18願文さえもまともに理解できない高森顕徹会長とその信者達
本日も、間抜けな話をした高森顕徹会長でした。その典型が、18願文を出して、「信楽」の身にさせるのが18願、という勘違いです。
会員には、どこが間違いか全く判らないでしょうが、「信楽」は信心であって、「信楽」の身にさせるというものではないです。
18願は、「信楽」という信心を獲た人を浄土に生まれさせるという誓いです。
『尊号真像銘文』に
至心信楽をえたるひと、 わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
とある通りです。
これでも会員は理解できないと思いますので、もう少し説明すると、「信楽」が因で「浄土に生まれる」が果です。「信楽」は果ではありません。
会員は混乱していると思いますので、18願文の言い換えを紹介します。親鸞聖人は『大無量寿経』の異訳経で18願文を説明されています。
『教行信証』行巻に『大阿弥陀経』と『平等覚経』とを引かれて
諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。
諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ
「歓喜踊躍せんもの」を「わが国に来生せしめ」です。
「歓喜踊躍」=「信楽」=因
「わが国に来生せしめ」=果
「歓喜踊躍せんもの」を「歓喜踊躍させる」という誓いではありません。
言い換えると、
信心を獲た人を信心の身にさせるという誓いではありません。
もう一つ言い換えると
「信楽」を獲た人を「信楽」の身にさせるという誓いではありません。
もっと言うと、18願は信心を獲させる願ではなく、信心を獲た人を浄土に生まれさせる願です。もし、18願が信心を獲させる願ならば、阿弥陀仏が成仏された時点で「十方衆生」は信心を獲ていることになりますが、そうではありません。なぜなら、信心を獲させる願ではなく信心を獲た人を浄土に生まれさせる願であるからです。
これでも思考停止の会員には、理解できないかもしれません。
カルトは恐ろしいです。
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コメント
高森の言うことを聞いていると狸にさせられる!
投稿: | 2019年4月15日 (月) 00時03分
http://kazoku.sub.jp/
こういう反論?サイト見つけましたので、話の種になると思います
投稿: うずら | 2019年4月15日 (月) 23時33分
そのサイトは、私が脱会する!と講師部員に言った時に「飛雲や瓜生や宮田の言うネット情報は嘘で既に親鸞会は破っている」と言って教えてくれましたね。情報が古くて更新されてないし、そもそも書き込みも出来ないし、親鸞会お得意の元と文章を示さず一部だけ示して反論した体にしてますね。内部向けの自慰行為ですね。寧ろ私は冷めましたよ。これ以上のものは親鸞会は出せないなだな〜と。すると高森先生は〜どうたらこうたらと、親鸞聖人を抜きにして高森先生のご苦労ばなしと恩を感じないのか!と言われました。知識帰命です。冷めたらハッキリしました。
投稿: チュウビ | 2019年4月16日 (火) 12時22分
良い点をつかれました。
投稿: | 2019年4月16日 (火) 13時53分
親鸞会では、十八願を解説するとき、「至心の心、信楽の心、欲生我国の心」にしてみせるぞと説きます。
また、十八願をまとめると「どんな人をも、必ず助ける、絶対の幸福に」と説かれます。
こうなると、信楽を「因でなく果」で扱うとも見えます。
でも「若不生者のちかいゆえ、信楽まことにときいたり」なるご和讃では「果」ともよめますね。これも一つの原因かもしれません。
いずれにしろ、十八願、十九願、二十願をみると、「欲生我国」の前に何が願われているのか、煩悩具足の凡夫に阿弥陀仏は何を求めているのか。
飛雲師はよく見ておられます。よくよく教えられました。
なんまんだぶ あんがたい
投稿: 教えらえました | 2019年4月17日 (水) 09時13分
教えられました様
この和讃の意味は
若不生者の誓いであるから、「信楽がまことにとき至って一念慶喜する」人は、往生が必ず定まるのだ
ということで、
信心を獲た人は往生が必ず定まるのだ
ということです。
若不生者の誓いであるから、「信楽がまことにとき至る」のではなく、
若不生者の誓いであるから、こういう人は、往生が必ず定まるのだということです。
『尊号真像銘文』の
「若不生者不取正覚」といふは、(略)このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
と同じことです。
投稿: 飛雲 | 2019年4月17日 (水) 09時25分
腑に落ちました、ありがとうございます。
「利他の信楽うるひとは、願に相応するゆえに」のご和讃もまた誤解しやすく思います。
信楽=信心と取ればいいですが、
これなんかも穴に落ちやすいです。
なんまんだぶ あんがたい。
投稿: 教えられました | 2019年4月18日 (木) 07時32分
「利他の信楽うるひとは」とは他力の信心を獲得した人はということ
「願に相応する」とは信心をうることは阿弥陀仏の本願の趣旨にかなっているということ
「教」とは釈迦の教え
「仏語」とは諸仏の言葉
まとめて言いますと、
他力の信心を獲得した人は、阿弥陀仏の本願の趣旨にかなうので、また、釈迦の教えと諸仏の言葉に違わないようになるから、外からのさまざまな妨げ(や煩悩)によって、信心を乱されることがない。(正念を失することがない)
というように信心を獲たらどうなるかについて教えられた和讃です。
となります。
投稿: 飛雲 | 2019年4月18日 (木) 07時39分
ここで言われる「信心」は、ご開山は”全文他力”とあじわわれています。浄土宗も”信順”と味わわれています。信心に迷うわけです。どうしても自分が出るように思います。
なんまんだぶには、それらが包含されていると理解しながら、無意識に唱えています。
なんまんだぶ あんがたい
投稿: 教えられました | 2019年4月20日 (土) 08時38分
ひさびさにコメントさせていただきます。Abcです。
>もっと言うと、「18願」は「信心を獲させる願」ではなく、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」です。
>もし、18願が信心を獲させる願ならば、阿弥陀仏が成仏された時点で「十方衆生」は信心を獲ていることになりますが、そうではありません。
>なぜなら、「信心を獲させる願」ではなく「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」であるからです。
