高齢者による事故が問題になっていますが、高森顕徹会長の話も重大な事故です
本日の高森顕徹会長の話は、迷いに陥った内容です。
たとえば、
阿弥陀仏の本願は、「死んだらどうなるか判らぬ心を無くす」お約束
だとか、
苦しみの根源が、「死んだらどうなるか判らぬ心」
さらには、
日々煩悩で苦しんでいるが、それは葉や花のことで、苦しみの根幹でない
とか言っていましたが、一体どこの宗教の話をしているのかと言わざるを得ません。
超高齢でまともでない高森会長とその信者のために、仏教と真宗のイロハの話をしておきます。
親鸞聖人は曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』を『教行信証』真仏土巻に引かれて
われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。(現代語訳)
わたしははかり知れない昔から迷いの世界にあって、生れ変り死に変りし続けている。
わたしの行いはすべて、わたしの足を迷いの世界につなぎとめ、苦しみの世界にとどまらせる。
と仰っています。死んだらどうなるか、という問いに対して
「足六道に繋がれ三塗に滞まる」
その苦しみの根源は、
「一念一時に造るところの業」
です。
次に、親鸞会でも知っているであろう『教行信証』信巻の
しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。(現代語訳)
ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。
です。死んだらどうなるかについて
「無明海に流転し、諸有輪に沈迷し」
で、苦しみの根源は、
「愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く」
と仰っています。
他にもたくさんありますが、結論としては、
死んだら迷いの世界を流転輪廻すると教えられてそれを信じていることを前提として、阿弥陀仏の本願を求めているのですから、今更、それ以上判る必要もありませんし、救われたらそれがハッキリするとも教えられていません。そして、流転輪廻している原因は、煩悩だと教えられているのが、仏教であり、親鸞聖人だということです。
ただし、別の言い方として、阿弥陀仏の本願を深信すれば迷いの世界を出ることができるので、流転輪廻の原因を阿弥陀仏の本願を疑っていることだとも言える訳です。
いずれにしても、「死んだらどうなるか判らぬ心」が苦しみの根源とか、意味不明の妄想以外の何物でもありません。
高森会長の年齢も年齢ですから、エビデンスを期待する方が無理なのでしょう。
最近のコメント