得る一大事なり。
しかるに切に求法の志なき者は、
これを聞き得ることをえんや、ああうつけ者かな、と。

予云わく、
しからば身命を顧みぬ志にて、聞くことなりや。
師曰く、
もっともしかり。切に求むる志なくして、
何ぞ大事を聞きえんや。
また曰く、常に絶え間なく聞くべし、と。

予問い参らするよう、
それはその志にて聴聞つかまつれども、
法縁の常になきを如何致すべきや、と。
師その時に、
何ぞ愚鈍なることを云うぞ。法話なき時は、
聞きたることを常に思うべし。
聞く間ばかり聞くとは云わぬぞ。
また曰く、
汝眼あり、常に聖教を拝見すべし、
これまた法を聞くなり。
もしまた世事にかかりあい、聞見常に縁なき時は、
口に常に名号を称すべし、これまた法を聞くなり。
汝信を得ざるは業障の故なり。
さればいよいよ志を励まし、かくの如く常に心を砕き、
よく聞けよ。信を得る御縁は聞思に限るなり、と。

聞法、聖教を読むこと、そして念仏を称えること、とありますが、これを悪意で、上記のように改竄したのです。ところが最近は、念仏も宿善になるといっているので、香樹院師の内容に近付けているともいえます。

この香樹院師の言っている意図は判りますが、表現としては問題があります。

覚如上人の『改邪鈔』には、このようにあります。

しかるをいま風聞の説のごとくんば、「三経一論について文証をたづねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもつて、〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」と[云々]。これをもつて一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といへり。正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからずと[云々]。そのゆゑは願力の不思議をしらざるによりてなり。当教の肝要、凡夫のはからひをやめて、ただ摂取不捨の大益を仰ぐものなり。

簡単に言うと、

雑行を止めて正行を修しなさいと勧める人があるが、それは親鸞聖人の教えに背いている。
なぜなら、親鸞聖人は自力の称名念仏さえ誡められているのに、助業を勧めるのは阿弥陀仏のお力を全く知らないからである。
凡夫のはからいを捨てて、摂取不捨の大益を仰ぎなさい。

ということです。

香樹院師の結論は聞きなさいですから、意図は正しいのですが、それを自力の行で宿善を厚くすることと理解したら間違いです。

これまでのエントリーでも言ってきましたが、親鸞聖人は聖教上で自力の念仏を勧められたお言葉はないのです。同様に、自力の聞法を勧められたお言葉もありません。ましていわんや、親切等の善を勧められた親鸞聖人のお言葉があると言っている高森会長は、親鸞聖人の教えに疎いにも程があるというものです。

もちろん、阿弥陀仏の救いについて知らなくては話になりませんので、教えを聞いて知ることは前提として必要でしょうからその意味で信前に一生懸命に聞くことは良いことです。しかし、教えを聞くことで宿善が厚くなって救われるのではありません。

教えを聞いてそのまま受け取りなさい

が、親鸞聖人の仰る、”救われる方法”になります。親鸞聖人は最初から他力の念仏を勧められた、ということを以前から言ってきましたが、同じことで親鸞聖人は最初から他力の意味での「聞法」を勧められているのです。それを覚如上人は「ただ摂取不捨の大益を仰ぐものなり」と絶妙な表現をされています。
雑行を修して正行も修すべし」と勧める頓珍漢な高森会長と愉快な仲間達には、到底理解できない境地でしょう。

| | コメント (25)

2019年6月23日 (日)

高森顕徹流ヘンテコ宿善論復活

本日の高森顕徹会長の話は、また過激な邪義に逆戻りでした。前回の話の時に、邪義が落ち着いてきたと評価しましたので、天邪鬼の高森会長が昔の邪義を復活させたというところでしょうか。あるいは、映画の評判が会員にも良くないので、会員の心を引き留めるために話を昔の通りに戻したのかもしれません。

内容は、宿善についてでした。『本願寺なぜ答えぬ』でも書いていた宿善を厚くする方法についてと言った方が正確です。少し前に”縁の浅い会員”が、「高森会長は宿善を厚くする話をしていない」、とか言って、私を批判してきたことがありましたが、現実に、宿善を厚くして救われるという話を今でもしていることが、これで証明されたのです。それでも思考停止の会員は「そんなことを高森先生は仰っていない。そんな聞き方だから親鸞会を辞めたんだろう。」とか言ってくるかもしれません。かわいそうに。

さて今回の宿善の話で出した根拠の一つが『御一代記聞書』の

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。
已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。
昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

です。『なぜ生きる2』18章でも最後の2文を除いて取り上げられています。
ただし、この意味がまた無茶苦茶です。この意訳として

陽の当たるところの花は速く咲き、日蔭の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。聞法を怠れば日蔭の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人があるのは、人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

としています。
かなり無理な訳にしていることがお判りでしょうか。
最も問題なのが

かように宿善も遅速あり

ですが、この意味は高森顕徹会長の言葉を使うなら、

同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人がある

です。

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ

の意味はありません。
その証拠をお見せしましょう。

このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。事実、『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分は

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

です。
ここに書かれてあることは、
阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについてです。
『御一代記聞書』と比較するとよく判ります。