大筋は間違ってはいませんが、なにやら疑問が残る文面ですね。
「18願」<>「信心を獲させる願」
「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」 ですか。
わたしは、「18願」=「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」に疑問が残ります。たしか、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」は「33願」や「11願」が担っており、「18願」は、
『顕浄土真実教行証文類 信文類』
「それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。
【乃至】
大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。」 と言われております、
また、
「しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。」と「私の側(自力)では「虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。」とあります。
和讃に「こころは蛇蝎のごとくなり」ともいわれている心であります。
そのうえで今一度ご確認しますが、
「「18願」は「信心を獲させる願」ではなく、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」」と「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」つまり「願生我国」に限定された心はどのようなものでありましょうか。
この書物には、
「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」とのたまへり。」とございます。
誠に、お手数ではございますが今一度記していただけると幸いです。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2019年5月14日 (火) 00時26分
Abc様
>たしか、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」は「33願」や「11願」が担っており
エントリーですでに書いた通りですが、『尊号真像銘文』に
至心信楽をえたるひと、 わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
とあります。これが「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」でないと仰るのであれば、この文がどのような意味なのかを教えてください。
18願に「至心信楽欲生我国」と信心が明記されていることは言うまでもありません。そして阿弥陀仏が信心を獲させようとはたらいておられることも間違いありません。しかし、18願文の中には、「十方衆生が信心を獲なければ仏に成らじ」とは誓われていないということを説明しただけの話です。
もし「十方衆生が信心を獲なければ仏に成らじ」が18願の内容とAbcさんが解釈されるのであれば、それは高森会長の解釈と同じになります。
親鸞聖人は、「たまたま行信を獲ば」と仰っています。「たまたま」です。
親鸞聖人の18願文の言い換えは、七高僧の解釈を引き継がれて『教行信証』に引かれています。
もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得(十住毘婆沙論)
あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶び、
すなはち一念に曁ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずればみな生ずることを得。
ただ五逆と謗正法とを除く。(讃阿弥陀仏偈)
もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ(観念法門)
「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。(往生礼讃)
以上の中で「十方衆生が信心を獲なければ仏に成らじ」という意味の表現があるなら、教えてください。
また親鸞聖人ご自身のお言葉で18願文を言い換えられたものとして『御消息』の
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。
があります。
18願文の解釈の表現としては3通りありまして、
1.信心を獲た人が、わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじ
2.念仏を称えた人が、わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじ
3.信心を獲て念仏を称えた人が、わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじ
です。信心と念仏は別ではないので、3つ共に同じ意味です。
なお、お時間があれば、参考までに以下をお読みください。
https://blog.goo.ne.jp/soifull/e/2cd029f2effea2dc2f12c395fc5a023f
https://blog.goo.ne.jp/soifull/e/8ac6e242395d80162409a630dbafe288
浄土宗の僧侶が書いたものですので、一部疑問はありますが、概ねこの通りと思っております。
投稿: 飛雲 | 2019年5月14日 (火) 06時52分
>たしか、「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」は「33願」や「11願」が担っており
33願は、触光柔軟の願
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触るるもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。もししからずは正覚を取らじと。
11願は、必至滅土の願
たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ
これがなぜ「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」になるの?
