基本的な言葉である「自力」さえ親鸞聖人の定義とは、無関係の高森顕徹会長
今日と明日は、高森顕徹会長の話の少ない親鸞会の降誕会です。本日も、高森会長は何教なのか判らない話をしていました。
特に、自力についての説明が
親鸞聖人の仰る自力とは、死んだらどうなるか判らない心
と言っていました。親鸞会の会員はこれで納得しているのでしょうが、親鸞聖人がそのようなことを仰った箇所は皆無です。
親鸞聖人の自力の説明を、9年前のmixiでの三願転入の法論で退会者から明示されているにも関わらず、妄想で創りあげた高森定義を改めずにいます。改める以前の問題として、高森会長には親鸞聖人の自力の定義を理解できないのだと思います。
思考力がある人向けに親鸞聖人のお言葉を列記しておきます。
『唯信鈔文意』
自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。
(現代語訳)
自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無礙光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。
『一念多念証文』
自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。
(現代語訳)
自力というのは、わが身をたのみとし、わが心をたのみとすることであり、自分の力を頼って行にはげみ、自分がつくるさまざまな善を頼りにする人のことである。
『末灯鈔』
まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。
(現代語訳)
まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。
『教行信証』化土巻
定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。
(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。
以上をまとめると親鸞聖人の言い方は
・みづからが身をよしとおもふこころ
・わが身をたのむ
・わが心をたのむ
・あしきこころをかへりみる
・余の仏号を称念する
・余の善根を修行する
・身・口・意の三業の乱れをとりつくろう
・めでたうしなす
・罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す
となります。かなり具体的に説明されてされていて、ほとんどが、親鸞会の教えと真っ向から対立するものです。
以上のどこに、
死んだらどうなるか判らない心
というようなお言葉があるでしょうか。近いニュアンスさえありません。
明日の座談会でも、更に迷走するでしょうが、とりあえず今日はこのくらいで。
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