已今当の往生あり(『御一代記聞書』)
=すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり(『安心決定鈔』)
=已・今・当の三世の往生は不同なれども(『安心決定鈔』)

このことより、

宿善も遅速あり(『御一代記聞書』)
=仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば(『安心決定鈔』)
=覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり(『安心決定鈔』)

となります。

ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に

昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とありますので、『御一代記聞書』の「宿善」とは、信心のことを指していることがお判り頂けると思います。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と教えられたお言葉と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

に、そのことが明確に解説されています。
要するに、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

結局

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。

こんな意味になることは、100%あり得ません。
今回のエントリーは、人並みの読解力がないと理解できない内容ですから、国語の成績が良くない人は、国語の成績の良い人に解説してもらってきてください。その上で、反論があるなら、いつでも反論を受け付けます。コメント欄で削除されるとか言うのなら、私が消すことのできない公平などこかの掲示板でも結構ですから反論を書いて、そこでやり取りをしますよ。
それだけの勇気があるならですが。

| | コメント (0)

2019年6月16日 (日)

「一心に正念にしてただちに来れ」の本願招喚の勅命

念仏については、自力他力があり、勧められているのか勧められていないのか、単純な話ではありませんので、もう少し説明します。

阿弥陀仏の18願は、二河白道の譬えの中で、阿弥陀仏の喚び声で表現されています。

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

この解説は『浄土文類聚鈔』にあります。

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。

阿弥陀仏は、我々に対して「ただちに来れ」と喚んでおられますが、その条件が、「一心に正念にして」です。「一心」については、言い換えをたくさんされていますが、判りやすいお言葉では「真実信心」です。「正念」については、「正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。」と仰っていますので、念仏です。
要するに、真実の信心で念仏してただちに来なさい、と阿弥陀仏が仰っているのだと解釈されたのが親鸞聖人です。これが本願招喚の勅命です。

自力の念仏を称えて来なさい、でもなく、念仏称えずに来なさい、でもないです。他力の念仏を称えて来なさい、ですので、念仏は往生の条件だと親鸞聖人が仰っているのです。

では、阿弥陀仏の喚び声を聞く前は、何かをしてこいと仰っているかと言えば、二河白道の譬えには何も仰っていませんので、親鸞聖人の教えでは、最初から他力の念仏が勧められているとしか言いようがないのです。

しかしながら、自力の信心で念仏の行に励む人がいますので、そういう人に対して親鸞聖人は、誡めのお言葉をたくさん残しておられことを以前にも書いた通りです。

最も厳しくしかも詳しく仰ったのが、『教行信証』化土巻の真門釈で、その結論が、

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

(現代語訳)

大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

です。
ここを注意深く読むと判りますが、悪人は入っていないのです。「本願の嘉号をもつておのれが善根とする」のは善人であって、悪人は「本願の嘉号をもつておのれが善根とする」ことがないということです。悪人の定義が、善ができないし、善をしようとも善ができるとも思っていない人のことですので、このように親鸞聖人は仰ったのであろうと思われます。

そうなりますと、親鸞聖人が唯一、自力の念仏を勧められたと言える真門釈の最初にある

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。

は、善人に対してのことであり、聖道門及び要門にいる人に対してのお言葉とみるべきでしょうから、結局は、すべての人に対して親鸞聖人が自力の念仏を勧められたお言葉というのは、聖教上ではないことになります。

念仏を中途半端にしか理解できていないと、何十年と布教使を続けていても親鸞聖人の教えは半分も判らないでしょう。

| | コメント (8)

2019年6月10日 (月)

法然上人と親鸞聖人の念仏についての見解の違い

前回の続きです。

 
法然上人は明らかに、自力の念仏を勧められています。しかも、自力の念仏から他力の念仏になるという意味合いです。
親鸞聖人は、それを否定されてはいません。
それは『浄土和讃』大経讃に
 
定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する
 
とあることからも判ります。
 

しかしながら、前回も言いましたように、親鸞聖人に積極的な自力の念仏の勧めというのはないのです。つまり、法然上人の教えられたこととは若干のずれがあるのです。

 
たとえば『選択本願念仏集』で法然上人はこのように仰っています。
 
わたくしにいはく、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず」といふは、諸余の雑行はかの国に生じがたし。ゆゑに「随縁雑善恐難生」といふ。少善根とは多善根に対する言なり。しかればすなはち雑善はこれ少善根なり、念仏はこれ多善根なり。ゆゑに龍舒の『浄土文』にいはく、「襄陽の石に『阿弥陀経』を刻れり。すなはち隋の陳仁稜が書けるところの字画、清婉にして人多く慕ひ玩ぶ。〈一心不乱〉より下に、〈専持名号以称名故諸罪消滅即是多善根福徳因縁〉といふ。今世の伝本にこの二十一字を脱せり」と。{以上}
ただ多少の義あるのみにあらず。また大小の義あり。いはく雑善はこれ小善根なり、念仏はこれ大善根なり。
 
(現代語訳)
 