全く理解できん。
投稿: ?? | 2019年5月14日 (火) 10時25分
こんばんわ、Abcです。
飛雲さん
ご返信ありがとうございます。
>18願に「至心信楽欲生我国」と信心が明記されていることは言うまでもありません。そして阿弥陀仏が信心を獲させようとはたらいておられることも間違いありません。しかし、18願文の中には、「十方衆生が信心を獲なければ仏に成らじ」とは誓われていないということを説明しただけの話です。
→『信巻』で示したように、「それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。」とありますので、「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」であり「弥陀回向の往相回向の願心より出でたるもの」という解釈であります。 ということは、この逆説の「十方衆生が信心を得なくとも私は仏になる」ということでしょうか?
この「十方衆生」は飛雲さんのいわれているように「念仏者も聖道仏教者も外道のものも」という「十方衆生」ではないことは私も認めるところでありますし、高森さんが言われている「絶対の幸福」という現世利益でないことも認めるところであります。
>もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ(観念法門)
>「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。(往生礼讃)
「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、 :設我得仏十方衆生、 :十方衆生が
わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、 :信心を
もし生ぜずは、正覚を取らじ :獲なければ仏に成らじ」
にあたるかと思います。
この解釈が「高森さんと同じ解釈である」といわれるのは容易に塑像できますが、高森さんは加えて「念仏ないから信心ひとつ」という念仏誹謗をされておりその点が一番の納得いかないところであります。
??さん
>33願は、触光柔軟の願
>11願は、必至滅度の願
>これがなぜ「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」になるの?
全く理解できん。
33願の解釈として『和讃』には
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
とされており、「摂取不捨の利益」と呼ばれるものであります。
「念仏の衆生を見られて ≪摂め取られてすてることがない≫願」ことより
「信心を獲た人を≪浄土に生まれさせる≫願」となります。
『正信念仏偈』には、
「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」とございまして、
このうち、「大悲無倦常照我」が「33願」であるという見方であります。
11願の解釈としまして『和讃』には、
「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる
不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ」とあり、このうち、
「真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退のくらゐにいり」が「18願」であり、
後の「かならず滅度にいたらしむ」が「11願」にあたります。
ですから命題の「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」の「浄土に生まれさせる」が「かならず滅度にいたらしむ」にあたるため、「11願」と私は指定しました。
真宗は「全ては18願のうちである」と言われればそれまでではありますが、そこから細分化したものが、「11,12,13,17,18,19,20,22,33願」であります。「11願」は『証巻』に、「12,13願」は『真仏土巻』に、「17願」は『行巻』に、「18願」は狭義では、『信巻』にあたり 広義では『教行証 全六巻』にあたり、「22願」は『教巻』に、「33願」は「信心を獲て念仏を称えた人が、わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじ」にあたりますから、『行巻』と『信巻』にあたります。
コメントありがとうございます。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2019年5月14日 (火) 21時38分
Abc様
正直申しまして、かなり論理の飛躍があります。
まず私の質問
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『尊号真像銘文』に
至心信楽をえたるひと、 わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
とあります。これが「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」でないと仰るのであれば、この文がどのような意味なのかを教えてください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
には、どのようにお答えくださるのでしょうか?
次に、紹介したリンク先を読まれなかったのでしょうか?
