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2019年5月12日 (日)

係念の宿善?の念仏を勧めた?高森顕徹会長?

本日の高森顕徹会長の話は、いつもとは違う意味で驚きの内容でした。聖人一流の章を通しての話でしたが、その中で、念仏について以下のような発言がありました。

信心を獲てお礼の念仏を称えさせていただく身になるまでの念仏は、無意味ではなく宿善になる

親鸞聖人の教えとしては問題がありますが、高森会長が信前の念仏を”宿善”として肯定した話は、記憶にありません。しかし、絶版となった『会報』の第三集には

係念の宿善というのは過去に於て自力ながらも心を阿弥陀仏一仏にかけて念仏してきた善根をいい、諸仏の浄土を願わず、ただ弥陀一仏に念を係けて来たのだから係念といわれる。
『大無量寿経』には、これを「若人無善本」といい、二十願には「植諸徳本」と説かれている。『定善義』に「過去已曾・修習此法・今得重聞」とあるのも、この係念の宿善を示すものである。

とありますので、高森会長の頭の中では、信前の自力の念仏を肯定しています。しかし、それでは金集め人集めができないので、会員向けにはそれを封印して諸善を強力に勧めてきた歴史があります。
その一例が、9年前にmixi上で高森会長と退会者の間で行われた三願転入の法論です。退会者からの質問に高森会長が会心の一撃のつもりで答えたのが以下です。

4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠

これは、確かに申し上げました。
根拠は、

いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)

の一言で充分でありましょう。

この高森会長の答えに対する退会者の反論が以下でした。

蓮如上人が仰る宿善(『御文章』3帖目第12通)

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

蓮如上人が仰っている宿善とは、『口伝鈔』の

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

を受けて仰っています。
宿善の機とは、「浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。
蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。

『会報』の内容と照らし合わせるとお判りになると思いますが、蓮如上人が「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」と仰っている「宿善」の元の根拠が高森会長が係念の宿善の根拠として挙げた「若人無善本」(『大無量寿経』)と「過去已曾・修習此法・今得重聞」(『定善義』)なのです。
つまり、『会報』の高森論に従うなら、「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」は、係念の宿善である信前の自力の念仏のことを指していることになるのです。

そのことに気が付いたのでしょう、その後、高森会長は「宿善」について言及することなく、退会者のこの反論を完全無視しました。

このような高森会長が封印してきたものを解いたという点では、驚きとともに、一定の評価をしておきましょう。

ただしです、親鸞聖人が信前の念仏を「宿善」として教えられたことはありませんし、信前の念仏を積極的に勧められた御文もありません。蓮如上人も信前の念仏を積極的に勧められた御文はありません。寧ろ、自力の念仏を誡められた御文ばかりです。だからと言って、親鸞聖人、蓮如上人が信前の念仏を否定されたことはありませんし、勧められていることは、言うまでもないことです。

時代背景等の様々な理由はあると思いますが、信前の自力の念仏については、そのようなバランスの上で親鸞聖人、蓮如上人は教えられていることを知っていおくべきでしょう。

今回の高森会長のこの発言は、信前の自力の念仏の積み重ねで「宿善」が厚くなって救われる、という意味では間違いですが、諸善を勧めて「宿善」を厚くするという従来の話から比べると、余程ましということです。

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コメント

私の記憶に間違いがなければ30数年前の親鸞会では「信前の念仏は宿善になる」という教え方を普通にしておりました。
高森会長も時々、聴聞で「宿善になることなのに親鸞会の人はお念仏を称えることが少ないなと、常々、私も思っています」などと笑いながら
ぼやくような言い方で話しておりました。この言葉が出てくると聴衆からも失笑が起きるというのがパターンでした。
今でもこの会長と聴衆の「笑い」の意味がわかりません。
傍目で見るとまるで「念仏を小馬鹿にしている」というような感じだったと思います。

よく「会長の話は年月とともにずっと変わっている」と聞きますが、こういう念仏の扱いも変わっていることのように思います。

投稿: 園児 | 2019年5月12日 (日) 23時31分

園児様

そう言われてみると、そんなことがあったような気もします。
私が記憶しているのは、30年ほど前、信前の念仏についての質問があった時に高森会長が「どう答えたらいいかな」と返答に少し困って、当時長老会員であった岐阜のK氏に話を振って、K氏が壇上に上がって「高森先生が答えられないことを私が答えるのもなんですが」といいながら、いろいろ説明する中で「宿善になる」というフレーズを言って、高森会長はそれを受けて「皆さん、念仏を称えてください」と冗談ぽく言ったことです。
宿善になる行として二番目に五正行を入れていましたので、称名正行が宿善になるということは理屈の上では会員も理解していたと思いますが、明確に「宿善になる」という言い方で念仏を勧めた記憶はないです。

