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2019年5月

2019年5月19日 (日)

大沼法竜師の説明を受け売りして恥をかき続ける高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、また

「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」とは、どんなことでしょうか」

との質問に答える座談会でした。

自分の創作した言葉の解説を延々とし続ける意図は、批判されることへの恐れを抱いた自信のなさの表われです。

いつもの邪義の連続で大した話はありませんでしたが、邪義の中で一つだけ取り上げておきます。

阿弥陀仏が「すべての人」を「極重の悪人」と見て取られて本願を建てられた

というところです。大沼法竜師が言われていたことの受け売りですが、これは間違いです。

極重の悪人」とは、『正信偈』の

極重悪人唯称仏

から取っているのでしょうが、この元は源信僧都の『往生要集』の

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

です。『観無量寿経』の内容を示されたものですが、この更に元は、善導大師の弟子であった懐感禅師の『釈浄土群疑論』にある

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

です。ここで『観無量寿経』の九品について見てみますと、

「上品上生」「上品中生」「上品下生」は、行福を行じている善人
「中品上生」「中品中生」は、戒福を行じている善人
「中品下生」は、世福を行じている善人
「下品上生」「下品中生」「下品下生」は、無三福の悪人

となります。したがって、源信僧都の仰る「極重の悪人」とは、悪人の中の最も下に当たる「下品下生」のことを指しているのは浄土門の常識です。源信僧都が仰っていることは、「下品下生」の「極重の悪人」は、念仏だけを勧められていて善という方便がない、その念仏を称えて極楽に往生する、と『観無量寿経』に説かれている、ということです。

これがどういうことかというと、「上品上生」から「中品下生」までの善人がいるということであり、悪人でも「下品上生」「下品中生」もいるということです。

そんなことはない、親鸞聖人は全人類を「極重の悪人」とみておられた!!!

と根拠のない反論をしてくるでしょうから、この御文を使って言い換えられた親鸞聖人の御文を示しておきます。『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられて、『教行信証』化土巻の要門釈で

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰っています。「極重の悪人」には他の方便がありませんが、善人である「定散の諸機」には他の方便がありますので、「定散の諸機」の入ったこの御文には「他の方便なし」が無くなっています。

なぜかって、「定散の諸機」がいるからです。

それでも納得しないでしょうからもう一つ信巻から

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

高玉・智覚禅師は、上品だということです。

高森会長の邪義など、たやすく暴くことができます。なぜなら、その程度の人物だからです。

 

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2019年5月12日 (日)

係念の宿善?の念仏を勧めた?高森顕徹会長?

本日の高森顕徹会長の話は、いつもとは違う意味で驚きの内容でした。聖人一流の章を通しての話でしたが、その中で、念仏について以下のような発言がありました。

信心を獲てお礼の念仏を称えさせていただく身になるまでの念仏は、無意味ではなく宿善になる

親鸞聖人の教えとしては問題がありますが、高森会長が信前の念仏を”宿善”として肯定した話は、記憶にありません。しかし、絶版となった『会報』の第三集には

係念の宿善というのは過去に於て自力ながらも心を阿弥陀仏一仏にかけて念仏してきた善根をいい、諸仏の浄土を願わず、ただ弥陀一仏に念を係けて来たのだから係念といわれる。
『大無量寿経』には、これを「若人無善本」といい、二十願には「植諸徳本」と説かれている。『定善義』に「過去已曾・修習此法・今得重聞」とあるのも、この係念の宿善を示すものである。

とありますので、高森会長の頭の中では、信前の自力の念仏を肯定しています。しかし、それでは金集め人集めができないので、会員向けにはそれを封印して諸善を強力に勧めてきた歴史があります。
その一例が、9年前にmixi上で高森会長と退会者の間で行われた三願転入の法論です。退会者からの質問に高森会長が会心の一撃のつもりで答えたのが以下です。

4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠

これは、確かに申し上げました。
根拠は、

いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)

の一言で充分でありましょう。

この高森会長の答えに対する退会者の反論が以下でした。

蓮如上人が仰る宿善(『御文章』3帖目第12通)

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

蓮如上人が仰っている宿善とは、『口伝鈔』の

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

を受けて仰っています。
宿善の機とは、「浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。
蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。

『会報』の内容と照らし合わせるとお判りになると思いますが、蓮如上人が「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」と仰っている「宿善」の元の根拠が高森会長が係念の宿善の根拠として挙げた「若人無善本」(『大無量寿経』)と「過去已曾・修習此法・今得重聞」(『定善義』)なのです。
つまり、『会報』の高森論に従うなら、「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」は、係念の宿善である信前の自力の念仏のことを指していることになるのです。

そのことに気が付いたのでしょう、その後、高森会長は「宿善」について言及することなく、退会者のこの反論を完全無視しました。

このような高森会長が封印してきたものを解いたという点では、驚きとともに、一定の評価をしておきましょう。

ただしです、親鸞聖人が信前の念仏を「宿善」として教えられたことはありませんし、信前の念仏を積極的に勧められた御文もありません。蓮如上人も信前の念仏を積極的に勧められた御文はありません。寧ろ、自力の念仏を誡められた御文ばかりです。だからと言って、親鸞聖人、蓮如上人が信前の念仏を否定されたことはありませんし、勧められていることは、言うまでもないことです。

時代背景等の様々な理由はあると思いますが、信前の自力の念仏については、そのようなバランスの上で親鸞聖人、蓮如上人は教えられていることを知っていおくべきでしょう。

今回の高森会長のこの発言は、信前の自力の念仏の積み重ねで「宿善」が厚くなって救われる、という意味では間違いですが、諸善を勧めて「宿善」を厚くするという従来の話から比べると、余程ましということです。

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