何によって信心を獲るのか、という直接の説明がありますので、一度お読みください。
そのうえで、
「真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり」の説明が抜けておりますが、「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」と並列になっている意味をお考え下さい。
そして
>もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ(観念法門)
「信心をもし生ぜずは、正覚を取らじ」
と解釈された根拠をお示しください。
親鸞聖人はこの御文を「ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり」と解説為されています。
再度『尊号真像銘文』のお言葉
至心信楽をえたるひと、 わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
『唯信鈔文意』
「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。
>もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ(観念法門)
の解釈を親鸞聖人は『尊号真像銘文』は繰り返しになりますが、念のため全文
「若我成仏」と申すは、法蔵菩薩誓ひたまはく、もしわれ仏を得たらんにと説きたまふ。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生なり、すなはちわれらなり。
「願生我国」といふは、安楽浄刹に生れんと願へとなり。「称我名字」といふは、われ仏を得んにわがなをとなへられんとなり。「下至十声」といふは、名字をとなへられんこと下十声せんものとなり、「下至」といふは十声にあまれるものも聞名のものをも往生にもらさずきらはぬことをあらはししめすとなり。
「乗我願力」といふは、「乗」はのるべしといふ、また智なり、智といふは願力にのせたまふとしるべしとなり、願力に乗じて安楽浄刹に生れんとしるなり。「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。
親鸞聖人が仰ったことをそのまま私は書いているだけですが、親鸞聖人のなされた解釈に異論があるということでしょうか?
投稿: 飛雲 | 2019年5月14日 (火) 22時06分
>「念仏の衆生を見られて ≪摂め取られてすてることがない≫願」ことより
>「信心を獲た人を≪浄土に生まれさせる≫願」となります。
> 『正信念仏偈』には、
> 「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
> 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」とございまして、
>このうち、「大悲無倦常照我」が「33願」であるという見方であります。
要するに、Abcさんの”見方”であって、そのように親鸞聖人が仰ったわけではないですね。
>ですから命題の「信心を獲た人を浄土に生まれさせる願」の「浄土に生まれさせる」が「かならず滅度にいたらしむ」にあたるため、「11願」と私は指定しました。
これもAbcさんの”指定”であって、親鸞聖人が仰ったわけではないですね。
なお
「浄土に生まれさせる」その後に「かならず滅度にいたらしむ」
です。
見方も指定も結構ですが、根拠のないことと親鸞聖人が仰ったこととは区別して頂かないと、高森会長と同じですよ。
投稿: | 2019年5月14日 (火) 22時19分
Abcさんへ
念仏は18願に誓われていると高森さんも言っていますよ。「救われた後のお礼の念仏まで用意されている」です。
そうなるとAbcの主張は高森さんと同じになります。
「信心を生ぜずは」はもちろん「他力の信心を生ぜずは」でしょう。
信心と念仏が18願にあるので、同じことで
「念仏を称えさせずは」で、これももちろん「他力の念仏を称えさせずは」ですよね。
つまりですね、
Abcさんの主張 (他力の)信心を生じさせて(他力の)念仏を称えさせずは
高森さんの主張 (他力の)信心を生じさせて(信後のお礼の)念仏を称えさせずは
どこが違いますか?
投稿: ?? | 2019年5月15日 (水) 09時18分
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。(信巻)
いまし如来の加威力によるがゆゑに、博く大悲広慧の力によるがゆゑに、清浄真実の信心を獲るなり。(浄土文類聚鈔)
「如来の加威力」「大悲広慧の力」によって信心を獲るとあります。「大悲」は「大悲の願」である17願のことです。
投稿: | 2019年5月15日 (水) 09時30分
こんばんわ、Abcです。
いろいろとコメントありがとうございます。
飛雲さん
>もし、18願が信心を獲させる願ならば、阿弥陀仏が成仏された時点で「十方衆生」は信心を獲ていることになります。
わたしは、このいま議論されている質問をした当初から「もし、18願が信心を獲させる願ならば、阿弥陀仏が成仏された時点で「十方衆生」は信心を獲ていることになる」というところにギモンをもっていたのですが、リンク先を参照しますと「十劫安心」のことなのですね。ありがとうございます。
そして、言い訳がましくなってしまいますが、私が最初に示した文章には、
>大筋は間違ってはいませんが、
と記しています。私が飛雲さんの文章(若しくは親鸞聖人が示された18願の文章)に真っ向からの対立があったならば、「飛雲は、聖教にないことをいっている」ともっと強い口調で伝えると思いますし、私が上に示しました文章には私自身そのように記しません。
>18願は、「信楽」という「信心を獲た人を浄土に生まれさせる」という誓いです。
>『尊号真像銘文』に
>至心信楽をえたるひと、 わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
>とある通りです。
私は、『教行証 信文類』に
「次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。」の意より、
「利他回向の至心をもつて信楽の体とする」から
「信楽」という「信心を獲た人を浄土に生まれさせる」
という、「欲生我国」だけが「信楽」の体ではないのではないか と記させていただきました。
ですから、飛雲さんが末尾に問われている
>親鸞聖人が仰ったことをそのまま私は書いているだけですが、親鸞聖人のなされた解釈に異論があるということでしょうか?