投稿: 飛雲 | 2019年5月13日 (月) 06時00分

飛雲様

確かに表立って「信前の念仏が宿善になる」とは教えていませんでした。聴聞会場でも常日頃、念仏を称えている人は皆無でした。

「救われるのには宿善が最も大事」

「念仏は宿善になる」

「でも(親鸞会では)誰も念仏を称えていない」

これはもう三段論法にもなっていない話でした。この辺で「この団体はおかしい」と気付かなければいけませんが、MCされているとわかりませんでした。

いずれにしても宿善論で親鸞会が敗退する前の話です。その頃のイメージは

「人間誰しも大きな寸胴ナベのような宿善の格納器を持っており、そこにせっせとヒシャクで宿善を足していく。そして、いつかある日寸胴ナベが一杯になり、中の宿善があふれ出す時が来る。それが『信心決定』の時だ。」

という物でした。この話のミソは誰も自分の「寸胴ナベ」の容量も「ヒシャク」の容量も知らないと言うことです。ただ、「ヒシャク」には大小があり、大は「聴聞」「財施」「破邪顕正」で、小は「教学」「世間的な善」「念仏」といった所です。会員は「宿善を積もう」とせっせと活動して行くわけですが、いやになると地獄脅しで引き止められるという流れでした。

その後の教えの変遷で言葉遣いが変わっていても基本的には同じだと思います。書いたものを読み返しても、とても浄土門の教えとは思えませんね。

投稿: 園児 | 2019年5月13日 (月) 08時15分

今回もまとめありがとうございます。私は数年間、学徒でしたが信前の念仏について、会長が言及するところは全く見たことがありませんでした。記憶が抜けているだけかもしれませんが、今回の話は驚きですね。ようやく、親鸞会の教えが19願から20願へ移りかけている、というところでしょうか。

阿弥陀仏の本願は、そのまま救うの教えであり、諸善も功徳もいらないのですが、相変わらずの宿善論を会長はしているのですね。

投稿: とある元学徒 | 2019年5月14日 (火) 09時15分

ずっーと、肝心なのは信心だ 自力の念仏は役に立たない という感じで口を塞いでいたのが親鸞会の主張の根幹だったと思います。

投稿: | 2019年5月14日 (火) 13時17分

「ただし」以降の前段で「親鸞聖人、蓮如上人も信前の念仏を勧められていません」とありながら、後段では「信前の念仏を勧められています」とありますね?

投稿: よく分かりません | 2019年5月14日 (火) 13時37分

「ただし」以降の前段で「親鸞聖人、蓮如上人も信前の念仏を勧められていません」とありながら、後段では「信前の念仏を勧められています」とありますね?

投稿: よく分かりません | 2019年5月14日 (火) 13時38分

よく分かりません様

注意して読んでください。

「信前の念仏を積極的に勧められた御文もありません。」

「積極的に」です。つまり、控えめに勧められているということです。

投稿: 飛雲 | 2019年5月14日 (火) 13時43分

「(信前の念仏は)控えめには、勧められています。」と「自力の念仏は誡められています。」
信前の念仏と自力の念仏は、同じですか?
異なりますか?
ごめんなさい。よく分からないので

投稿: よく分かりません | 2019年5月17日 (金) 19時41分

「(信前の念仏は)控えめには、勧められています。」と「自力の念仏は誡められています。」
信前の念仏と自力の念仏は、同じですか?
異なりますか?
ごめんなさい。よく分からないので

投稿: よく分かりません | 2019年5月17日 (金) 19時41分

「(信前の念仏は)控えめには、勧められています。」と「自力の念仏は誡められています。」
信前の念仏と自力の念仏は、同じですか?
異なりますか?
ごめんなさい。よく分からないので

投稿: よく分かりません | 2019年5月17日 (金) 19時41分

同じです

投稿: 飛雲 | 2019年5月17日 (金) 19時43分

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