わたくしにいう。 「少善根福徳の因縁をもっては、 かの国に生まれることはできない」 というのは、 念仏よりほかのいろいろの自力の行では、 かの国に生まれ難いから、 「おのおのの根機に応じて作った雑善では恐らくは生まれがたい」 というのである。
少善根というのは、 多善根に対する言葉である。 そうであるから雑善は少善根であり、 念仏は多善根である。 そこで、 龍舒の『浄土文』に、
「襄陽にある石に刻んだ『阿弥陀経』は、 すなわち隋の陳仁稜が書いたもので、 字がうるわしく、 人が多く慕い愛でるが、 「一心にして乱れず」 の下に 「専ら名号を持ち、 名を称するを以ての故に諸罪消滅す。 即ち是れ多善根福徳の因縁なり」 と記されてある。 今の世に伝わる本には、 この二十一字が脱ぬけている。」 以上
といってある。
ただに多少の義があるばかりではなく、 また大小の義もある。 すなわち雑善は小さい善根であり、 念仏は大きい善根である。 
 
ここで法然上人が仰っていることは、諸善は「少善根福徳の因縁」であるから浄土に生まれることはできないが、念仏は「多善根福徳の因縁」であるから浄土に生まれることができるのだ、ということです。化土往生については仰っていないので、18願の報土往生について念仏は「多善根福徳の因縁」だということになります。
 
ところが親鸞聖人はこの襄陽の石碑について『教行信証』化土巻の真門釈でこのように仰っています。
 
元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。{以上} 
 
(現代語訳)
 
元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。 
「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>」 
 
化土巻の真門釈ですから、親鸞聖人は20願の自力の念仏についてと解釈されているのです。
法然上人は、念仏は「多善根福徳の因縁」だから報土往生できるのだと教えられ、
親鸞聖人は、自力の念仏は「多善根福徳の因縁」だから化土往生できるのだと教えられた
ということになります。
 
念のためもう一度言いますが、
 
親鸞聖人は法然上人の教えられたことを否定はされていません。しかし、念仏についての見解には、ずれがあるのです。
親鸞聖人は、自力の念仏を否定されてはいませんが、積極的な勧め方をされていないということは、知っておかねばなりません。

| | コメント (1)

2019年6月 4日 (火)

親鸞聖人が他力の念仏を最初から勧められたことを知らない親鸞会

某所で某退会者が教義について書いた内容を、親鸞会の講師部員が間違いを指摘して、あっけなく退会者が論破されることが繰り返されました。正直言いまして、擁護しようのない内容でしたので、当然の結末でしょう。親鸞会を論破することなど、実に容易いのですが、だからと言って親鸞会と同じように聖教に基づかない創作教義を持ち出しても親鸞会を論破できると思ったら大間違いです。

退会者も、親鸞会を邪義と批判するなら、自分が邪義を言わないように聖教をよく読むことを勧めます。

さて、高森顕徹会長の邪義は邪義のままですが、その邪義の内容は変化してきています。念仏誹謗に近い念仏軽視から、念仏の肯定に転じてきたことは、ある意味評価しても良いです。もちろん、邪義は邪義ですが、過激な邪義から落ち着いた邪義に変わったことは認めましょう。

この念仏については、実は簡単に説明できる内容ではありません。特に信前の念仏について親鸞聖人が勧められている、とは単純に言い切れないからです。

『正像末和讃』誡疑讃23首についてほとんどが自力の念仏についてですが、例えば最初の2首は

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

とあるように、自力の念仏では化土にしか往けない、という誡めとして仰っているのであって、自力の念仏を勧められているのではありません。

この後にある

信心のひとにおとらじと
 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり
 称名念仏はげむべし

は自力の念仏を勧められているお言葉だと思う人もあるでしょうが、この誡めの流れの中ですので、「如来大悲の恩をしり」が他力の信心を獲ての意味になり、信後他力の「称名念仏はげむべし」となります。

似たような勘違いをしやすいのが『高僧和讃』龍樹讃の

不退のくらゐすみやかに
 えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して
 弥陀の名号称すべし

です。これは龍樹菩薩の教えられた内容ですので、『正信偈』で言えば

唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

と同じで、「恭敬の心に執持して」が他力の信心を獲ての意であり、信後他力の「弥陀の名号称すべし」です。

つまり、親鸞聖人の御著書の中で、信前の自力の念仏を勧められた直接のお言葉というものがないのです。ただし、20願から18願へ転入するというお言葉はあります。

では念仏を勧められていないのかと言えば、『教行信証』行巻を読めば判りますが、行巻にある他力の念仏を勧められています。

自力の念仏を飛ばしていきなり他力の念仏?

と思われるかもしれませんが、聖教上ではそのようにしか書かれていません。

典型的なのが『安楽集』を引かれた

『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。

(現代語訳)

『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。

です。
行巻ですので、他力の念仏についての内容として親鸞聖人が顕わされた内容になります。

とはいうものの、他力の念仏の前には、自力の念仏が通常はありますので、自力の念仏を誡めはされても否定されているのでないことは、普通に考えれば判る話でしょう。

まだまだ説明が必要ですが、今回はここまでで。

| | コメント (6)

« 2019年5月 | トップページ | 2019年7月 »