につきましては、今しがた中ほどに記しました「信楽の体について」ということであります。
ですが、このよう他の同行を混乱させてしまいましたことは私の不手際であります。信にもうしわけございません。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2019年5月15日 (水) 21時09分
文章では伝わりにくい部分がありますので、ズレもあろうかと思います。
お互いにある程度理解できれば、これで終わりにします。
いずれにしましても、聖教に書かれてあることに沿ってブログを書いていくだけですので、間違いがあれば指摘してください。
投稿: 飛雲 | 2019年5月15日 (水) 21時33分
この度は数々のコメントありがとうございました。Abcです。
>文章では伝わりにくい部分がありますので、ズレもあろうかと思います。
>お互いにある程度理解できれば、これで終わりにします。
>いずれにしましても、聖教に書かれてあることに沿ってブログを書いていくだけですので、間違いがあれば指摘してください。
私の側も「お聖教」に従ってコメントを記させていただいておりますが、いまのように論理の飛躍が起きてしまうことも事実であります。
「11願」については『証巻』に、「33願」については「真仏弟子釈」に記されております。例として、『正信偈大意』を示しておきます・
11願:必至滅度願
「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。『和讃』(高僧和讃・二〇)にいはく、「願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり」といへり。これをもつてこころうべし。
33願:触光柔軟の願 (摂取の光明)
「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれどもかの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしましますといへるこころなり。
『教行証 信文類(末)』
「 真の仏弟子(散善義 四五七)といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。」
と各々ございます。
>根拠のないことと親鸞聖人が仰ったこととは区別して頂かないと、高森会長と同じですよ。
と言われましたので、各々根拠を示させていただきました。
>見方も指定も結構ですが、
と言われましたが、この「見方」及び「指定」をされたのはほかならぬ善信御房ですので、そのようにご報告させていただきます。
(ただその書物は 下間蓮崇 によってバラバラにされており、大谷には「バラバラな状態」で末寺にございます。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2019年5月16日 (木) 23時09分
この度は数々のコメントありがとうございました。Abcです。
>文章では伝わりにくい部分がありますので、ズレもあろうかと思います。
>お互いにある程度理解できれば、これで終わりにします。
>いずれにしましても、聖教に書かれてあることに沿ってブログを書いていくだけですので、間違いがあれば指摘してください。
私の側も「お聖教」に従ってコメントを記させていただいておりますが、いまのように論理の飛躍が起きてしまうことも事実であります。
「11願」については『証巻』に、「33願」については「真仏弟子釈」に記されております。例として、『正信偈大意』を示しておきます・
11願:必至滅度願
「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。『和讃』(高僧和讃・二〇)にいはく、「願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり」といへり。これをもつてこころうべし。
33願:触光柔軟の願 (摂取の光明)
「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれどもかの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしましますといへるこころなり。
『教行証 信文類(末)』
「 真の仏弟子(散善義 四五七)といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。」
と各々ございます。
>根拠のないことと親鸞聖人が仰ったこととは区別して頂かないと、高森会長と同じですよ。
と言われましたので、各々根拠を示させていただきました。
>見方も指定も結構ですが、
と言われましたが、この「見方」及び「指定」をされたのはほかならぬ善信御房ですので、そのようにご報告させていただきます。
(ただその書物は 下間蓮崇 によってバラバラにされており、大谷には「バラバラな状態」で末寺にございます。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2019年5月16日 (木) 23時10分
システムの不具合で、2度送られてしまいました。
もうしわけございません。
Abc
投稿: Abc | 2019年5月16日 (木) 23時11分
Abcさんは論理の飛躍というか、御文の理解がずれています。
まず11願については浄土往生した人を成仏させる願です。滅土、大涅槃は仏の覚りですよ。
三願的証をご存じないのでしょうか?
ただし親鸞聖人の11願の解釈は18願で往生が定まった人が死後に浄土往生即成仏させる願だとされているのですが、その常識がずれています。
33願については、なぜ「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」なのか、さっぱりわかりません。
親鸞聖人あるいは蓮如上人が、33願の説明として「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」を出されているのですか?それとも源信僧都が33願の解釈の中で「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と仰ったのですか?いずれでもなければ、根拠のないAbcさんの勝手な解釈ですよ。
投稿: ?? | 2019年5月17日 (金) 05時49分
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
なぜこれが33願なのかも不明です。
これは阿弥陀経についての解釈ですよね。
Abcさんの理解が全く理解できないです。
投稿: ?? | 2019年5月17日 (金) 09時43分
??さん
コメントありがとうございます。このように食いついてきてくれる方がいるのは久しぶりです。
>まず11願については浄土往生した人を成仏させる願です。滅土、大涅槃は仏の覚りですよ。
三願的証をご存じないのでしょうか?
ただし親鸞聖人の11願の解釈は18願で往生が定まった人が死後に浄土往生即成仏させる願だとされているのですが、その常識がずれています。
33願については、なぜ「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」なのか、さっぱりわかりません。
親鸞聖人あるいは蓮如上人が、33願の説明として「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」を出されているのですか?それとも源信僧都が33願の解釈の中で「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と仰ったのですか?いずれでもなければ、根拠のないAbcさんの勝手な解釈ですよ。
>「まず11願については浄土往生した人を成仏させる願です。滅土、大涅槃は仏の覚りですよ。三願的証をご存じないのでしょうか?ただし親鸞聖人の11願の解釈は18願で往生が定まった人が死後に浄土往生即成仏させる願だとされているのですが、その常識がずれています。」
「三願的証」とは「18,11,22願」についてでありますね。私もこの事につきましては林遊さんに何度か尋ねたことがありますので、記憶しております。
「親鸞聖人の11願の解釈は18願で往生が定まった人が死後に浄土往生即成仏させる願だとされている」については異論がありません、「邪往生・不往生の機」は「化土往生」となりますから、「11願」へは行きません。
>「33願については、なぜ「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」なのか、さっぱりわかりません。
親鸞聖人あるいは蓮如上人が、33願の説明として「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」を出されているのですか?それとも源信僧都が33願の解釈の中で「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と仰ったのですか?いずれでもなければ、根拠のないAbcさんの勝手な解釈ですよ。」
『顕浄土真実教行証文類 信巻(末)』真仏弟子釈 には、
「真の仏弟子(散善義 四五七)といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。
第三十三願 触光柔軟の願
『大本』(大経・上 二一)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触るるもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。もししからずは正覚を取らじと。
第三十四願 聞名得忍の願
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ」と。
『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、周遍十方無量無辺不可思議無等界の有情の輩、仏の威光を蒙りて照触せらるるもの、身心安楽にして人・天に超過せん。もししからずは菩提を取らじ」と。{以上}
また(大経・下 四七)、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり」とのたまへり。
またのたまはく(同・下 五九)、「それ至心ありて安楽国に生ぜんと願ずれば、智慧あきらかに達し、功徳殊勝なることを得べし」と。
また(如来会・下) 、「広大勝解者」とのたまへり。
また(如来会・下)、「かくのごときらの類、大威徳のひと、よく広大異門に生る」とのたまへり。
またのたまはく(観経 一一七)、「もし念仏するひとは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり」と。」
とございます。此処に33願と34願が示されておりますが、「33願」とさせていただきました。この事につきまして、「33願と34願を提示せねばならないのではないか」と申されたならば、こちらの説明不足ではございます。
私は、今示した「有情の輩、仏の威光を蒙りて照触せらるる」を「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」とみて、
「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」の『正信偈』の箇所
「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と示しました。
同時に??さんが、『お聖教』の中でなおかつ的確にうらずけされているものしか「論拠として用いてはならない」と言われていることも判りました。
私を貶すのも結構ではありますが、貶す際はただ「お聖教に示されてはいないから」だけではなく、「Abcのいわれている箇所を認めた場合、この文章のこの箇所にそぐわないが、どのようなことか」と尋ねられてください。
長文、失礼しました。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
投稿: Abc | 2019年5月17日 (金) 22時51分
>「Abcのいわれている箇所を認めた場合、この文章のこの箇所にそぐわないが、どのようなことか」
要するに、お聖教にはないAbcさんの独自の解釈で、Abcさんの解釈を裏付けるものはAbcさんの頭の中ということですね。
高森さんや火星人ルパンと同じであると分かりました。
これ以上お話は無駄ですので、これで終わります。
投稿: ?? | 2019年5月17日 (金) 23時11分